究極の善意とたった一つの勘違いが生んだ、究極の悲劇
ドラゴンクエスト・ユアストーリーはドラクエユーザーの為を思って本気で全力で作られた映画。なのになぜ受け入れられなかったのか、それは究極のおせっかい
遅ればせながら、ドラゴンクエスト・ユアストーリーを見てきました。
私自身、事前にオチのネタバレを(望まない形で)受けていたため、そこに対する心構えをもって、見に行きました。なので、公開すぐに全てを知らずに見て、ショックを受けた方と気持ちを共有することはできません。お気持ちはお察しします。その気持ちと怒りを誰も責めることはできないでしょう。
しかし、その感想を受けて、「実際に見てない人間」が面白おかしく叩いて炎上している様は、疑問に感じます。
ネット上ではこういった声が多数聞こえます。
・監督はドラクエファンを馬鹿にしたくて作った
・ゲームを尊重せず、金儲けを第一に作ったからこうなった。
・この映画からは悪意しか感じられない。
本当にそうでしょうか?
ハッキリと言いますが、
私にはこの映画は、本当にドラクエファンの為を思い、ドラクエファンが報われる形を目指して、ドラクエファンの為の映画を作ろうとしたことが心から感じられました。
惜しむらくは、たったひとつの解釈の違いが、究極の悲劇を生んだことです。
なのでここから、私が実際に映画を見た視点から、私が実際に感じた監督のやりたかったことを、私の推測でお話したいと思います。
ユアストーリーに対する、私のストーリーです。
当然最後のオチに関するネタバレを含みます。要注意です。
(でもわたしはオチを知ってから見に行くべきと思う)
山崎監督は、インタビューで「オファーはあったが何度も断っていた。映画だからこそできることを見いだせなければやる意味がないと思った」と答えています。
では実際に、ドラクエを映画化するにあたっては何が問題となるのか、恐らく監督は、以下の3つの壁にぶちあたっていたのではないでしょうか。
1 ゲームの映画化は原作ゲームのファンに受けないという壁
2 ゲームの(特にドラゴンクエストの)主役はプレイヤー自身。それぞれの解釈の違いの壁
3 映画でゲームをクリアしてしまうことへの壁
1はゲームファンであればあるほど、身近に感じると思います。ゲーム原作の映画は、原作ファンに受けないという事例は過去に大量に存在している。原作をしっかりとなぞればなぞるほど、キャストの演技やイベントの取捨選択でガッカリ映画として認定され映画としては奮わず、かたや映画として成功した場合は設定を借りた別物となるパターンが多いです。
もちろん技量次第で成功した例もあるが、とにかくそういった意味で、監督はゲームの映画化自体に懐疑的だったし、「せっかく映画化するなら、絶対に原作ゲームファンを満足させるものにしなければならない」という意思を、私は映画の中から感じ取りました。
2についてはドラクエユーザーにとって更に深刻です。コンピューターゲームの中でもドラゴンクエストはとりわけユーザーが主人公の傾向が強い。ファイナルファンタジーの映像化が(成功失敗を問わず)いくつも行われてきたのに対し、ドラゴンクエストは書籍やコミックこそあれ映像化されなかったのはそこにあります。
実際、映画を見てきた人の中でも前半のストーリー部の解釈違い(性格が違う、一人称が違う、設定が違う)に悩まされていた人が数多く存在します。(これは意図的であったと思われる。詳細は後述する)
その中でもさらに自身とのシンクロ性が高く、キラーパンサーの名前、嫁選択、子供の名前ととにかく自分と重ねる描写の多いドラクエ5は、そのままストーリーをなぞるだけでは、すべてのイベントをこなしつつ全ての人を満足させることは"不可能"であると言えます。
そして3、あくまでドラクエファンの為に作るのであれば、そしてこれからドラクエに触れる人のために、ドラクエ5のラスボスを倒してしまうわけにはいかない。ゲームクリアという一番大事なイベントを、映画に奪わせるわけにはいかなかったのでしょう。
これら3つは全て、ただ「売れる映画を作る」商業主義に走るなら考慮する必要がない悩みであり、原作であるゲームを大事にしたい、という思いがあるからこそ発生しうる悩みであります。
この全てを解決する為に、監督が導き出した答えはこうだったのではないでしょうか。
・人によってゲームの解釈は違う、しかし、「ゲームをプレイして楽しんだ」という「思い出」だけはゲームファン全てに共通するはずである。
・本当の敵は、ゲームのラスボスではなく「かつてゲームの思い出を阻害した大人達」である。それと戦うならば、ゲームクリアを奪う必要がない。
・大人達と戦う為に「思い出」という剣を武器に戦って、勝つ。そのためにゲームファン自らのストーリーを舞台に立たせる。それこそが真のゲームの映画化である。
あのオチは全て、ゲームファンの為に考えられた、ゲームファンの為の、究極の善意から生み出されたものだと、私は主張したいです。
そしてこのギミックは同時に、今年55歳になる監督、つまりは「ゲームは悪」としてドラクエを叩いていた大人達の世代からの、一つの謝罪とも捉えることができます。
今や時代が変わり、ゲームと共に育った子供は親となり、ゲーム自体を叩く風潮というのは昔ほどなくなりました。そしてなにより、当時ゲームを叩いていた大人たちはスマホを手にし、一日中ツムツムに興じているではありませんか。こうしてゲームというメディアが「勝った」今だからこそ、かつての時代の謝罪の為にこの映画は作り上げられたのです。
さらに言えば、そのギミックを受け入れGoサインを出したのは、他ならぬ自分自身が作り出したものによって、子供達が親に叱られるという苦悩を抱え続けながら、それでもゲームを作り続けてくれた、堀井氏自身でもあります。
かつて世間の波に晒されながらそれでも自分を信じてこのゲームを世に送り出した堀井氏のストーリーは、映画として大衆に認められるという形で、ハッピーエンドを迎える
はずでした。
しかし、ゲームファンの多くはこのオチを受け入れることができませんでした。
善意に善意を重ねて、謝罪まで表したユアストーリーは、なぜ受け入れられなかったのでしょうか。
監督は、ゲームについてあまり深くはないと公言しています。これ自体は何の問題もありません。ゾンビ映画を作る人はゾンビを倒したことがある必要はないからです。しかも監督は、映画作成にあたって多くのファンから聞き取り調査をして、徹底的に調べあげたとも言っています。それを表すかのように、前半のドラクエ部は映画的解釈はあれど、本当にドラクエの世界をよく再現していたと思います。「ゲマは良かった」という声が多く聞こえますが、商業主義で作っていては、あのゲマは作れません。また、最後のオチに繋げるために、あえて主人公像を大勢の考える不幸と不屈の主人公からズラしたのも、巧妙なギミックでした。5以外の音楽を使っているのも違和感がありましたが、これはドラクエの映画であることを表す仕掛けだと分かり、納得しました。クライマックスでの加勢展開は、映画としてとても盛り上がりを見せ、映画監督としての高い実力も感じました。
しかし、最後のオチは、どうしても万人に受け入れられるものではありませんでした。
これはメタネタ自体が悪いのではありません、
監督がドラゴンクエスト全てを代表して最後に持ち出したロトの剣、これはゲームユーザーが持つ最強の武器「思い出のつるぎ」だったと言えます。これがあるから、私達は戦える。
しかし、
監督の感じる「思い出」と、ゲームユーザーが感じる「思い出」は、別のところにありました。
監督の考えた場所に、思い出はなかったのです。
この記事を作成するにあたり、私はゲームファンにアンケートを取りました。
「あなたにとって、ゲームの思い出とは
なんですか?」
1 物語、イベント、キャラ、台詞
2 成果、育成、得点、コンプリート
3 プレイ当時の環境、ゲーム友達情報交換、失敗体験
4 ファンレター、ファンアート作成などのファン活動
これには1400票もの票が集まり、以下の結果となりました。
1 物語 56%
2 成果 21%
3 体験 22%
4 ファン活動 1%
また、別の箇所で同じアンケートを実施しましたが、やはり割合は一緒になりました。
ゲームユーザーの半数は、1番「自分が紡いだ物語」を思い出として認識している。
そして監督は、3番「ゲームをプレイしていた自分」を思い出のつるぎとして表現しました。
そして映画では「思い出のつるぎ」を引き出す為に、ゲーム世界を物理的、視覚的に破壊しました。
監督は、ゲームが消えても、ゲームをプレイしていた自分の思い出は消えないと表現したかったのです。
しかし逆でした。
昔やったゲームをあらためてやり直した時、当時聞いていた音楽や友達、恋人のことを思い出した経験がある人は多いのではないでしょうか。
私たちは、ゲームの物語の中にこそ、プレイ当時の記憶、環境、体験、思い出を、セーブしてたのです。
ドラゴンクエストの舞台を、視覚的、物理的に消してしまえば、それはもう、思い出ごと消失してしまったことに、他なりません。
だから、そこでおしまい。その後の展開なんて、耳に入るわけがありません。
監督は皮肉にも、かつて大人達が良かれと思ってゲームの電源を切ったこと、アダプタを隠したこと、そのものを再現してしまったのです。そのあとにいくら説教されても絶対に耳に入ってこないことは、私達は既に知っています。
更に悲しいことに、この感覚は受け手にしか伝わりません。クリエイティブな活動をしている側、特にドラゴンクエストを実際に作っていた人達は、自らが文字を吹き込んでいる側でありますから、この視点は絶対に辿り着けません。だから、監督のこのギミックに潜む罠を感じとることはできず、公開まで進んでしまったのだと思います。
結論として、監督が目指したかった、善意から生み出された思い出の剣のストーリーは「究極のおせっかい」として、後の世に語り継がれることになるのではないかと思います。
それを踏まえても面白かったという人も、もちろんいます。私も面白かったと、胸を張って言います。無理に敵対することなく、良かったものは良かったと、声をあげていってほしいです。
そしてショックを受け、怒りを覚えた人もいます。あなたの気持ちは当然だと思います。
しかし、それでも「最後までドラクエという原典そのものを汚す選択をしなかったこと」は認めてもらえないかと思います。この映画によって、ドラクエ自体が低く評価されることはないんです。それは、監督が守りきった最後の砦だと思っています。
最後に、見ていないのに予測と想像で叩く輩が消え去ることを祈って、長らく最後までお読みいただいて、ありがとうございました。