杜野凛世のコミュを振り返りながら【われにかへれ】を読む
初出:2020年8月20日Privatterに投稿
初出時より一部修正
大テーマ(凛世自身のテーマ)
凛世の言葉がプロデューサーに聞き取られないこと(引用の問題)
青と赤の対比
小テーマ(このカードのコミュに出てくるテーマ)
現実の証拠について
凛世の物語を統一的に読むことについて何度も考えているのだけれど、なかなか難しい。凛世の物語について今のところ分かっているのは、凛世の発した言葉がプロデューサーに聞き取られない問題と、青と赤の対比の2つのテーマがあるということ。それは今回の【われにかへれ】でも引き続き出てきている。特に、青と赤の対比については今までは暗示されている程度だったと思うのだけれど、今回はっきりと明示されることになった。
今回の文章は3つの部分に分かれている。最初に、青と赤の色のテーマが凛世のコミュの中にあることを過去のコミュを振り返って確認し、【われにかへれ】「むらさき」をそのテーマの中で読むことを提案する。続いて、その「むらさき」で描かれる色の問題はこの【われにかへれ】固有のテーマである現実の証拠を求めるという問題とも重なっていることを確認する。色の問題と重なった現実の証拠を求めるという問題に対して、Trueコミュの「われにかへる」で答えが与えられていると思われる。最後に、その答えがどのようなものであるのかを、凛世の言葉が聞き取られない問題を過去のコミュを振り返って確認したうえで【われにかへれ】「月があたらしい」を読むことで考える。
* * *
◆色について
◇分光
色のテーマに気づいたのは、サンセットスカイパッセージの衣装に添えられた凛世のテキストについてのT.さんの指摘による。(参照→T.「水色感情とサンセットスカイパッセージ」https://privatter.net/p/5897774)
T.さんの指摘によれば、光はプロデューサーを通して分光する。「恋はみずいろ」の歌詞を参照すると、その分光した光は、「恋に伴うさまざまな感情」を意味している。この読解を支持するかのように、凛世は朝コミュ4において「それぞれの色の紙にそれぞれ異なった心が宿るようです」と色と心の関係について語っている。私はこのT.さんの指摘は当たっていると思う。
色に注目して凛世のコミュを見返すと、青いものと赤い(紅い)ものの2つに大きく分けられることが分かってくる。つまり凛世はプロデューサーを通して、青と赤とに分光される(それぞれ異なる感情を抱く)というわけである。(この分光するというイメージが、GRAD編に登場する劇中劇の分裂(あるいはコピーが作られる)の物語の原型なのではないかと思うが詳しくはまだ分からない。)
青:【微熱風鈴】の風鈴(桔梗の花の色)、【水色感情】のレコード(日本語での曲名は「恋はみずいろ」)
赤(紅):【杜野凛世の印象派】の鳥居とTrueコミュ「たちきれぬ」の線香、【十二月短篇】の紅(カルメン)と花火
青と赤(紅)にはそれぞれ凛世の異なる感情が読み取れるように思われる。
◇青
【微熱風鈴】の風鈴に描かれた桔梗の花は、「久遠の愛」の花言葉を持つ。凛世の物語における青は永遠性を示唆するように読める。
【微熱風鈴】「とことはに」では、風鈴のガラスについての話が交わされる。ガラスは止まっているようでいて、「千年も万年もかけて流れ続ける」と言われている。その話に対してプロデューサーは「じゃあ本当かどうか、一緒に見てみようか」と言う。千年も万年も、一緒に見ていようか、と。凛世は驚きつつちょっと嬉しそうな反応を見せる。
しかしここではおそらく、ガラスと桔梗の花の両方がともに永遠性を示しているわけではない。凛世はガラスについて「ゆるぎないように見えて」流れていると言っている。ガラスは不変ではない。「万事は目には見えなくても少しずつ変化している」。それに対して凛世は「変わらぬものもここに」と独り言ちる。その変わらぬものとは、風鈴に描かれた桔梗の花であり、「久遠の愛」である。凛世の気持ちは千年も万年も変わらない、と。
【水色感情】「A2.恋は何色(R.Morino)」でも、「とことはに」と似た会話が交わされる。(【水色感情】のレコードの読解についてはこちらを参照→https://fusetter.com/tw/ChwIG)
それはレコードのタイトルについてだ。レコードにフランス語が書かれていたのか、日本語が書かれていたのかは分からない。フランス語ならば「L'amour est bleu」であり日本語ならば「恋はみずいろ」である。このタイトルについて、凛世は「意味は知らない」と言うのだが、続けて「聴いていればわかるような気がして」とも言う。これに対してプロデューサーは「それじゃわかるまで聴こうか」と言うのだ。風鈴のガラスが流れていくのを見ようか、と言ったのに重なる。
おそらくフランス語の曲を聞いているだけで、曲のタイトルの意味が分かるようになるのに一体どれだけの時間が必要なのだろうか。それは千年も万年も必要ではないと思うけれども、やはり途方もない時間が必要だと思われる。それほどの時間を一緒に過ごそう、と言っていることになる。
もう一つ。【凛世花伝】「くもらす -kumorasu-」での水族館の中の描写。凛世は「館内は薄青く」と言っており、背景も水色になっている。ここで印象的なのは、「ジェラートはいつまでも溶けない」というモノローグ。一体ジェラートが何を示しているのかは分からないのだが、「溶けない」ということで不変性が示されているように読める。ジェラートは、仕事の一環(下見として)ではなく、プライベートで来たということでプロデューサーに買ってもらったもので、プライベートの凛世との繋がりを読み取るべきものであるのかもしれない。
このように青は永遠性、特にプロデューサーへの愛の永遠性を示していると読める。あるいは愛への確信。
◇赤(紅)
【杜野凛世の印象派】「drawing2(まどひあか)」での鳥居が赤色で、カードイラストにもなっている。
このコミュは、プロデューサーが凛世の知らない女性と一緒にいるところを目撃してしまい、戸惑った凛世が知らない山奥へと迷い込んでしまう不思議なエピソードになっている。凛世は「凛世を探しておられるでしょうか」と問いを思い浮かべる。
凛世の心に現われていた感情は、おそらく嫉妬や疑いだと思われる。気がついたときに凛世は「先も後ろも赤い鳥居」と赤に囲まれた世界の中にいた(背景の木々の葉も紅葉へと変化している)。凛世は「よくないこと」をしてしまったと後悔し、プロデューサーのもとへ帰りたいと願ったとき、狐の鳴き声が聞こえ、狐に導かれてプロデューサーのもとへと戻ってくることができた。赤の世界からの帰還である。
ところでカードタイトルにもなっている「印象派」は、モネが始めた絵画技法とそれに基づく絵画運動で、印象派は色として光を捉えることで物の形を描く。【杜野凛世の印象派】からすでに、色と感情についてのテーマは隠されていたのだということに気づく(もっと言えば朝コミュでも語られていることなので、最初からである)。
先に【十二月短篇】について。(【十二月短篇】の読解についてはこちらを参照→「カルメン、カレンダー、書かれたもの:【十二月短篇】杜野凛世コミュについて感想とメモ」https://fusetter.com/tw/B1FZBn0W#all)
このカードコミュでは、繰り返しカルメンの名前が登場する。カルメンの名のつけられた口紅から始まり、カルメンそのものの物語も参照されている。カルメンの物語と凛世のエピソードが重ねられるのは、アニメーションが挿入される「紅の踊り子の主題・変」ではないかと思われる。
仕事の終わりに屋上で花火が見られるという話になり、屋上へ行く凛世とプロデューサー。しかしプロデューサーには別の仕事があり、ずっと一緒には見ていられない。プロデューサーを見送る凛世は「貴女なら引き留めたのでしょうか」と独り言ちる。「貴女」とはおそらくカルメンのことである。
オペラ「カルメン」には、カルメンが去っていくホセを引き留めるような場面がある。正確には引き留めるというよりは、帰ろうとするホセに対してカルメンは怒りを向ける。ホセはカルメンをなだめるように愛の歌を歌うのだが、カルメンは「あんたは私を愛していない」と言ってその愛を受け止めようとしない。カルメンは「私はあんたを愛していない」と答えるのではなく、「あんたは私を愛していない」と言うのである。カルメンにあるのは、ホセの愛の言葉に対する疑念である。
この場面が凛世の頭の中に浮かんでいたのではないか、と私は推測する。このとき凛世の心にどんな感情があったのかは分からないのだが、おそらく紅の色の感情があったとは言えそうだと思う。カードイラストを見ると、赤い花火はビルの窓ガラスに反射して写されている。ガラスや窓に写されてものを描く構図はシャニマスに繰り返し登場するが(cf「チエルアルコは流星の」「は~と♡に火をつけて」)、ガラスや窓に写ったものは、描かれている人物が見ているものであり、見ている人の心を示唆しているように見える。すると【十二月短篇】の花火は、凛世の見ているものであり、凛世の心の中を示しているのではないかと思われる。そしてここで見ていた花火の色について、凛世は紅だったと思い返している。紅の感情は、【杜野凛世の印象派】にあったように、嫉妬や疑念ではないか。だとすればカルメンとも重なるものとして読める。
しかし、凛世のもとにはすぐさまプロデューサーからのメッセージが届く。「たまやー。見えてるか」と。プロデューサーは「ひとりじゃ心細いよな」と心配しているのだ。メッセージを受け取った凛世は「ばかな凛世」と自分を諫めるのである。引き留めなくても「ひとつ空のもとに」一緒にいるのだと凛世は気づくのである。
【杜野凛世の印象派】Trueの「たちきれぬ」では、線香の火が赤色である(これは翡翠さんの指摘によるもの)。(「たちきれぬ」の読解についてはこちらを参照→https://fusetter.com/tw/rxiGH7eK)
「たちきれぬ」では、落語の演目「たちぎれ」を引用している。「たちぎれ」は、大店の若旦那が芸者に恋をするのだが、親族から反対され、若旦那は100日間蔵に閉じ込められてしまう。蔵から出た後、若旦那は芸者の店へと走るのだが、恋した芸者はすでに亡くなっていた。仏壇に線香を上げると、芸者の三味線が鳴り、歌が聞こえ始めるのだが、線香が消えた途端に三味線も歌も聞こえなくなってしまった。線香がたちぎれた(芸者との時間を計るために線香が用いられていたことに基づく)からである。
凛世はこの話に対して、「凛世の香は」「たちきれることは、ございません」と言う。線香の赤い火は、移ろいゆく時間、終わってしまう時を指しているように読める。凛世はそれを否定する。「たちぎれ」の演目に登場する三味線は、線香の火が消えると鳴りやんでしまうが、凛世の香はたちきれることはない、と言う。つまり凛世はいつまでも歌い続ける、と言っていることになる。ここに凛世の永遠性、不変性に対する意識が読み取れる。
このように赤(紅)は、嫉妬や疑念、移ろいゆく時間、終わってしまう時を示しているように読める。永遠性や、愛の核心と対極にある。
「たちきれぬ」を読み返して気がついたのだが、【微熱風鈴】の風鈴、「たちきれぬ」の三味線、【ふらここのうた】のブランコ、【水色感情】のレコード、【十二月短篇】の花火は、全てコミュの中でSEがつけられており、音が鳴るものの系列を為している。
特に三味線、ブランコ、レコードは、歌うものであるとされ、アイドルとしての凛世の歌を示しているようでもある。凛世は、香はたちきれることはないと言うし、レコードは凛世自身と重ねられている。【水色感情】Trueコミュ「R&P」では「プロデューサーさまが聴いていてくださるかぎり」(おそらく続きは「凛世は自慢のアイドルでございます」)と言っている。ここで「R&P」とは、Record&Playerであり、Rinze&Producerである。プロデューサーがレコードに対していった「わかるまで聴こうか」は、凛世にとっては凛世自身に向かってプロデューサーがそう思っていてほしい言葉でもある。(ところで「R&P」はサンセットスカイパッセージのテキストを踏まえて考えるとRainbow&Prismとも読める。)
凛世はプロデューサーによって永遠にアイドルで居続けるということを望んでいるかのようであるし、アイドルで居続けるかぎりプロデューサーのそばにいることができると考えているようでもある。青色に、凛世のアイドルとしての立場を結びつけたくなる。
◇むらさき
凛世のコミュの中でこのように青色と赤色(紅)は示唆されてきたが、【われにかへれ】「むらさき」でははっきりと明示されることになった。
ここではかき氷の色として登場する。プロデューサーと2人で撮影のために泊りがけの出張をしている。仕事で来ているのだが、半ば旅行気分でもある。
海の家(おそらく)で、プロデューサーと凛世はかき氷を食べる。プロデューサーがブルーハワイ、凛世がいちご。2人の舌はそれぞれの色に染まっている。「混ざったら紫になるのかな」とプロデューサー。凛世は「紫の舌はおそろしいです」と言う。
プロデューサーは写真に撮っておいたら、と提案する。凛世は雑誌に夏の写真を載せるのを依頼されていた。凛世自身にとっては、旅の思い出を残したいと考えている。(ここに2人の重要なすれ違いがある。)
凛世は自分の舌を出した写真をプロデューサーに撮ってもう。凛世はプロデューサーの写真を撮ろうとするのだが、プロデューサーには断られることになる。
「ありがとな」の選択肢では、凛世は写真に写る方であり、プロデューサーは写る人を支える方だと言って断られる。凛世は「混ざらないのですね」と独り言ちる。赤と青は混ざらない。そして「べー」と舌を出して終わる(「はちぶく」を連想する)。
「俺はいいよ」の選択肢では、かき氷の器を撮ったらと言われるのだが、そこにはプロデューサーのかき氷の器も写り込んでしまっていた。プロデューサーは、その部分は使う時はトリミングして切り取らないとと言う。「紫に」「してしまえばよかった」の声には感情がこもっていて素晴らしい(GRAD以後の凛世であることを感じさせる)。
「ダメダメ」の選択肢では、プロデューサーの写真も撮りたいと凛世は言う。「ふたつともに今日の思い出」なのである。だが、プロデューサーは凛世の携帯ではなくプロデューサーの携帯で撮るようにと言う。
赤と青は混ざらない。赤と青を一つの写真に収めておくことはできない。赤と青を一つの端末に保存しておくことはできない。赤と青の2つの色が混ざったり、一つの場所に隣り合わせになることはできないという、少し悲しいエピソードになっている。ここでは、赤はプライベートの凛世、青は仕事のアイドルの凛世と分けることができるだろう。プライベートの凛世とアイドルの凛世は混ざり合うことができない。あるいは一つの場所に隣り合わせになることはできない。
だがすでに見てきたように、赤と青はそれだけではない。赤には嫉妬や疑念、移ろいゆく時間や終わってしまう時が示唆されているように読めるのであり、青には愛の確信、永遠性や不変性が示唆されているように読める。
この「むらさき」においてもそれを読み取ることができるように思われる。それは、このコミュをこのカードのコミュ全体の文脈の中に位置づけなおすことで見えてくる。凛世自身のもう一つのテーマである、言葉が聞き取られないという問題と、このカード固有のテーマでもある現実性の証拠を求めることと繋がってくる。
◆現実の証拠について――カード全体の文脈
◇バスの写真
【われにかへれ】のコミュは、バスの中で凛世が写真を撮っているところから始まる。凛世が写真を撮ったことについてプロデューサーは、雑誌に乗せる夏の写真を撮っているのかと解釈する(この解釈が凛世の行為を正確に読み取れていないものであるということは、凛世の言葉が聞き取られない問題と重なっている)。プロデューサーはバスの中じゃなくて窓の外に写るものを撮ったらどうかと提案する。
目的地にたどり着きバスを降りた2人。プロデューサーはバスの中でぼんやりしていた凛世を心配する。凛世は、「これがまことでうつつのことか」「このようなところにプロデューサーさまと」「これがまことのことかどうかと」、と疑問を抱いていた。
「実感ないもんな、こんなとこ来たって」の選択肢で、凛世は「うつつのようには思われず、せめて写真にと」と言う。プロデューサーは「じゃあ、いっぱい撮ろうな! 現実って感じがするまでさ」と答える。【微熱風鈴】や【水色感情】を思い起こさせる言い回し。そして「雑誌のことはいいから! ほら、こっちいい眺めだぞ!」と呼ぶのだが、凛世は「やはりうつつであるとはとても」と疑念が拭えない様子である。
「よーく見てくれ」の選択肢では、凛世は「凛世も確かめたくて撮ったのです。これがまことであるということを」と、現実であることを確かめたくて、バスの写真を撮ったのだということを示している。
「俺も、そうかも」の選択肢では、プロデューサーは「ほんの2、3時間前まで事務所だったんだ。それが」「俺も信じられない感じだよ」と言っている。いつも生活している日常の世界とは異なる場所。自分がよく知っている日常世界から離れた場所は、まるで現実ではない夢の場所であるかのようだと感じられることがある。しかもプロデューサーと2人で一緒にこういうところまで来られるということは滅多にあることではない。なおさら現実感がなくなる。
だから、これは夢ではなくちゃんと現実の続きであるということを示す証拠が欲しくなる。凛世は「これに乗ってここへ来た」「すべてまことのことでありますようにと」「写真を」と独り言ちる。バスの写真を撮ったのには理由があった。バスは、普段の日常世界と、いまここにいる特別な場所との間を結ぶものだからである。バスの写真があるならば、バスに乗ってここまで来たことは現実だということになる。だからバスの写真が必要だったのだ。しかしその写真はブレていた。そこが面白いところであると思う。
プロデューサーと2人で泊りがけで撮影の仕事に来ているということが現実であることに対して、凛世は疑いを抱いている。ここに【杜野凛世の印象派】や【十二月短篇】で描かれたような、疑念の系列を読み取りたくなる。
「むらさき」で凛世が食べていたかき氷はいちご味であり、凛世の舌は赤く染まっていた。凛世は赤の感情を抱いている。凛世が求めているのは確信である。これが現実であることの確信。プロデューサーと一緒にここへ来たということが現実であるということの証拠。それゆえ、凛世はプロデューサーの写真を撮りたかったのであり、「紫にしてしまえばよかった」と言うのである。
◇土産物
「こもれ 日」では、凛世はプロデューサーにお土産を買いたいと言うのだが、プロデューサーに断られてしまう。「そんなのいいから」とプロデューサーが言うと、凛世は少し感情を露わにした様子で「よくありません」と言って部屋にこもってしまう。
「こもれ 日」は木漏れ日と「籠れ日」が掛けられた言葉だろう。日は赤いものと言えなくもないと思う。「木漏れ日」ならば、赤い日が漏れ出ていることになるし、「籠れ日」なら赤い日に向かって「籠れ」と念じていることになる。凛世の赤い感情が漏れ出てしまっているという風にも、凛世自身が自分の赤い感情をどうにかしたいと思っているという風にも読めるかもしれない。
かき氷を食べた海の家の背景と、土産物を買った場所の背景が回想的に続けて挿入され、ながら部屋にこもった凛世は「写真もだめ。土産物もだめ。凛世にはバスの一枚だけ」と独り言ちる。バスの写真、海の家で撮りたかったかき氷とプロデューサーの写真、プロデューサーに買ってあげたかった土産物が、同じ系列に並べられることになる。これらはどれも、プロデューサーと一緒にここへ来たことが現実であるということへの疑念を晴らすための証拠だと考えられる。凛世はこれを求めている。
プロデューサーは、自分が土産物をいらないと言ったことが凛世を傷つけたのだということに気づいている(正確にはちょっと違うのだけれども)。そこで夕方に凛世の部屋へ行くのだが、凛世は眠ってしまっていた。眠っている凛世にプロデューサーは謝罪の言葉を述べる。ここで選択肢が出るのだが、選択肢の一つが「まんじゅうがいいよ」となっていて、プロデューサーが求める土産物は不変のものではなく消えてなくなってしまうものだということが分かる。
◇帰りの日
Trueコミュの「われにかへる」は帰りの日のコミュで、撮影地に降り立った一つ目のコミュの「夏雲だけを覚えている」の対になっている。そしてこのコミュ全体の、現実の証拠を求めることへの応答にもなっている。
バスを待ちながら、プロデューサーはあと10分くらいでバスが来るという。帰り支度はちゃんと済んでいることを2人で確認して笑うと、風鈴が鳴る。ぼうっとしている凛世。プロデューサーが尋ねると、「10分後にはいないのですね、ここに」と凛世は言う。この言葉は、最初ここに来たときにプロデューサーが言った「ほんの2、3時間前まで事務所だったんだ」という言葉と対になっているように聞こえる。2人は「あっという間」だったと言う。この地に2人で来て、撮影の仕事をした。それは一時的なこと。あっという間に終わってしまうこと。この地に来たということは、日常生活の世界にとっては、やはり夢のようなことであるに違いない。夢世界は現実とされる世界からは切れていて、夢を見ているその間にしかいられない。そういう一時的で、終わってしまう世界。
凛世は「今この時を大事に過ごしたいと考えて、考えることに時を奪われます」と今この瞬間の終わり行く時間の中に生きている。ここには永遠性はない。たちきれゆく線香を目の前にしているかのようである。
しかしそこでプロデューサーが提案するのだ。考えるのはやめて「見よう」と。「いつでも思い出せるようにさ」。「ほら宿の屋根が見えてる!」「あっちは港だ。絵葉書みたいだなあ……! こっちは山。あの沼は見えないけど、川の音が聞こえる!」「それで、空!」。
ちょっと滑稽な感じがしてしまう気がするが、実は大事なことを言っていると思う。これは確か小林秀雄が絵画論の中で言っていたことだと思うのだが(ベルクソン論だったかもしれない)、人は物をじっと見つめるということをあまりしない。道端に咲いている花を見たとしても、何の花かその名前で認識して終わりであることがほとんどで、それは見たというよりは概念で捉えただけだと言う。
たとえば道端に咲いている花を見て「スミレだ」と思ったとしよう。そのときその花を「スミレだ」と認識するだけでその花びらの色や形などをまじまじと見つめたりしなければ、「その花」は他のスミレと区別されることはない。概念で捉えるというのは、その花そのものを一個のものとして見つめるということではないのである。小林秀雄によれば、人はよく見るということをあんまりしないのである。
プロデューサーは、ここで小林秀雄が言ったように、よく見よう、ということを提案している。どんなにまじまじと見つめたとしても、確かに写真のように証拠に残ることはない。けれどよく見つめることで、ただ漫然と視界に入れているだけでは気づかなかったようなディテールに気づくことができたり、物体や景色について概念で捉えるだけでは捉えられなかった質感を味わうことができる。
その場で実際によく見つめること、その場で実際によく体験するということは、写真そのものには残すことができない。それはやはり記憶するしかない。しかしそれはただの記憶ではなく、よく見たことで得た記憶であり、またよく見たことの記憶であって、それは写真に残すことができない特別な記憶なのだ。
バスはすぐに来てしまう。「タイムアップ」である。永遠性はない。けれど、いずれ終わってしまうとしても、今という時間の中により深く入り込むことによって、漠然と視界に入れていたり、写真に残そうとすることでは得られない感覚を得ることができ、特別な記憶を残すことができるのだ。
ここに、赤色の終わってしまう時間の中での疑念の感情が、青色の永遠性と確信を求めるということを超えた、別様の答えが与えられていると読むことができる。「紫にしてしまえばよかった」と凛世は言っていたが、永遠性の青を求めて紫にすることだけが答えではないのだと考えられる。
ではこの答えはどのような答えなのか。そのことを最後に、凛世の言葉が聞き取られない問題の文脈から考えてみたいと思う。【われにかへれ】ではこの問題について、プロデューサーが重要な一歩を踏み出している。
◇風鈴とバス
ところでこのコミュは再び風鈴が鳴ることで終わる。風鈴の音は【微熱風鈴】「とことはに」を思い起こさせるものであり、またバスに乗るというシチュエーションからは【微熱風鈴】のTrueコミュ「出来心」をも思い起こさせる。この2つのコミュには、睡眠というモチーフが共通している。睡眠は夢という一時的な世界が開かれることを連想させる。
「とことはに」では、冒頭に挿入された回想シーンの後に風鈴の音が鳴って、プロデューサーが事務所で目を覚ますところから始まる。それから会話の後、プロデューサーは再び眠りに落ち、風鈴が鳴る。回想場面の続きが映し出されて、コミュは終わる。睡眠の間の夢の一場面かのようでもある。
またTrueコミュの「出来心」は、仕事の後でバスを待つエピソードである。バスを待ちながら凛世は眠ってしまって、1本見送ったようである。だが次のバスは終バスで、もう次のバスを見送ることはできない。しかしその終バスを待つ間に、プロデューサーは眠ってしまう。眠ったプロデューサーが凛世にもたれかかる。もう間もなくバスが来る。プロデューサーを起こすのを凛世は一瞬ためらう。「もしこのままプロデューサーさまが起きられなければ」「凛世は叶うならこのまま」……しかし凛世はプロデューサーを起こすのである。そこでプロデューサーが設定していたタイマーが鳴る。凛世が起こさなくてもプロデューサーは起きたはずであった。「もとよりこのような運命(さだめ)であったのでしょう」と心の内で零す凛世。永遠を願いつつ、今この時はいずれ終わってしまうことが運命であるということが示唆されるコミュとなっている。
◆言葉が聞き取られない問題
◇問題の再設定
私は凛世のテーマは、引用の問題だと考えていた。GRAD編と【われにかへれ】では凛世はあまり引用をしていないが、引用をすることによってその言葉が凛世自身の言葉なのか、単なる引用なのか分からなくなり、凛世の言葉が聞き取られなくなるという問題が生じる。これが凛世のコミュでは度々起こっていて、これが凛世のテーマなのではないか、と考えていた。(凛世の引用の問題については次の2つの文章を参照→「見えるものと見えないもの――幽谷霧子と杜野凛世の心」https://fusetter.com/tw/aF0DU3Uo#all : https://fusetter.com/tw/ChwIG)
【われにかへれ】のコミュでは引用はされていないので、ここでは言葉が聞き取られない問題として、初期のプロデュースカードのコミュから順に振り返ってその問題の進展を追っていこうと思う。
◇引用
この問題は、最初から実装されているSRの【想ひいろは】にすでに見られる。凛世は仕事の休憩時間中に、持参した少女漫画を読んでいる。仕事終わりにプロデューサーに「ずっとお慕いしております」「永遠に添い遂げたいのです」と言っているのだが、プロデューサーはまともに取り合わない。凛世が本当に自分の気持ちを言っているということをプロデューサーが察しているかどうかまでは分からないが、プロデューサーは「さっきの少女漫画の台詞か!」と考える。そしてはぐらかすようなニュアンスも込められた風な感じでプロデューサーは答える。凛世は冗談を言っているのではないと言うのだが、プロデューサーはそれを聞き逃してしまう。
このように、凛世は本当のことを言っているのにそれが聞き取られないという運命にあると言える。そのことを明示しているのが【ふらここのうた】のTrueコミュ「はちぶく」で、そこでは「隠さなくても見えぬものの陽です。心(うら)とは」と言われている。(凛世の)心とは、隠さずに打ち明けたとしても、それでもなお聞き取られずに残ってしまうものなのだ。
◇水色感情
【水色感情】ではこの問題が小さな前進を見せる。それは2つのポイントがある。1つは、レコードについてプロデューサーが「わかるまで聴こうか」と言ったこと、もう1つは、Trueコミュでアイドル杜野凛世についてちゃんと気づかなければとプロデューサーが自覚することである。ここでは凛世とプロデューサーはまだ互いの考えていることがちゃんと交差していない。
1つ目のことは、上で【水色感情】と青色について触れたところですでに少し書いた。プロデューサーはレコードについて「わかるまで聴こうか」と言っている。凛世はここでレコードを自分自身に重ねている。凛世が「鳴れ」と命じたのはレコードであり、凛世自身の心臓である。
そしてプロデューサーが凛世のことを「自慢のアイドルです」と言ったことを凛世は聞いていて、それを喜んでいる。アイドルとしての凛世のことをプロデューサーは見てくれている。レコードのことを「わかるまで聴こうか」と言ってくれたように、凛世のこともきっと聴いてくれるはずだと思う。プロデューサーが聴いてくれるかぎり、凛世は自慢のアイドルでいられる。ただプロデューサーが「自慢のアイドルです」と言ったことを凛世が知っているということを、プロデューサーはまだ知らないだろう。このことが2つ目のポイントと関連する。
2つ目のポイントは、アイドル杜野凛世のことを、プロデューサー自身がちゃんと気づきたいと自覚したということだ。これは、「大人っぽい顔する」撮影ディレクターに指摘されて驚いたことに基づく。本当はプロデューサーとして自分が気づいていなければいけなかったのに、と。だからちゃんと気づけるようにならなければ、と。そうでなければアイドル杜野凛世と並び立つことはできない、と思っている。
ここでプロデューサーは公園のブランコに乗っていて、キイキイ音が鳴っている。【ふらここのうた】を連想させる。ブランコの音は歌であり、レコードの歌に連なるものである。アイドル凛世のことを理解できるまで聴かなければならない。そして【ふらここのうた】で語られていたのは、凛世はプロデューサーを追いかけているつもりでも、プロデューサーにとっては凛世の方がずっとずっと先へ行っているということだった。その距離をまた思い起こさせる。
◇十二月短篇
【水色感情】のコミュで見られた前進は、その続編である【十二月短篇】の「紅の踊り子の主題」の「序」と「跋」に現われる。特に「紅の踊り子の主題・序」では、カルメンの名前が付けられた口紅をさした凛世の姿を見たプロデューサーは、凛世の変化などにちゃんと気づこうと必死になってちょっと空回りしている様子が見られる。
【水色感情】の「R&P」から「紅の踊り子の主題・序」へと続くプロデューサーの必死さは、「紅の踊り子の主題・跋」において凛世へと直接伝えられるに至る。カルメンの名の付けられた口紅をさして雰囲気が違っていた凛世について「この間ちょっといつもと違う感じだっただろ? ちゃんとさ、そういうこと、わかるようになるから」とプロデューサーは凛世に伝えている。凛世はちょっと嬉しそうだ。
凛世は年賀状を書きながら、このときのことを思い出している。凛世が書いたプロデューサー宛ての年賀状は定型文のようになってしまっていた。しかし凛世は「足すものも引くものなく、心のまま」と言う。
プロデューサーは凛世を理解しようと思っている。凛世はプロデューサーのその言葉を聞いて喜ぶ。だから、定型文のようであっても構わないと思ったのだろうと思う。(凛世の紅と年賀状については上でも添付した次の文章を参照→「カルメン、カレンダー、書かれたもの:【十二月短篇】杜野凛世コミュについて感想とメモ」https://fusetter.com/tw/B1FZBn0W#all)
しかし「カルメン、カレンダー、書かれたもの」を書いたときには気づかなかったのだが、おそらくまだこの時点でも凛世とプロデューサーの間にはすれ違いがある。
プロデューサーは、アイドルとしての凛世の変化をちゃんと気づきたいと思っている。それは【水色感情】「R&P」で撮影ディレクターに指摘された「大人っぽい顔する」という変化だ。撮影ディレクターは「面白く伸びるんじゃないかなぁ」とも言っている。こういうことにプロデューサーは気づけずにいた。
その反動なのか、【十二月短篇】「紅の踊り子の主題・序」では紅をさした凛世についての反応が選択肢になっていて、その内1つは変化に気づかないものだが、残りの2つは「なんか雰囲気が違うな!」「大人っぽい感じだな、凛世!」で、変化に気づくものになっている。気づくのは、変化なのである。
一方、年賀状を送った凛世は、「足すものも引くものもなく、心のまま」と言っていて、それはいわゆる等身大の、そのままの凛世自身のことだと言える。アイドルとしての凛世の大人っぽさなどの変化にちゃんと気づきたいプロデューサーと、足すものも引くものもない等身大の凛世そのものをプロデューサーに届けたい凛世との間ですれ違いがあるように思われる。
ただし、紅をさしたときの変化に気づかない選択肢では凛世は落ち込んでいるし、歌い続けるかぎりプロデューサーのそばにいられることを願っている凛世は、凛世自身というよりもアイドルとしての自分の立場をよく分かっているようにも見え、このすれ違いは決定的なものかどうかはちょっと分からない。
◇GRAD
凛世の言葉が聞き取られない問題は、引用の問題としてGRAD編においても現れる。(GRAD編の読解についてはこちらを参照→https://fusetter.com/tw/BVLtDBHh)
まずGRAD編で見られる【十二月短篇】からの前進について確認しておこう。
GRAD編では、ドラマ出演に向けた役作りをする凛世の姿が描かれる。演じるのは、博士を愛する少女αと、少女αに似せて作られた人形の少女βである。少女αは博士によって言葉を奪われて「あ」しか発することができず、少女ベータは逆に「あ」を発することができない。凛世はこの難しい2役を演じることになる。
その役作りの中で、凛世は自分自身の表現力に悩むことになる。プロデューサーはそんな凛世に休むように言うのだが、凛世は本当は休みたくない。凛世の考えてることを知らぬまま、プロデューサーは凛世を休ませることにする。そして凛世は姿を消す。
凛世が海辺にいることを知ったプロデューサーは、凛世のもとへと駆けつけ、そこで凛世と話をする。「言ってくれ! 心にあること、外に出して…… ぶつけてくれ……!」とプロデューサーは言う。それに答えるように、凛世も「プロデューサーさまに会いたかった」と言う。
そこで選択肢である。選択肢は「わからないんだ……」「すまない……!」「俺、全然ダメだな……」と、プロデューサーは凛世をちゃんと理解できていないことを認め、それを凛世に伝えようとしている。
凛世は表情の変化も少なめだし、言葉遣いも難しい言葉遣いをしたり引用をしたりして、想っていることだけでなく言っていることも簡単には伝わりにくいところがある。そんな凛世について、【水色感情】【十二月短篇】では、プロデューサーは「気づきたい」「理解したい」と思うようになった。ここまでは一方的にプロデューサーの側が理解しているつもりになっていたり、理解しようと努めようとした部分であると言える。そしてGRAD編では、さらに一歩進んで、凛世を理解できていないところがあることを認め、それを凛世本人に向かって伝えた上で、「言ってくれ」と言ったのだ。【十二月短篇】まで、どこかすれ違っていたり、空回りしているような感じがあったのだが、ここでプロデューサーはちゃんと凛世本人に向き合うことができたのだと思う。ここにまた新たな一歩を感じるのである。
ところが、である。GRAD編決勝戦直前コミュにおいて、海辺にいた凛世のことを「海でひとりで発声練習しちゃう」と言っているのである。
これは海辺に逃げてしまった凛世の気持ちに気づいていながら、「発声練習」ということにしているという凛世に対する気遣いだとも取れる。しかし凛世の言葉と気持ちを聞き取ることができなかったり、空回ったりしてしまうプロデューサーがそんな気遣いができるのか、個人的には疑問に思うところである。ここは本当に「発声練習」だと思っているという線で読んでいくことにしたい。
凛世が挑戦する役は、明らかに凛世自身の物語と重なり合う。少女αは博士を愛しているにもかかわらず、博士は少女αの言葉(独り言)を聞き間違えて(理解し間違えて)しまう。自分の発する言葉がうまく聞き取られない、というのは凛世につきまとう問題であった。それゆえ、このドラマの役作りをするということは、凛世自身の問題の再現になっている。そしてその役作りの中で再び凛世の言葉はプロデューサーにうまく聞き取られない。聞き取られない問題が反復されており、海辺での会話へと続く。
しかし海辺での凛世をプロデューサーは「発声練習」だと言うのである。つまりこうした凛世自身の問題の多重構造的になっている再現そのものを、ドラマの役作りとしてしまうのである。これ自体が、凛世の引用の問題、聞き取られない問題となっている。凛世の言葉が聞き取られない問題がここにも付きまとっている。GRAD編においてなお凛世はこの問題を振り払えていない。
◇われにかへれ
【われにかへれ】にてこの問題への進展が見られるのは4つ目のコミュ「月があたらしい」である。カードイラストにもなっているコミュで、撮影の仕事を終えた凛世とプロデューサーは近くの沼で見られるという蛍を見に行く。
プロデューサーは凛世との会話を想起している。土産物を買いたいと言った凛世に、土産物はいらないと言って傷つけてしまったことに対して謝罪をした会話。「こもれ 日」では眠っている凛世に向かってプロデューサーが話しかけるところだけが描かれていたが、ちゃんと凛世が目覚めた後で謝罪をしていたことが分かる。
このコミュのポイントは2つあると思う。1つは、プロデューサーの想起の中で描かれる凛世との会話であり、もう1つは、蛍を介して語られる会話である。いずれも、相手に思いを伝えること、相手の言葉を聞き取ること(の難しさ)の問題についての話になっている。
プロデューサーは凛世に約束を持ちかける。「なんでも言う」「言うか迷ったら言う」、そしてプロデューサーも「なんでも聞く」「聞くか迷ったら聞く」。似たような提案は【凛世花伝】の「しゅら -syura-」でもなされる。そこでもプロデューサーは頭に浮かんだことでもなんでも言ってほしいと言うのだが、凛世はというと背中に文字を書いて伝えるという方法を取っており、その言葉も婉曲的であった。
プロデューサーはできるかぎりちゃんと凛世のことを分かりたいと思っている。しかし「なんでも言う」ようにお願いしてみても、もともと自分の思っていることを積極的に伝えることを得意としていない凛世にはそれは簡単なことではないかもしれない。プロデューサーは「そんな簡単なわけないよな。これまでの習慣や関係を、変えるなんてこと」と独り言ちている。しかし簡単なことではないとしても、【水色感情】から少しずつ変わってきたことを改めて振り返ってみれば、これからも少しずつ変わっていくことはきっと確かだろうと思う。シャニマスの3年目は、新たに実装されたGRAD(ATION)のエピソードにあるように変化の年でもある。
凛世との会話を想起しながらもう1つプロデューサーは自問していることがある。「それだけだったのかな。俺が聞き逃したこと」と。
一つずつ確認していこう。凛世はプロデューサーに土産物を買いたいと言ったが、プロデューサーはそれを断った。プロデューサーは「遠慮したつもりだった」と言ったのだが、プロデューサーは「いいよそんなもの
と言っており、凛世は「よくありません」と答えて部屋にこもってしまう。その後目が覚めた凛世にプロデューサーは謝罪し、土産物について「明日、撮影が終わったら一緒に行ってくれるか」と伝えると、凛世は笑顔で「はい」と答える。プロデューサーの自問はここに差し挟まれる。「笑顔が戻ったのを見て、あの時はほっとしたよ。でも」「それだけだったのかな。俺が聞き逃したこと」と。
凛世のモノローグを読むことができるわれわれ読者はプロデューサーが聞き逃していることが確かにあることを知っている。それは凛世のプロデューサーに対する思いだけではない。凛世はこの撮影のための旅路が夢ではなく現実であるということの証拠を求めてもいる。土産物は、バスの写真、海の家のかき氷とプロデューサーの写真と並んで、この旅路が現実であるということの証拠となることが期待されていた。
ここで重要なのは、聞き逃したものがまだあるのではないかという可能性にプロデューサーが気がついたことである。凛世に謝罪をし、土産物を買うことを話したことで確かに凛世には笑顔が戻った。普通の会話なら相手に笑顔が戻ったならばコミュニケーションとしては成功であると取られてもいい。けれどもここでプロデューサーはまだ聞き逃しているものがあるのではないかと考えている。このことに気づいたことが重要であると思う。
プロデューサーは自問に続けてこう言う。「難しいな、凛世。誰かの心を知るって。なかなか聞こえるようには、ならないもんだな」と。ここで【ふらここのうた】Trueの「はちぶく」を想起するのは間違いではないと思う。「はちぶく」では、「隠さずとも見えぬもののようです。心(うら)とは」と凛世は言っており、これは隠さず伝えたつもりであっても伝えたいことの全部が聞き取られることは難しいということだ。
たとえ円滑にコミュニケーションが行われていたり、会話が弾んでいるとしても、実はそこで聞き逃してしまっているものはあるのかもしれない。あるいは言いたいことや言うべきことはうまく言えていないかもしれない。円滑にコミュニケーションが行われていたり、会話が弾んでいるとしても、それは自分の言いたいことや言うべきことが適切に言えているということを意味するわけではないし、相手の言っていることをちゃんと聞き取れている(理解できている)ということを意味するわけでもないのである。そこには常に言い残しや聞き逃しの可能性がつきまとう。
この言い残しや聞き逃しの可能性の問題が、蛍の言っていることの聞き取りの難しさとして隠喩的に語られる。凛世は「なんと言っているのでしょう。蛍は」と問う。「聞こえたらいいんだけどな」「聞こえたらよいのですが」と2人は話す。
光って消えて何かを伝えようとしている蛍の光は、まさに他人の言葉である。言葉を介することぬきに相手の思っていることや心の内を直接的に知ることはできない。けれど言葉を介するならばつねに言い残しや聞き逃しの可能性がつきまとってしまう。誰かの心を知ることは難しいのである。
けれどその可能性の問題に無自覚であるのと、その問題を自覚しているのとでは大きく異なる。プロデューサーはこの可能性の問題に気づくことができた。凛世はどうなのだろうか。
◇確信と疑念の間で
言葉のやりとりをする中で、つねに言い残しや聞き逃しの可能性がつきまとうということは、自分の言いたいことを完全に言い尽くすということも、相手の言っていることを完全に理解するということもないということだ。確信は得られない。
確信するということの方がむしろ危ういことのはずだ。自分の言いたいことを完全に言い切ることができているという確信は、聞き手や読者の聞き違いや読み違いを許容しない。相手の言っていることを完全に理解できているという確信はさらに危うい。その確信は、相手の言葉の裏にはまだ言い残したことやうまく表現できなかったことや隠していることがあるという考えを排除してしまう可能性があるからである。それは相手に固有の隠された心の領域を消し去ってしまうことになる。このように自分の言いたいことを言うにあたっても、相手の言っていることを聞くにあたっても、確信するということは危ういことであると言える。
確信できないとしても、それは完全な疑念や猜疑心の海に沈んでしまうということをすぐさま導くわけではないと思われる。日常生活の中で、他人の言っていることが全く理解できないとか、相手の心の内が全く分からないということは実はあまりないのではないか。完全に理解し尽くすことはできないとしても、ほんの少しは分かるはずである。日常生活のほとんどは、だから完全な確信の中で営まれているわけでも、完全な疑念の中で営まれているわけでもなく、確信と疑念の間にある。
どうせ言っても伝わらないといって何も言わなければ何も伝えられない。どうせ分からないといって人の言葉を聞くのをやめてしまえば何もわからない。そうやって諦めてしまうのではなく、言ってみること、そして聞いてみること。相手に何かを伝えたいと思ったら、相手を理解したいと思ったら、それらが大事なのだと思う。プロデューサーが持ちかけた約束は、こういうことだったのではないか。
◇別様の答え
この確信と疑念の間ということが、「われにかへる」で提示された答えを読みとく鍵になるのではないかと思う。
凛世は、この旅路が一時の夢ではなく現実であるということの証拠を求めていた。これはいわば、現実であることを確信するための証拠を求めるということであり、デカルトが求めたことと同じであると言える。
デカルトは現実世界についての確実な真理を求めていたのであり、それゆえ自分が認識するものが夢ではなく現実であるということの確実性を必要としていた。デカルトは確実性を求めて、疑いうるものは全て間違いであるとしていったん退けることを提案した。その先に疑いえない確実な何かがあるかどうかを求めたのである。これは方法的懐疑として知られている。方法的懐疑においてデカルトは、確実なもの以外は全て疑いうるものとして退けているのであり、ここでは確信と懐疑のいずれかしかない。
プロデューサーとともに撮影の仕事で赴いたこの旅路が、本当に現実のことであるのか、凛世は確信できずにいた。凛世は疑いを抱いている。一時の夢。仕事が終われば帰らなければならない。この時間は永遠ではない。疑いと非永遠性の赤の感情を抱いていることが赤いいちご味のかき氷に現われている。だから凛世は、永遠と確信の青を求める。しかし赤と青は混ざり合わない。
この問題に対して「われにかへる」でプロデューサーが提示したのは、「見よう」ということであった。「いつでも思い出せるようにさ」と。どんなに見たところで、それはこれが現実であるということの証拠にはならない。だからこれは確信をもたらす答えではない。しかも数分の後にバスは来てしまうのであり、この時間は永遠ではない。
しかしだからといって見るのをやめてしまえば、後で何も思い出すことはできない。ともかく見るのでなければ何も知ることができないし、何も記憶できないのである。ここでの「見よう」は、確信と疑念の間で、言ってみること、聞いてみることと対応する。そしてそれが、確信を得るという答えとは別様の答えだと思われるのである。
* * *
GRAD編と【われにかへれ】を経て、なおも凛世は【微熱風鈴】や【杜野凛世の印象派】の頃のように自分の想いが永遠であることを確信できるのだろうか。私には分からない。けれど、少なくとも自分の愛は永遠であるということを信じていたことに対して、それ以後のコミュ群は繰り返し問いを差し挟んでいるように思われる。
シンデレラガールズの私の担当アイドルの1人は佐久間まゆなのだが、佐久間まゆも自分の愛は永遠であるということをよく言っている。だが私はずっと疑問に感じていた。16歳の少女が言う永遠というのは、どれほど現実的なものなのだろうか、と。16歳という若さゆえの全能感や無邪気さがなせる過剰さが「永遠」という言葉を招き寄せているのではないか、と。私は凛世の言う「永遠」にも同様のことを感じていた。2人とも16歳である。
凛世のコミュは繰り返し、凛世の愛の永遠性に対して問いを差し挟んでいる。凛世自身、【十二月短篇】のようにプロデューサーに対して疑念を抱いたりもする。しかし疑念に包まれて愛が打ち砕かれてしまうわけではない。カルメンのようにホセの愛を疑って終わるわけでもない。
これは私の知っているキリスト教神学の先生から聞いた話である。ある男性が、とても素敵な女性とお付き合いすることになった。しかしその男性は、その女性は自分にはふさわしくないと思い、「どうして自分とお付き合いしてくれるの?」と疑問を投げかけたのだそうである。するとその女性はただ「愛しているから」と答えたのだという。
キリスト教神学の先生が言うには、ここで大事なのは「愛しているから」と言ってくれた女性の言葉を、男性が信じて受け止めることができるかどうかである。実際このような状況で、相手の「愛しているから」という言葉を疑って、受け止められないということは少なくないと思われる。そういう疑いは関係を難しくするだろう。神学の先生が話したその男性は、先生の友人であるとのことで、その人は女性の言う「愛しているから」という言葉を信じることができたのだという。
その神学の先生が言うには、キリスト教における信仰とは、このように神の愛を受け止めるということなのだという。神は人間を愛している。それは神の独り子を犠牲にするほどである。それほどまでに神は人間を愛している。その愛を受け止めることこそが、神を信仰するということなのである。
カルメンは、自分に向けた愛の歌を歌ったホセに向かって、「あんたは私を愛していない」と言った。相手の愛を信じて受け止めることができなかったのである。自分を愛しているという相手の言葉を受け止めるにあたって、そこにその言葉の証拠はない。疑いのまなざしで見ればどんな「証拠」も疑わしく見えることだろう。信じるということには、疑いや確実性を超えた跳躍があると言える。
【凛世花伝】「くもらす -kumorasu-」では、一緒に水族館に来たもののプロデューサーはすぐに仕事にいかなければならなくなる。凛世のもとを離れたプロデューサーはすぐに凛世にメッセージを送っている。【十二月短篇】「紅の踊り子の主題・変」では、一緒に花火を見ていたプロデューサーはすぐに別の仕事に向かってしまう。そこで凛世の心にはカルメンのような感情が沸き上がるのだが、水族館のときと同じようにプロデューサーからすぐにメッセージが届き、凛世は自分をいさめるのである。
凛世は揺れ動きながらも、カルメンとは違ってプロデューサーを信じることができているのではないかと思う。そしてそれはたぶん【われにかへれ】でもそうなのだと思う。
◆追記(2020/8/22):【われにかへれ】について気づいたことと残っている謎
・気づいたこと
【われにかへれ】「月があたらしい」の蛍は、【凛世花伝】「くもらす -kumorasu-」で取り上げられるウミガメと対比されるものなのではないか。
「くもらす -kumorasu-」では、凛世は仕事の下見でプロデューサーと水族館に行く。そこでプロデューサーはウミガメがいることに気づきテンションを上げる。プロデューサーが言うには、「大きいカメって言葉が通じそうでさ。そんな感じがしないか?」と。凛世は「ウミガメは涙を流すといいますから。会ったら話をしてみましょう」と言う。ウミガメはこちらの言葉が通じそうな生き物としてここで想定されている。
一方の「月があたらしい」での蛍は逆に、「光って消えてなんと言っているのでしょう」と凛世によって問いが提示されている。プロデューサーも凛世もともに「聞こえたらいいんだけど」と言う。蛍が光を明滅させることで何を言っているのか、凛世にもプロデューサーにも分からない。
ウミガメはこちらの言葉が通じそうな生き物とされているのに対し、蛍は何をいっているのかこちらは聞き取れない生き物とされている。亀は万年という言葉があるが、万年ほどではないにせよウミガメは長生きする生き物として知られている。一方の蛍は成虫になってからは2週間ほどだとされている。
水族館が「薄青く」と描写されていることにつられて、ここに青色と赤色の対比を読み取りたくなるが、蛍の光は赤色ではない。相手の言っていることの全てを聞き取ることができないということは、もはや問題ではなくなっている。
・残っている謎
私が分からずにいる謎は大きく分けて2つある。
1つはタイトルの意味。【われにかへれ】と「われにかへる」というこれらのタイトルはいったいどんな意味なのだろうか。「我に返る」というのは、ふつうは何かに熱中したり集中したりしている状態や、あるいは気を失っている状態から、自分の状況について認識できる状態へと戻るということである。「われにかへれ」と呼びかけられているのは何なのだろうか。「われにかへる」とされているのは誰なのだろうか。おそらく凛世自身ではないかと思う。それではどういう状態から、凛世は我に返るように呼びかけられ、我に返るのだろうか。
タイトルの謎はもう1つ。「月があたらしい」の意味。1つ前のコミュの「こもれ 日」とタイトルは対になっていると思われるのだが、「月があたらしい」というのはいったい何のことを差しているのか分からない。
もう1つの謎は、「月があたらしい」のコミュの中で、蛍のいる泉の中に入って行った凛世が零した言葉「……しい」である。ここで凛世は何と言っていたのだろうか。コミュのタイトルが、ここで凛世は「あたらしい」と言ったのではないかということを連想させるが、この場面で「あたらしい」と言うのはどういう意味なのかよくわからない。
私が考えているのは、「……しい」は何と言っていたのかは分からないままであるということだ。このコミュで話されているのは、人の言っていることを十全に聞き取るのは難しいということ、聞き取ったつもりでもつねに聞き逃したことがあるかもしれないということだ。だからこの「……しい」はまさにその聞き取りの不完全性の実例となっているのではないか。
でもこの「……しい」は、何かを伝えようとしている言葉の欠片のようなものとして、こちらに聞き取るように強く訴えかけてくるように思われる。なので聞き取りの不完全性の実例として片づけてしまうというわけにもいかないような気がする。
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