TARのケイト・ブランシェット、つまり自分は公正だと信じてるけど、「周囲が次々離反する程度にはワインスタインのような支配的関係を利用する怪物」として見なされたってことだよね? それが真相なのか偏見なのかは判定しきれないとして。
これを男の立場で描くとほとんどジャニー喜多川とジャニーズ青少年たちの話になってしまうところを、「才能に溢れたケイト・ブランシェット」の演技と優れた背景美術とで巧く“糊塗”してみせたという、怖い映画だよ。
マーラーの5番が一時的になくなったのは、すでに訴訟が明るみに出る計画が進んでいて、リディア・ターの代理指揮者に読ませる準備を進めていたんだろうな。最後に譜面に十字架を描いた男性奏者が実行チームの中心に動いていた可能性が高い。
キャスティングカウチからも自由であるようなロシア出身のチェリストと、隣の家の死にかけの老人と介護女性の位置付けはまだうまく言えない。
以下、よかったところ:
-冒頭からエンディング風。振り返れば、あのメッセージのやり取りはクリスタと秘書のものだったか?
-極めて豪奢な部屋のキッチンテーブルに、まるで定位置であるかのようにキーを捨てるところ。
-ランニング中の悲鳴に不審そうな顔でランしていくケイト・ブランシェット
-実のところ、バッハを否定する男子学生と丁寧にやり取りするリディア・ターの態度は好ましく、「貧乏ゆすりを止める」シーンはあってうれしかった(のちに悪用されたが)。その後副指揮者もカチカチとボールペンを鳴らす悪癖がフィーチャーされたな。
-このキャスティングカウチ疑惑女! と副指揮者に実質的に言われかけたところを逆手に取って逆に責めまくるケイト・ブランシェット。駆け引きが嫌な意味でうまい!
-抹茶を平然とねだるクセに、待たずにスパーリングに行くケイト・ブランシェット。本人としては内的一貫性があるんだろうけど、他人から見たら普通に嫌がらせにしか思えないよ。気をつけていればヘイトを稼がずに済んだろう。
-精神の病み度合いと幻聴の関係が、長い放映時間とさりげなさとがくみあわさってわかりづらいですね。水辺のベッドの上で体の中心から燃えてゆく象徴的な夢の映像は恐ろしくも美しかった。
-好意はあるけど……あなた以外を副指揮者に……と言ったところで諦めの笑顔を浮かべた秘書さん(おそらくクリスタの件に同情を覚えた、「キャスティングカウチされる側の女」自認があった人だと思われる。打算とクリスタの境遇を天秤にかけて、リディア・ターを告発する方を選んだ可能性が高い。
-RAT RAT RAT
-「新鮮な肉(fresh meat)がきたよー」、マリオでもありましたね。
-くまのぬいぐるみを持って地下に勝手に行って勝手に怪我するケイト・ブランシェット。あれ暴漢というより狼みたいな正体不明の影に見えたんだけど、なに? あとクマはまさかそのために置いたわけではないよね?(普通の人間はクマのぬいぐるみを忘れたからといって人の家まで上がり込もうと追いかけたりはしない)
-ニューヨークの公演をLIVEでディスるオルガ。「時差ボケで眠いんですぅ〜」と言いながらちゃっかり1人でドレスアップしてどっかに出かけていった強かなオルガ。
-売れないですよね〜そりゃー音出てたら売れないですよね〜(アコーディオンで歌い出す)
-最後のほうのホールへの道行の廊下の高さがアジアン仕様
-一度故郷に戻った(よね?)時の、長らく調律がなされていないピアノを数音弾いて(もはやスクリーンにさえ映り込まない)、すぐに弾くのを諦めて戻ってくるケイト・ブランシェット
-『地獄の黙示録』の置き土産としてのワニ……えっ、ワニ元からいたわけではないの? 調べよ。つまりベトナムに行ったってことよね。→『地獄の黙示録』はベトナムではなくフィリピンで撮られたそうだ。つまりフィリピンで再起を目指したということか。
-マッサージ店をおすすめしてもらったら、性感風俗店を薦められてしまったことに気付き、しかも「5番」をあてがわれかける。その事実にリディア・ターは耐えきれず嘔吐する。(ここから察するにあくまで彼女は、自然体で強い女、かつ自覚的なレズビアンとして強固に恋愛を生きてきただけで、本当にワインスタインやジャニー喜多川のような支配関係に人を置くようなタイプのやりとりを好んでしたわけではないのではないか? 彼女が「社会的に強いレズビアン、でもある」というだけのことが、周囲を巻き込んでどんどんややこしいことになっていったことを、巨悪のようにも取れる曖昧な演出で塗り重ねられているように思う(ただ、リディア・ターは、その権力の行使がどうとられるかについてあまりに無防備で無造作であるようには思われる。オルガを自分の“カウチ”ハウスに招いてしまって、しかもベッドの裾をハラハラめくってるところとか、下心みえみえのオッサンの女性版みたいでちょっと笑ってしまった。無邪気すぎるんだろうな。「悪の自認がないことが悪の定義」とかつて福田和也は言った。
-仮装大会の引き立て役、なに?(これから考える)→あれモンハンのゲーム音楽なんだな。コスプレ大会か仮装有りの卒業式なよか?
▼2023-05-25午前追加
イチカワユウ. 2022. 政治的スイッチを切れば芸術的名作として楽しめる『TAR/ター』 - アート、woke、クィア. #あたシモ. https://www.atashimo.com/entry/tar_movie.
重要な論点について話しているが、自分はTARと言う映画が「バックラッシュ勢にとって都合のいい浅薄なレズビアン像を提供してしまっている」という風には考えない。けれども他の観客を信用せずそういう危惧をしてしまう人がいることは多少理解する。(私はレズビアン当事者じゃなく、このブログの著者がレズビアン当事者だから、立場の違いというのは当然ある。レズビアン当事者の人がこの映画に対して寛容であるのは、レズビアン当事者への社会的な抑圧を考えると、難しいのも当然と思われる。)
自分は社会的公正を目指す人間をwokeと嘲笑う人間は好きになれないけど、一方でリディア・ターのような芸術系教員が「バッハを政治的にクソな奴と考えていてはわかるものもわからない」と講座の場で言わねばならないのは当然のことで、そこを嘲笑と取ってはいけないと思う。
むしろリディア・ターのまずかったところは、音に対してセンシティブすぎるが故に貧乏ゆすり学生の太腿を押さえつけてしまったことだと思っている。自分はあの貧乏ゆすりが失礼すぎてあのwoke学生にまったく良い印象を持たなかったが、物理的に接触したのは明確にターの落ち度、守備力の低さだ。
「いまケイト・ブランシェットに“強くて政治的配慮のないレズビアン”をやらせてLGBT言説を後退させてどうすんの?」という言説自体、TARの内包する「芸術の達成を差し置いてwokeを優先する、芸術と向き合いきれていない学生たち」っぽくて、自分は良くないと感じる。
結局のところ、TARを評価するには、オーディエンス全体の「芸術(映画と音楽)」と「ジェンダー/セクシュアリティ言説」両方の練度が高く要求され、それについて「私は楽しんだが、世間はもっと浅薄にみるだろう」と考えるかどうかの問題ではないか。
自分がTARを鑑賞する上で最適格な人間だと自惚れることはありえないとしても、「TARについて優れた評論が増えることで、現在の芸術も、LGBT言説も、種々のハラスメントやオリエンタリズムの問題も、棄損することなくTARの危うさとしっかり向き合える環境はつくれるはずだ」と信じる側で居たい。
TARにおけるリディアは、道徳的に不完全で不善を成してばかりのクッソどうしようもない虚勢だらけの小人だが、芸術との向き合い方についてはwokeの学生たちにとやかく言われるようなダサいことは決して言ってなかった。その点で映画『セッション』のパワハラ教員の500000000000000倍は芸術をわかってる。
芸術の達成や向き合い方を以てハラスメントの温存に手を貸しさえしなければ、個々人の芸術との向き合い方の話は肯定的に話せると思うんですよね。(そこが現代において極めて難しいことは承知している。本人が亡くなった後でもないと評価しづらいが、亡くなると今度はハラスメントを弾劾しきれない)