本物のストレイライトはどこにいるのか?――イベント「The Straylight」について
初出:2021年2月3日Privatterに投稿
◆本物のストレイライトはどこにいるのか?
今回のイベントシナリオでは、3つのものが「それは本物のストレイライトか」という問いの対象にされていたと思います。これらを順に見ていき、最後に本物のストレイライトがいる場所の答えを愛依の辿り着いた答えから探っていきます。
◇1.ものまね
まず、ストレイライトをものまねする人たちが登場します。その人たちはストレイライトの前でアーティストとして実力を見せつけたグループの人たちでもありました。冬優子(たち)はそのグループに対して、アーティストとして敗北を感じていました。で、そんな人たちにものまねをされることになります。
冬優子が言うには、笑いにもっていくはずがない、実力で勝負する気だと。冬優子たちはものまね番組でよく見るご本人登場の枠でサプライズ出演します。それで冬優子たちは本物のストレイライトを見せつけてやる、ということになり、それは成功します。ものまねはものまねで、それは本物ではなく、本物の方がやはり凄いということを実力で示すことが出来ました。冬優子たちこそが本物のストレイライトです。The Straylight。
◇2.CGのストレイライト
並行して、ダンスゲームのPRにストレイライトが起用されるという企画が進んでいます。そこではストレイライトのMVが広告として使用されることになるのですが、そこで使用されるMVはCGで作られたものになります。ゲーム会社が用意したダンサーさんが踊って、それをモーションキャプチャーして、CGのMVが作られます。冬優子たちはそのMVのために踊っていません。
ですが、主に冬優子がそのCGのMVに注文を入れます。ストレイライトのMVとしてもっと良いものにするために。
そしてCGのMVは完成するのですが、その出来具体には冬優子たち3人ともが驚かされます。愛依は「もう本物じゃん」と言い、あさひは「完璧っすよ……!」と言います。あさひの「完璧」という言葉に冬優子と愛依は動揺しますが、冬優子はその言葉を受けて「完璧なストレイライト」だとその完成度の高さを認めます。
冬優子と愛依が動揺したのは、自分たちが完璧なストレイライトになることを目指していたからです。「他を圧倒する完璧なパフォーマンス。それが『ストレイライト』」。自分たちこそが、完璧なストレイライトになるはずだったのに、自分たちの踊りがキャプチャーされたわけでもなく、他者によって人工的に作られたCGがそれになれてしまった。
冬優子は疑問に思います。「あれが…… 完璧な『ストレイライト』……?」と。
ここでCGというものが「完璧なストレイライト」になれてしまう、というのには、ストレイライトに独特の理由があると思われます。それは、冬優子たちはストレイライトというアイドルユニットを作っている、ということです。ストレイライトのキャッチフレーズは「身に纏うは迷光、少女たちは偶像となる」です。冬優子たち自身でさえも、生身の素のままでストレイライトになれるわけではありません。とりわけ冬優子と愛依は、アイドルとしての姿と、ユニットメンバーやプロデューサーに見せる姿との間には解離があります。アイドルとしての姿はそのために作られています。今回のイベントシナリオでは、冬優子はブランディングなどにも興味を示していて、ユニットを作るということに対して貪欲さを見せています。
このようにストレイライトというユニットも作られたものであるわけです。そして作られているという点で、冬優子たちが見せるストレイライトとCGのMVは、共通しているのです。
ですが、冬優子はCGに成り代われることに対して納得がいきません。「いくら完璧だろうと、ものまねはものまね、CGはCGでしょ」というわけです。
ここであさひが、プロデューサーに言われた重要なことを思い出します。ミュージカルの仕事では「役」を求められるけど、「ストレイライトのステージではわたしでいい」ということです。
このあさひの話につられて、愛依が自身の中にあったわだかまりに対する答えを得ます。この答えが超重要です。順を追って確認しましょう。
愛依は、アイドルをやるにあたって、クールでミステリアスな姿を見せています。緊張しているのをそういう風なキャラクターとして見せているわけですが、最初は明るい普段通りのキャラで行くつもりだったわけで、これは一時的な作戦でした。
で、今回のイベントシナリオの中で、愛依はアイドルの仕事の中であまり緊張しなくなってきたという話をするのですが、それを聞いた冬優子に、素のままでステージに立てるかもね、と言われるのです。そして愛依は何かわだかまりを覚えた風な感じになります。
そのわだかまりは何かということを考えてみます。今のクールでミステリアスな姿は作ったものですから、いわば嘘をついているようなものになります。素の姿が週刊誌などに抜かれたら大変です。ですが、ファンはクールでミステリアスな姿を好きでいるわけで、それを辞めることも簡単ではない。ストレイライトのユニットイメージにも関わってくるわけです。そしてもう一つ。愛依はファンに見せているクールでミステリアスな姿を「この子」と呼んで愛着を見せているのです。おそらくこのような葛藤が愛依の中にあったのではないかと思います。
で、あさひの話を受けて、愛依は答えに辿り着くのです。それは「ステージのうちも、うちなんだ」ということです。これはおそらく、人前に見せる姿がいかに作ったものであるとしても、それを作り出し見せているのは外ならぬ自分自身であって、そういう意味でその作った姿も自分なんだということではないか、と思います。ステージで見せているアイドルの姿も自分自身にほかならない。ですから、嘘をついていることにはならないのです。それも紛れもない自分なのだから。だから、「あたしたちがストレイライト」。
◇3.冬優子たち自身
すごく面白いなと思うのは、それは本物のストレイライトか、という問いは冬優子たち自身にも降りかかってくるということです。シナリオのエンディングで、冬優子たちは愛依の家で愛依の妹たちにプライベートにステージを見せています。で、そこで愛依の弟が言っていることがポイントです。
「うーん、でもさ~
…………やっぱ変だよ!
衣装も着てないし、マイクも無いし、
ステージもピカピカしないし……
画面で見るストレイライトと全然ちがう!
ねーちゃんたち、にせもの~!」
という風に、紛れもない冬優子たち自身であるにもかかわらず「にせもの」呼ばわりされてしまうのです。そして愛依の弟は「ほんとはカゲムシャなんだろ~」と言うのです。これが面白い。
どうして「にせもの」「カゲムシャ」と言われてしまうのかといえば、やはりステージ上でのアイドルとしてのストレイライトは、徹底的に作られたものだからだと思います。ステージ上のストレイライトというアイドルユニットは、冬優子と愛依とあさひの3人を寄せ集めた集団と同等ではないのです。
まずストレイライトのキャッチコピーからもう一度確認しましょう。「身に纏うは迷光、少女たちは偶像となる」。「偶像」というのはアイドルのことですが、「偶像」という言い方をすることによって像(イメージ)としてのニュアンスが浮かび上がってきます。そしてその「偶像」は、「迷光」を「身に纏う」ことによって生まれる(「少女たち」がそれになる)ことが分かります。ここで「身に纏う」とされる「迷光」こそが、ストレイライトです。
迷光=ストレイライトは、カメラの内部に発生する不必要な光の散乱のことを指します。フレアやゴーストがそれに相当するということです。これらの光の散乱は像を結ぶ光ではありませんが、写真などに写ったときに写真を印象付けるものでもあります。冬優子たちがアイドルユニットであるストレイライトになるためには、こうした「迷光」を「身に纏う」必要があるということです。
そしてさらにポイントになると思われるのは、迷光はカメラなどの光学機器において生じるものだということです。つまり冬優子たちが迷光を「身に纏う」ことができるのは、カメラなどを向けられたときだということです。ですから、アイドルとしてのストレイライトが生まれるために必要な「迷光」が欠けてしまうと、愛依の弟のように「にせもの」「カゲムシャ」という問いが差し向けられることになるのではないかと思います。
◇問いへの答え
自分たち自身が本物であるのかという問いの対象になったとき、重要になるのはやはり愛依が辿り着いた答えです。愛依が辿り着いた答えは、自分たちに差し向けられた本物であるのかという問いへの答えにもなると思われるからです。
愛依はクールでミステリアスな姿をアイドルとして見せていますが、普段からそうした姿を見せているわけではありません。ですから冬優子が心配したように、週刊誌に抜かれるような危険もあります。愛依は、週刊誌ではありませんでしたが、素の姿を見られてしまうことになりました。
駅のホームで愛依とぶつかってやりとりをした青年が、素の愛依は陽キャであると配信で喋ってしまうのです。彼はYouTuberのような配信者だったのでした。しかもたぶんアポなしで突撃したりするちょっと危なっかしいやつです。この配信はネット上で話題になります。プチ炎上的な感じで。
冬優子が言ったように、これを利用して素の姿を公表するという方法もあったわけですが、愛依は「この子」を続けていくことを選びます。そこで愛依がツイスタで投稿したのは、次のような文章でした。
「噂よりも
ステージを見てほしい
あたしはそこにいるから
そして
あたしたちがいるところにステージはあるんだ
#ストレイライト」
これは超超超重要です。1つずつ見ていきましょう。
まず、「あたしはそこにいる」と書かれている「あたし」です。ここでは噂が問題になっています。愛依は本当はどういう人間なのかというキャラクターやイメージ関することや、噂そのものが、先行してしまっています。ここで愛依は「あたしはそこにいる」と書きます。これはクールでミステリアスな姿とかそういう外面的な姿としての愛依がそこにいるというようりは、そういう外面やイメージを、そして噂を抜きにして、ともかく「あたし」がそこにいるということを言っているように思えます。そしてそれを見届けてほしい、と。
そして、その「あたし」がどこにいるのかというと、それは「ステージ」です。すでに確認したように、愛依たちがアイドルユニットであるストレイライトになるためには、迷光を「身に纏う」必要があります。だからステージの上にこそ、アイドルユニットストレイライトは現れるということになります。
では、そのステージはどこなのかというと、それは「あたしたちがいるところ」だと言っているわけです。これが超超超重要でめちゃくちゃ面白い。アイドルストレイライトが現れる場所たるステージは、愛依たち自身がいる場所だという風に、再定義しちゃっているからです。
上で、「ステージ上のストレイライトというアイドルユニットは、冬優子と愛依とあさひの3人を寄せ集めた集団と同等ではない」ということを確認しました。冬子と愛依とあさひの3人が、アイドルユニットストレイライトとなるには、ステージ上で迷光を「身に纏う」必要がある、と。このように考えたとき、その「ステージ」というのは、テレビ番組やコンサートホールなどのような、カメラなどの設備が用意されたり観客がいたりする外側の場所を考えていたのですが、愛依の投稿を元に考えるとそうではない、という風になってきます。「ステージ」は「あたしたちがいるところ」なのです。
イベントSSR【いるっしょ!】の3つ目のコミュでは、愛依の家からの帰り道、プロデューサーの迎えの車を外で待つところが描かれます。寒いというあさひに、愛依はここをステージだとしてみて踊ってみようと提案します。あさひは乗り気になりますが、冬優子は言います。「誰もいないステージで踊るアイドルがどこにいんのよ」と。この冬優子の言葉の段階では、想定されている「ステージ」はやはり観客のいる場所です。ですが、この冬優子の言葉に愛依は「ここにいるっしょ~!」と答え、あさひも「ふう~~~!!」と楽しそうにしています。そんな2人を見て冬優子も「ふふっ」と笑ってしまうのです。
観客が誰もいないとしても、カメラなどの設備がないとしても、ここは「ステージ」。なぜなら「あたしたちのいるところにステージはある」のだから。そして「ステージ」においてこそ、「あたし」はいる。そこに、アイドルユニットストレイライトはいる。
この愛依の辿り着いた答えに基づいて考えると、次のような三段論法が成り立ちます。冬優子と愛依とあさひのいるところがステージである。そしてストレイライトはステージ上にこそ現れる。それゆえ、冬優子と愛依とあさひはストレイライトそのものである、と。上で冬優子と愛依とあさひの3人の集団はストレイライトとは同等ではない、と考えたわけですが、愛依の答えによってそれは覆るのです。3人こそが、紛れもないストレイライトだ、と。彼女たち3人が、The Straylight。
前回のストレイライトのイベント「WorldEnd:BreakDown」では、愛依はストレイライトの「真ん中」だということが示されたわけですが、その「真ん中」というのはこういうことを意味しているのかな、と今はちょっと思います。つまり、迷光を「身に纏う」ことでステージ上に現れるアイドルユニットストレイライトと、冬優子と愛依とあさひという3人の集団とを、同等のものとして結びつける存在としての「真ん中」ということです。愛依が「真ん中」にいることによって、3人こそが紛れもないストレイライトそのものでありえているのかな、と…… これはあまり根拠がないちょっとした思いつき程度ですけれども……
◆
ところで愛依のツイスタへの投稿、すごいですよね。「あたしはステージにいる」「あたしたちがいるところにステージはある」。「ステージ」を再定義して、自分たちのいる場所の方へとステージを持ってきてしまっている。
この投稿の持つパワーは、アンティーカのイベント「ストーリー・ストーリー」での霧子の「生きてることは物語じゃない」とか、ノクチルのイベント「天塵」の「こっち見ろー」とかに連なるようなパワーを持つ言葉だと思います。つまり存在論的なことを示している言葉ではないか、と。
ノクチルはノクチルで、アイドル業界の中でアイドル然としてやっていくことを望んでいないように見えます。ノクチルはカメラの外側で、アイドルとしてでなく何のためでもなく、存在の輝きを放っている。
ストレイライトはそんなノクチルと比較すると、アイドル業界の中での「アイドル」をやっていくことをいとわないように見えます。でも「アイドルとしては」という風に評価されることで冬優子は満足していません。そして愛依が出した答えのように、業界の中で求められた場所で求められた「アイドル」としてやっていくのではなく、自分たちのいる場所をこそ「ステージ」としてアイドルをやって行こうとするのです。
ここにはノクチルとストレイライトそれぞれに共通したところがあるように思えてきます。それは、すでに出来上がっている業界の中で、求められた場所で求められた「アイドル」をやるということへのカウンターです。
ノクチルは、自分たちはどういうアイドルになりたいのか、何のためにアイドルをするのか、という意味の水準をすっ飛ばして、存在が先立っています。先立つというか、存在そのものが浮き上がっているというか、そこにあるというような感じです。
ストレイライトはカメラの前で、ストレイライトというユニットを生み出して活動し、実力を見せつけているわけですが、それでも本物のストレイライトがいる場所はカメラの前ではなく、彼女たちがいる場所の方なのです。ここで、アイドルユニットストレイライトを生み出し意味付ける「ステージ」というものを、自分たちの存在に先立たせるのではなく、むしろ自分たちの存在に基礎づけようとしているのです。「ステージ」という意味に対し、存在が先立っているのです。
冬優子たちにとってこれが可能なのは、迷光を「身に纏う」ことで現れるストレイライトも、冬優子と愛依とあさひの3人の集団も、どちらも自分たち自身であり、ストレイライトだからです。
*Privatterの投稿は削除済み