スリル・ミーのM21『99年』の歌詞が「永遠に」で締めくくられる真意 「私」は本当の意味で超人になったのだということ
※なるべく冷静に書こうとしていますが今とても興奮しています。
Not forever, but life plus ninety-nine years.(永遠ではない でもこの命と99年)
私はM21で歌い上げられるこの一節がたまらなく好きだ。だからこそ、日本語歌詞に「永遠」「ずっと」というイメージが徹底して描かれていることや、この『99年』が「永遠に」という言葉で締めくくられていることがとても不思議だった。「永遠なんて不確かなものじゃない、でもこの命と99年」という、ひどく現実的で、どうしようもなく、実現可能な執念の結晶。それが "Not forever" という永遠の否定に凝縮されていると思ったから。
音楽のワンフレーズに込められる情報量は、英語と比べると日本語は遥かに少ない。英語から日本語に翻訳した上で、物語性を出すために必要な言葉選びだったのだろうと一応は自分を納得させていた。つい先程までは。
でも、この「永遠」がニーチェの「永劫回帰」を指しているのなら、この翻訳が意味するものはまるきり変わる!
「永劫回帰」はニーチェの著作(ツァラトゥストラはかく語りき)で提唱されている思想で、簡単に言うなら「私は何度でもこの人生を繰り返そう」という究極の肯定だ。ここで言う「繰り返し」は所謂「人生のやり直し」ではなく、「寸分違わぬ全く同じ人生をもう一度繰り返したとしても、私は後悔せず、喜んでそれを受け入れよう」という、言ってしまえば1枚のCDを永遠に繰り返し聞き続けて良いと言うようなものだ。普通は間違いを正そうとしたり、より良い方へことを運ぼうとする意味での否定(修正、と表現した方が良いかもしれない)が生じるにも関わらず。そしてニーチェは、この永劫回帰を受け容れられる人間こそが「超人」であると述べている。
私は今まで何を聞いて、何を見ていたんだろうと思った。「私」は言っていたのに。I'm a superior human being after all.(僕は超人になれたのさ)と!
スリル・ミーの中で、いや、「私」の回想の中で、「彼」は超人の意味を歪めて捉えていた。「彼」にとって超人とは「他の人間と自分は違う」ということを証明するための言葉で、「私」の言葉を借りるなら単なる「力への意志」に他ならなかった。そこに生の肯定という意味合いは無い。しかし、「私」が最後の最後になれた「超人」が、本来の意味の超人なら。
「私」はきっと子供を殺したことで心が傷んだだろう。罪の意識もあっただろう。しかし、それでも「私」はこの一生を繰り返すことを選ぶのだ。
「彼」と出会い、「彼」を手に入れるための人生だから。
フィナーレで「私」は高らかに歌い上げる。
”さあ いいか? 僕たち ふたり 共犯者
だから スリル・ミー!”