シェイプ・オブ・ウォーターをロマンス視点ではなく「The Othersたちの逆襲」として観る上で、それぞれのキャラクターの立ち位置について思うこと
※ネタバレ込み
ギレルモ・デル・トロ監督はシェイプ・オブ・ウォーターの登場人物たちを「彼らは『The Others』なんだ」と述べている。そして「『シェイプ・オブ・ウォーター』はこの『The Others』たちの逆襲の話なんだ」と続けている。
そしてアカデミー賞のスピーチでは「わたしたちの仕事は地面に書かれた線を消すことだ」と述べた。
身体障害者、黒人、ゲイ……彼らは60年代当時いないことにされていた人たちであり、声をあげることなど到底許されなかった存在である。
イライザは文字通り口を利くことができない。
ゼルダは黒人で当時は人権など存在しない。
ジャイルズはゲイで、こちらもバレたら犯罪者の扱いだ。
「普通の白人」しか存在を許されなかった時代に声を封じられた人々。
そんな彼らが寄り添いあいながら、己を殺しながら世界の片隅で静かに息をしている。
掃除の仕事には全く向かないヒールとスカートの「女性らしい」制服に身を包みながら仕事をし、面と向かって口説くことなどできないから美味しくもないパイを買い続けることでなんとか恋する相手の記憶に残ろうとする。
そんな自分達と似た存在である、こちらの言葉を話せない中南米からの「移民」である半魚人。
「普通」から外れた彼を共に助けたいと願ったのも、己を隠した孤独なスパイであるホフステトラー博士だ。
人種や国籍や言葉など飛び越えて助け合う人々の姿がそこにある。
そして彼らの敵となるストリックランドは典型的なエリート主義で男性強健の白人男である。
彼は地位を持ち美しい妻とかわいい子供たちと暮らす、「ごく普通」の男である。
「強いことが正しい。勝つしかない。」と自らに言い聞かせて体現し、それがまぎれもない真実だと信じている。
彼は物語冒頭で文字通り「欠ける」。
不完全な存在となった彼はそれを無理矢理繋げたり、成功者の証である高級車などで埋めようとする。
そんな彼を更に追い詰めるのは不完全でありながらありのままで輝くイライザである。
それまでの「普通」が邪魔をして、彼女に惹かれる理由すら理解できない。
彼にとっての指が銃を握り、女のアソコに突っ込むためのものならば、彼女の指は言葉を話すためのものであり、その違いからまず理解できない。
喉を失った彼が一命をとりとめても、言葉を表す術が無いことを知るのは先になってからだ。
そして彼の場合は指三本だったから誤魔化しがきいたが、これがもし腕が丸ごとだったならその時点で彼は間違いなく周りからイライザたちと同じ側として扱われただろう。
自分が弱者として絶対的な力で押さえつけてきた存在と同列になるのである。
彼自身指を失った時点でそのことにうっすら気がついておりながら、誤魔化しがきくからこそそれを認めるわけにはいかなかった。
彼の中にある「普通」という価値観のせいで、ストリックランドはイライザたちの側へはいけない。けれども今まで通りにもなれない。
「いつまでまともであることを証明すればいいんですか」と思わずこぼしたあとに、欠けたものを無理矢理繋げてももう元には戻らないことを思い知り崩壊してしまう。
差別主義者と糾弾するにはあまりにもあまりにも哀れな男である。
また、そんなストリックランドに手を貸すのはゼルダの夫である。
いきなり表れて「困難にある主人公を救い出し、物語を展開させる」「自分の過ちを見つめ直し、それを乗り越えようとする白人を手助けする黒人」
そんなマジカル・ニグロとしてなら存在を許された黒人。
そこから決別するためにもゼルダ自身は口を閉ざし、「友人として」イライザの元へと向かったのではないだろうか。
そして個人的に一番考えてしまうのはパイ屋の彼だ。
一見するとただ淡い恋をしていただけのジャイルズの心を酷く傷つけたゲイフォビアだけれど、彼もまた本人が気づいていないだけで己の言葉を奪われた存在だ。
彼は仕事をする上で言葉の訛りを直すように求められている。
世の中の「普通」に合わせるよう求められ、そして自分がその「普通」に合わせることに何の疑問も抱いていない。
彼にとっての普通は「ゲイは嫌うもの」であり「黒人は店から追い出すもの」であり「言葉の訛りは直すもの」なのだ。
「普通の人」という誰が決めたわけでもないルールに何も疑問を持たずに従わされ、その上でそのルールを知らず知らずのうちに他者にも強要する。そしてそれに従わない存在は異端として嫌悪を抱く。
パイ屋の彼は私たちに一番近い存在なのではないか。
私たちの考える「普通」は時としてそこに当てはまらない誰かを酷く傷つけているのではないか。
そんなことを考えてしまう存在であった。
そしてこの映画のラスト、これはあくまでも誰にもわからないものである。
半魚人の真意も最後までわからない。
冒頭がジャイルズの語りで始まるように、このラストはジャイルズの想像上のものなのかもしれない。
けれどこのラストはあの結末がパンズ・ラビリンスのオフェリアにとっての救いであったように、残された人々にとっての救いなのかもしれない。
現実問題その後のジャイルズとゼルダは警察があの場に到着している以上尋問を受けるだろうし、そうでなくてもジャイルズはイライザを失いひとりぼっちになってしまう。
夫の発言でゼルダの家庭には今後蟠りが生まれるかもしれない。
ずっと孤独だったホフステトラー博士は誰に看取られることもなく、恐らく亡くなった後も誰に見つかることもないままあの場で孤独に朽ちていくだろう。
けれど「彼女を愛している半魚人が彼女の仇を取り連れていった」「あの二人はどこかで幸せに暮らしている」と信じることで彼らが戦った意味は確かに存在するし、彼らの逆襲は報われるのだ。
だからこそわたしは彼らのためにもあの二人のロマンスをあの物語の通りに信じたい。
また、半魚人が猫を食らうシーンでジャイルズは「仕方がない」とすぐに受け入れる。「彼にとっては普通のこと」なんだと。
「かわいい猫を食べるなんて!」と衝撃を受けるけれど、恐らくこの感覚は海外の人々からの「賢いイルカやクジラを食べるなんて!」に近いんだろうなということに気づかされる。
そこまで極端でなくとも文化の違いにおいて、カルチャーショックを受けることは色々な場面で出てくる。
文化の違いを理解できるできないは別にしても、「彼らにとっては普通のこと」と考えることは可能なんだと思う。
水に決められた形がないように、「普通」にも本当は決められた形など存在しない。
デル・トロの語る「地面に書かれた線を消す」ということ。
まだまだ道のりが遠く見えるそれは、本当は一人一人のほんの少しの意識だけで大きく変えられるのではないかと希望を持っていたい。
【追記】
パイ屋の彼のところで「黒人は追い出すことが普通だと思っている」がちょっとニュアンスとして違ったかなと思ったので少しだけ書き直す。
もしあの場で入ってきたのが白人だったならば「タイミングが悪い」とみなしても客を追い出すようなことはしないと思う。
適当に席に着かせつつジャイルズの方をすぐに追い出すのではないだろうか。
あの場で入ってきたのが「黒人の二人組」だったからこそ、今自分がジャイルズの告白を受け入れたら自分は「こっち側」の人間になると思ったのではないだろうか。
せっかく言葉の訛りを直して「普通」になった彼にそれは耐えられないことだったのではないだろうかと考えてしまう。
だから黒人の客を追い出して、二人きりになったところで「俺はお前を受け入れない。お前らの側にはいかない」と宣言したのではないだろうか。
また、ストリックランドもエリートはエリートでも未だに安いキャンディーを手離さない「叩き上げの」エリートである。
だから「本物の」エリートであるホイト将軍からの評価が全てであり、それがなくなったことで壊れてしまった。
キャンディーのように愛着さえ持てれば、イライザへと向けた執着とは違った形で素直なその愛着を向けられたなら、彼も壊れることはなかったのだろうか。
同情や憐憫の情は沸かずとも、より一層の哀れさは感じてしまう。
また、大切なペットを食われたのに「仕方がない」とすぐに割りきれるその心情に、ジャイルズは今までどれだけそうやって割りきらなければやっていられない目に遭ってきたのかということにも思いを馳せてしまうのである。