JDAトランスクリプトとクリティークについてのコメントです。ブログはもうちょい推敲と整形してからかな…。
JDA決勝の[トランスクリプト](http://japan-debate-association.org/wp-content/uploads/2019/11/F22TS_temporary.pdf)が公開されました。正直判定でNEGが勝つのはだいぶびっくりしたのですが、割としっかり反応してしまったものの一人として、なにかしら認識をまとめておかないといけないだろうと思い、文章をまとめました。
ウェブ上でも多くの場所で盛り上がっていますが、ほとんどのコメントにおいて、まずそもそも「否定側がどのような手段を用いて、否定側に投票できると主張していたか」を綿密に検証する動きがないことに不満を覚えました。試合の観戦と、トランスクリプトを通じて得られた感覚としては、対戦相手であった肯定側も、そして私を含めた多くの聴衆もーもしかしたらジャッジの方すらー否定側のやろうとしていたことを試合を聞いただけでは正確に理解できていなかったと感じました。私は正直に申し上げて試合では否定側の構想が全く理解できず、試合後に選手の方の解説を聞き、トランスクリプトを読み直して初めて「おそらくこれが否定側のやりたかった展開なのだろう」という仮説に至っています。
私は、あるいは私たちは、まず何よりもディベーターなのだから、「クリティーク(らしきもの)」が提出されるべきかとか、そのチャレンジが望ましいかとか、歓迎すべきかとか、大上段の議論を振りかざす前に、まず何よりも目の前のディベートの議論について検証すべきであろうと思います。私の否定側の議論に関する解釈についても、多くの誤解や論理的誤り、思考の欠如を含むものではあるのでしょうが、それでもこうした議論の正確な理解を求めることこそが、まずは「誠実な」議論に対する応答というものではないでしょうか。なので、この記事では私がこの手の議論に対してどういう心情を持っているかは書きません(こう書いたらわかるでしょうが)。
今回の否定側の構想を理解する上で、鍵を握っているのは論点C・Dであると考えています。論点Cがディベートにおいてどのように判定を出すかという方法(以下、パラダイムと呼びます)の提案、論点Dが異なるパラダイム同士(というか政策形成パラダイム)をどのように比較して選択すべきかの提案、という構造になっており、論点A・Bはあくまで新たなパラダイムに沿うと否定側に投票できるということの論証(政策形成パラダイムでいうところのメリット・デメリット)の提出に過ぎません。なので、まず論点C・Dについて検討したのちに、論点A・Bがその基準に鑑みて投票に値するか、を検討することが必要です。余談ですが、否定側はまず論点C・Dを1NCで提出し、論点A・Bを2NCで提出、1NCに対する2ACへの応答1NRでやった方がきれいだしわかりやすかったと思います(そうしなかった理由があったら教えて欲しいです。ABを先に説明しないとCDが分かりづらいということなのでしょうか。)。なお、以降の「論点の内容」の解釈は、立論それそのものというより、反駁やその後のコメントを通じた理解も含めて記述しています。
まず論点Cの内容について見ていきましょう。論点Cは非常に重要な役割を持っている割に短く、試合中に補足される訳でもないので、ここがまずこのディベートの難しさを生んでいると思います。立論の流れだけではなく、反駁まで含めて推察するに、論点Cが意図していたのは、「(論題にまつわる)言説が暗黙に前提としている価値観を言説分析を通じて明らかにし、その価値観を批判して聴衆の認識の変容に寄与したような対抗言説が投票理由を構成する」というパラダイムだったのではないでしょうか。「投票理由を構成する」という周りくどい説明の仕方をしているのは、同パラダイムに則って肯定側からも議論が提出可能なため、パラダイムを判定に採用しただけでは勝敗は決まらず、同パラダイムの中で議論の優劣をつけ、その上で勝敗が決まるはずだからです。こうした理解のもとでも、論点Cについては、試合中を通して(そして立論では特に)、以下の二つの点はやや曖昧だったと考えています。
第一に、誰の認識を変容させたものを投票理由にすべきか、という問題があります。まず第一に思いつくのはジャッジなのですが、2NRの「そういう価値観に結びついた言葉が、一個でも、この会場にいる人が、一人でも、言わなくなったら、ですよ…明日から言わなくなったり、考えるようになったら、それは大きな進歩じゃないですか、社会の中で。」を聞くと、ジャッジに限らず聴衆一般を対象としているようにも受け取れます。ところが、論点Dでは「ジャッジの判定がコミュニティの価値観に影響する」という議論がされていて、この点は「聴衆を変化させるような言論を評価できるコミュニティにすべき」とも「ジャッジ当人の認識を変容させるような言論を評価できるような言論を評価できるコミュニティにすべき」とも判断ができてしまい、「聴衆の認識を変容させた度合い」で評価せよと言っているのか、「ジャッジ当人の認識を変容させた度合い」で評価せよと言っているのか、わかりにくくなってしまっていると思いました。おそらくは、聴衆一般の認識の変容が意図されていたのだと思います。
第二に、こちらの方が重要なのですが、論題の肯定/否定と対抗言説の関係が非常に曖昧であるということです。否定側の提出するパラダイムは、論題の肯定/否定とは全く無関係に、「最低賃金を引き上げるべきである。是か非か」というテーマの元で、聞き手(聴衆+ジャッジ)の認識を変容させるよう対抗言説を出したサイドを勝利とする、という解釈の仕方もできると思います。実際、JDAのルールは必ずしも勝敗の条件に「論題を肯定できれば肯定側の勝利、それを妨げられれば否定側の勝利」などと書いてあるわけではありませんので(まぁ他の条文から解釈すれば普通はそうだと思いますが)、このようなルール解釈とともに説明することは可能であったと思います。実際の試合では、論点Bの対抗言説として論題を否定する「インセンティブというなのもとに最低賃金を上げたり、もうそんなことはやめよう」という発言や、2NRの「私たちは、最低賃金を通じて発覚した言説と、その背後に潜む、働かない者は食べてはいけない、という価値観を明らかにして、それを論題の否定、という形で否定しました。」という発言を見ると、対抗言説は論題の否定を内包していることが予定されており、そうでないものは投票理由にならない、と否定側も認識しているのかなと私は解釈しました。この点については、純粋に戦略的に考えると、論題の肯定否定と否定側のパラダイムは無関係であると言ってしまった上でルール解釈の問題に持ち込んだ方がよかったのではないかと思います。実際私は投票理由を考える上で、この点にまつわるポイントが否定側の論証の大きな瑕疵であると考えました。
以上のような点の解釈を踏まえて論点C、つまり否定側のパラダイムを整理すると、「言説が暗黙に前提としている価値観を言説分析を通じて明らかにし、その価値観を批判して(ジャッジ当人が)聴衆の認識の変容に寄与したような対抗言説が投票理由を構成する。最も聴衆の認識を変化させた対抗言説が論題を肯定するものであれば肯定側、論題を否定するものであれば否定側の勝利とする」というように理解できるでしょう。そもそも「聴衆を変化させた」ということが投票理由になることの理由は説明されていないような気もしますが、人を説得するゲームなのだから、と言われればまぁ納得できるかな、という気はします。これをいちいち書くのは面倒なので、以下では対抗言説パラダイム、と呼びましょう。肯定側は対抗言説パラダイムについて、社会の価値観が変わるところまでを意図していると理解していたように見受けられる反駁が多々ありましたが、否定側はそこまでのことを述べていなかったように思います(後知恵ですけど…)。
論点Dでは、対抗言説パラダイムと政策形成パラダイムの比較が行われています。重要なポイントは後半の方で、「政策を考える上ではまず目的ないし思想が重要である」「実際に生活保護行政では、(言説の背景にある)価値観が政策に影響を与えた」「こうした価値観を排除することが再分配政策には重要だ」というようなことがあります(最低賃金が再分配政策であるかは正直疑問です。肯定側の言うように労働者保護みたいな文脈もありますし、国が一度徴収して分配するというような構造も取りません。ただこの点を批判なしに判定に採用するのは流石に力強い判定だなと思います)。要は「政策の影響を考える上で価値観を議論するのが先だよね。さらに価値観に影響を与える言説を分析するのはもっと先にやらないといけないよね」という構造なのだと思います。政策論争の上でこの考え方が重要だと言っている主張が政策形成パラダイムへの直接的な優位性になっていて、ジャッジのコミュニティに与える影響云々というところは正直なくても成立する気がしています。というかむしろそのあたりのコミュニティの変革、市民政治、といった議論が、否定側の企図している論点Cの枠組みがどこまでを指し、どこまでの論証に成功すれば否定側の勝率とするのかをわかりづらくしていた気がします。この辺りは、多分チーム内でも検討済みの点でしょうから、なぜそうしたのかを聞きたいところです。
さて、論点Cで対抗言説パラダイムが、論点Dで対抗言説パラダイムが政策形成パラダイムに優越することが示されましたから、あとは投票理由があるかです。本当は肯定側からも対抗言説の提出が可能なのですが、少なくともこの試合ではされていませんね。論点Aについては細かく解釈する余地があまりないので、論点Aで確かに新聞などを通じて言説が分析され、その背景にある「働かざるもの食うべからず」という価値観が否定されていることを確認することに留めます。なお、この点についての論争で肯定側からは「バッシングには他の要因もある」というような議論が提出されていましたが、1NRの言う通り、これは直接的に否定側の論証の構造を破壊するものではないと思います。むしろ肯定側は、「自分たちだって言説やそれが社会に与える影響、価値観を分析して見せたのだから、投票に値する」とかやった方が良かったのでしょうね(あの場でそこまでできたらエスパータイプだと思います)。
さて、こうなるともう論点Bで論題を否定するような文言とともに「働かざるもの食うべからず」を批判するような言及がなされており、価値観を否定する流れも出てきたのだから否定側の勝利…かなと思いがちですが、実はこの論点Bに否定側の論証の最も大きな瑕疵が存在すると私は考えています。対抗言説パラダイムとは「言説が暗黙に前提としている価値観を言説分析を通じて明らかにし、その価値観を批判して(ジャッジ当人が)聴衆の認識の変容に寄与したような対抗言説が投票理由を構成する。最も聴衆の認識を変化させた対抗言説が論題を肯定するものであれば肯定側、論題を否定するものであれば否定側の勝利とする」というものでした。否定側の対抗言説は、聴衆の認識を変容させたものでなくてはなりません。
ここで否定側の対抗言説は「働いていないことは悪いことじゃない。働いていない人も、働いている人も同じように食べられればいい。「働かざる者食うべからず」の名のもとに、生活保護を下げたり、インセンティブという名のもとに最低賃金を上げたり、もうそんなことはやめよう、やるべきじゃない。」というものでした。そして、聴衆に与える認識の変容とは、「バッシングの裏には最低賃金とそんなつながりがあったんだ」という気づきや「働かざるもの食うべからずという考え方は人を傷つけているんだな」というものであったろうと思います。このように考えると、あくまで聴衆の認識の変容に寄与したのは、「働いていないことは悪いことじゃない。働いていない人も、働いている人も同じように食べられればいい。」というような部分であり、最低賃金の引き上げ・引き下げとは全く無関係な部分であることがわかります。このことは、JDA-mlに提出された原稿で、肯定側ブリーフとして最低賃金に関する部分だけを論題を肯定する部分に差し替えたものが用意され、事実試合でも投票されているということが、何よりの証左であろうと思います。つまり、対抗言説といって否定側が一括りにしているものの中でも、聴衆に影響を与えている部分とそうでない部分があり、論題を否定したり肯定していたりする部分は、まさにその、影響を与えていない部分なのではないか?というのが私の疑問点です。あえて政策形成パラダイムの言葉を使ってこの問題を指摘するならこうです。
「ノントピカルなプランからメリットが発生しているから、投票理由になりませんよね?」
もちろん否定側からは、「一連の文章だから切り離して評価すべきでない」というような批判はあるのでしょうが、そのようなことを言い始めると、関係しそうな文言をなんとなく噛ませればなんでも関係させられるような気もしますし、対抗言説のどの部分が聴衆に影響を与えているかは、ある程度ジャッジに介入されても仕方がない部分であろうと思います。
途中から判定の話に入ってしまいましたが、私が解釈とトランスクリプトを踏まえた上でこの試合に下す判定は以下のようなものです。1)パラダイムとしては、まず対抗言説パラダイムが採用される(論点Dの特に後半がドロップされている)。2)ただし、否定側の対抗言説は「ノントピカル」であり対抗言説パラダイムでの投票理由を満たさないと考えるので、勝敗を決定できない 3)であるならば、少なくとも政策形成パラダイム下で明確に論題の肯定に成功している肯定側の勝利。否定側に入れるとすれば、A.2)の時点で「ノントピカル」のような判断をしない、B.2)のもとでpresumption NEGのような概念を導入する、C.対抗言説パラダイムの理解として論題の肯定・否定とは関係なく最低賃金に関連する対抗言説であれば投票理由を満たして良いとするあたりでしょうか。なお、「政策論争に目的が大事だと思って否定側」であるとか「社会に変革がおこらないと思ったから肯定側」とかは、(そのように理解したのは仕方がない側面はあるとはいえ)そもそもの否定側の提案の意図は汲み取っていない投票理由なのではないかと思います。私がもし否定側に投票するとすれば、Cの筋を丁寧に説明され、肯定側から応答がなかった時かなぁと思います。
最後に、私が「否定側が真剣に社会変革を望んでいるように思えない」と発言した点について補足します。今回の否定側の議論は、クリティークと言われる類の議論に対する深い洞察と、政策形成パラダイム下で培われるような論証や議論の優位性の立て方、考え方の癖のどちらにも精通していないと作れない非常に巧妙な議論であす(聞いてるだけではわかりませんでしたけど!)。一方で、そのような能力を持ち合わせた人が、クリティークを成立させるためだけに、「はたらかざるもの食うべからずは間違っている」という言葉についでに「最低賃金の引き上げ/引き下げ」という文言をつけている、という点についてはとても残念に思いました。本当に「はたらかざるもの食うべからずは間違っている」ということを社会に訴えて変革を望んでいるのであれば、なぜそのような考え方が望ましいのか、といった説明があっても良かったように思いますが、そうしたものは結局クリティークの説明やフレームワークの成立の論証に劣後する扱いであったことは否めないように思います。もちろん、ディベートに合わせるため、投票されないと見向きもされないから、いろいろな理由はあるのでしょうが、この3ヶ月少なくない時間をかけて政策形成パラダイムで最低賃金論題の準備に取り組んだ人間として、肯定側のフローシートは何もコメントされず、思想の表明の「ついでに」最低賃金も廃止してしまえ、と言い切られているという光景は、苦々しい思いがあったということだけは、お伝えしたいです。