エリア51の最終巻を読みました。連載で読んだ時同様にグッと来たのですが、久さんのあとがきを読んで別の意味でグッと来たのでふせったーでつぶやいてみます。ネタバレしてます。そして長いです。
あとがきで久さんはこう言ってます。「この話がマッコイの物語」「あくまで彼女個人の戦いを描こうとしてきました」と。そしてこうも言ってます。「エリア51という設定は舞台に過ぎません。なのでマッコイの物語が終わっても依然変わらず有り続けます」と。ここで僕は、ああ、と思いました。
なぜかというと、僕が@バンチ9月号に寄稿した「エリア51完結に寄せて」には書いたものの字数制限その他の理由で削ったパートが結構ありまして、そのうちの一つが久さんのあとがきと結構ドンピシャリだったわけです。
そこで何を書いていたかと言うとですね、確かこんな内容でした。
「14巻まで掛けて神話クラスの大スケールな大騒ぎを散々繰り広げた上で、最終的にマッコイが相対する敵はドッペルゲンガー。ヒトの技術で戦う自身の映し見である。この構成はあまりに示唆的だ。これはきっと『これまで色々あったし、これからも色々あるだろうけど、このお話は結局のところマッコイという人間の物語だったのですよ』ということを示したかったのではなかろうか。
また、最終決戦に至る流れで、町全体を巻き込む災禍の間接的要因となり、追っ手を次々に返り討ちにするマッコイの姿は、おそらく彼女もまた(これまで、因果応報を体現してカッコ良く退場してきた多くのゲスト同様に)エリア51を去るべき人物なのだということを暗に示しておきたかったのではないかと思わせる。そして、それはつまりマッコイが去ってもエリア51は有り続けるということだ。
本作において主役と舞台は別物で、主役が去ってもまた別の誰かが主役の物語は無限に始まっていくのだろう。そんなことを思わせる最終章だった」
……とまあ、こんなようなことを一回は書いてたわけです。
ただ、評論や感想で作者の考えを忖度するのはあんまり好きじゃないし、そもそも最終章のことはこれ(※最終話の載った雑誌)を読んでる人はみんな分かってるんだから、むしろ1~14巻のエピソードを回想させることに注力した方がレビューとしては効果的であろうと。なのでこのパートは削ったのですが、改めて作者さんご本人のあとがきを読んでみると、そう的外れなことを書こうとしてたわけではなかったのかな、と思えたというお話でした。
(ちなみに寄稿文で削った他のパートには、最終回の感想で「マッコイ役の女優さんが老けメイクのキシローやパイク役の声優さんと一緒に記念撮影してSNSに上げてるところまで見えた。イイネがめっちゃ付いてた」みたいな文がありました。舞台裏時空概念は僕としては好きな考え方なんですが、苦手な方もいらっしゃるだろうし、そもそも字数がめちゃくちゃきつかったので……)