【プロメアネタバレ】
リオ編。劇場公開されたので単体でまとめます。出てきてないけどほぼクレイの考察。あれは事実上のリオ編でありながら対比による実質的なクレイ編だったなと思うんですよ。
なんかもうそれまでクレイに対して想像するだけだった『概念』が補強されてしまって情緒の限界レベルがメチャクチャになりました。
本編ではリオとクレイは同じバーニッシュとして、他人を導くリーダーとして行動や考え方が対比的に描かれる部分が多かったのでリオ編ももちろんそういうところは多々あるのですが、だけじゃなくむしろリオ編に出てくる全てのバーニッシュがそれぞれある部分においてのクレイとの対比になってるんじゃないかと感じたんですよね。
それが一番顕著なのがシーマ。
ガロ編と合わせて、あの世界で「突如バーニッシュになってしまうこと」が具体的に作中で描かれる唯一のキャラクターです。人間はそれぞれ考え方がありますが、なんの変哲も無い一般市民(体制側の人間)という立場から被差別側へと突如堕ちてしまうことの恐怖と戸惑いはあの世界における「普通」の感覚を表してると思います。バーニッシュは社会から排除するものであり、無条件の悪であり、自分たち『罪なき人間』とは違うものであり、そして「自分がそうなることを想像しながら日々生活してる人はほとんどいない」ということでもありますね。
まさか自分がそんな目に遭うわけはない、自分は「普通」であるという根拠のない思い込み。朝、玄関から出たら鉢植えが頭に落ちてきて死ぬかもしれない などという想像力を働かせながら生きてる人はたぶんそんなにいないと思いますし、台風の日もちょっと外に出るくらい大丈夫だろと思ってしまう人は一定数いるのでそういうのに近いですね。本編のピザ屋で「バーニッシュが作ったピザを客に出してたのか」「気持ち悪い」と吐き捨てていたモブたちも、当然「明日は自分がバーニッシュになっているかもしれない」などという想像をしていないからああいう物言いができるんです。
クレイがバーニッシュに覚醒してしまったとき全く同じ精神状態であったとは言いませんが、少なくとも自分がそうなってしまうことを想定して毎日生きていたということはあまり無いと思います。
クレイがシーマのようにならなかったのは、咄嗟にガロを助けた手柄にするという機転がきく頭と理性の持ち主だったから。
シーマは「家に帰して」というどう考えても自殺行為である思考をするほどパニックになり現実をすぐに受け入れることが出来ませんでしたが(まぁそれが一般的な人間の反応だと思う)、クレイはどこまでも頭の回転が速く現実肯定ができる人間だったんですよね。現実を肯定するからこそ理想論的な奇跡の可能性を排斥して、結果としてパルナッソス計画を実行しようとしたくらいなので。
また、クレイが現実肯定をしたうえで、もし罪悪感に悩むことなく開き直ってバーニッシュの力を使う道を選んだとしたら…というのがゲーラとメイスのような生き方だと思います。体制に押さえつけられ人権を奪われることに抵抗し、体制側というカテゴリーの人間を攻撃することでしか自分たちの存在肯定が出来ない者。
本来抵抗すべきは社会体制という『仕組み』であって、体制に生きる人間という『個人』への攻撃はただの思慮に欠けた八つ当たりでしかないんですよね。思想的な主張ですらない愚直なテロ行為です。これもまたそういうことを想像できない『ヒト』の愚かささを描く、という脚本上の意味合いとしてすごく重要な役どころだと思います。正直ゲーラとメイスの役回りは本編だけだと個人的に物足りなさを感じて寂しかったので、リオ編で役割がハッキリしたらめちゃめちゃに愛しちゃった。
またこの二人で興味深いのは、おそらくリオと出逢うあの日までの間に人を殺したことがあり、その事に疑問も罪悪感も(少なくとも今の時点では)感じていないであろうことです。
作中では明確に誰も殺してはないですが、リオが足止めしたヴァルカンに対して迷わず攻撃を加え、しかもそれを止めたリオに「なぜ止めた」と憤りを見せたので人に殺意を向けることに抵抗感がないんですね。なぜ、という物言いはつまり「殺すのが当然じゃないのか」ということなんですよ。
これはなにもゲーラたちが倫理観のないゲスであるとか根は悪人だったという意味ではなくて、「どんな人でも状況が揃えば殺人者になり得る」ということなんです。
二人はリオが来る前から難民バーニッシュを匿って面倒を見ていたりと仲間意識は非常に強いので、他人を思いやれる善性はもちろんあると思います。でも自分たちの目先の立場の確保に躍起になるあまり社会への抵抗=無差別の暴力という一番単純な結論しか出せず、人間とバーニッシュとの溝を逆に深めてることには気づいていないし非バーニッシュを犠牲にすることの罪の重さを自覚してないんですよね。少なくとも今はまだ「そうすることが正しい」あるいは「そういう社会だから仕方ない」と考えてしまってると思われます。自ら最強を名乗ったり「つまらないから」というただの気まぐれで被害を広げるゲーラは前者の意味合いが強いと思いますがメイスは「政府がそれを許すのか」と体制的な問題を口にしているのでおそらく後者かなと。メイス、頭がいいという設定があるわりにあんまそういうところ本編では見られないけどこの台詞でちょっと片鱗は見えた気がしますね。どうやってもバーニッシュは生きにくく立場が弱いということを現実的に見据えられるからこそ「殺られる前に殺るしかない」と諦めてしまっているのではと。
この二人はこのように社会という状況に追い込まれた時、あるいは自分の信じる正義という大義が出来てしまったとき人は人を殺せてしまう、という意図で描かれていると解釈しましたのでつまり「普通の人」と「殺人者」を分かつ明確な区分など本来はなく、誰でもそうなりうるという危険性を暗に示しているんだろうと思います。それは現実においても当てはめて考えられる悲劇でもあり、「殺人者は性根の全てが悪」という単純思考で済ませていい話でもないし「良い人だけど状況がそうなら仕方なかった」で必ずしも済ませられる問題でもないと思うんですよ。加害者を「社会に抑圧された被害者だ」と外野が言うのは簡単ですが直接の被害者からしたら「本当は良い人だから」「社会がそうさせたので仕方なかった」で納得できる話ではないですからね。人を害してしまえる状況や条件が揃ったとして、最後に引き金を引くかどうかはやはりその人の意思によるんです。
これは本編でのリオドラゴンも同じですね。おじいちゃんの心理を利用し裏切らせるという罠を仕掛けたフリーズフォース(もしくはそういう命令を出したかそんな社会を作ったクレイ)に対して絶望と怒りで心がいっぱいになってしまったリオは街を焼こうとします。「なんの罪もないバーニッシュを殺してきたのはお前たち(人間)だ」という主張はもっともだと思えてしまうし、リオが普段はいたずらに人を殺す快楽殺人者ではない、むしろそういうことを嫌う善性の持ち主であることは言うまでもないですけど、そんなリオでも『バーニッシュ』と『人間』とをカテゴリーで分けて、やられたらやり返す!!!!という勢いで理性のない無差別な暴力行為に出てしまった。リオ編のラストでゲーラとメイスのテロ行為を叱責し、バーニッシュが平和に暮らせる場所を作る、と宣言していたリオでさえ追い詰められればこうなってしまう。ガロが止めてくれて本当に良かったよ。その後のクレイとの直接対決(リオデガロン中破のあと)でもやはりクレイを殺しにかかって「殺すのはダメだ!」と止められてるのでマジでリオは感情的になると猪突猛進漢だしガロの冷静さが安心安全の理性セコム。
リオは引き金を引ききらずに途中で止めてもらえましたがあの二人にはそれが無かったと思えるので、その段階で重い罪はあると思います。他人を害することなく、人知れず自ら命を絶ったバーニッシュなどもあの世界のどこかにはいるかもしれませんね。
「自分の信じる正義のために人は人を殺せる」という意味合いで考えるならこれこそクレイに当てはまることだと思うんですよ。バーニッシュを「貴重な犠牲」と呼び『命』と認識していながら道具のように使い潰してきたことも、デウス博士を殺したときも心情としてどういう思いがあったのかは具体的に明言されませんが、ゲーラとメイスを通し脚本の意図としてこういうテーマが描かれている以上、クレイは「これが正しい」、「タイムリミットまでにはこれしか手がないから仕方ない」と思うことによって人を殺す罪を背負える『人間』じゃないかと思えてならないんですよね。
なのでこれはリオ編からはややズレるのですが、クレイはその「理性で選んだ正しさ」によって非バーニッシュであるうちにデウス博士を殺したのではないかと思っています。あそこの時系列未だにわかりませんが、可能性として「クレイなら理性でそれをやれてしまえる」と思うんですよ。
クレイがバーニッシュになったときシーマのように戸惑うことがなかったのはすぐに現実を見て頭を巡らせられる理性があったから。そして現実を肯定しながらも早々に正体を明かして人を殺しながらの逃亡生活をおくるという人生を選ばなかったのはやはりこれも世界を救わなければという理性的な選択であり、かつクレイのもつ善性と良心から来るものだったのではないかとも思えます。
だって「本能を抑えることは難しい」という発言のとおりそれは抑え続けるだけで凄まじく神経を使う生活をするって事で、それだけでめっちゃ辛いじゃないですか。他人と戦える力があるんですから他人が傷つこうが自分のためだけに生きるほうが考え方としてはよりシンプルで簡単なんですよ。しかしクレイはそれらを良しとしなかったんですよね。地球の救済を他人に任せて(押し付けて)自分は消えるということもしなかった。
ただここがクレイの複雑なところで、理性的に「バーニッシュになった」という現実肯定はしながらも、感情的に「自分はバーニッシュである」ことを受け入れられるかどうかはまた別問題なんですよね。それが「左腕を再生しない」とこに表れてると思います。
バーニッシュになったことを客観的に受け止めて現実的な対策や隠すための対応はしますが、バーニッシュ(プロメア)の力を自由に使ってしまえばクレイの思う人間性の否定やガロへの罪を忘れる・なかったことにするという逃避になりかねない。それを良しとできなかったクレイの自己矛盾が本当に…本当に愛しい…。その不器用に地獄の道をひた走ることで浮かび上がる人間性がたまらなく尊い…。
限界オタクなのでもう既に感情が限界に達してしまいました。
とにかくそんな感じでクレイの「もしも」を考えてみた場合、バーニッシュになった現実を受け入れられなかった無辜の市民の可能性がシーマ、他者を害することで自分たちだけを守ろうとする人生がゲーラとメイス、もちろん他人を害することを拒否しながらも具体的に何をしたらいいかわからず状況に流されるしかない力無きバーニッシュとしての人生が難民じゃないかと。
そして、そういったバーニッシュに人権を取り戻し『理想的なリーダー』という導き手であろうとする者としての対比がリオだと思います。
ゲーラとメイスに対して「体制側に反発するのではより溝を深めバーニッシュの立場を悪くするだけ」というのも凄まじく理性的な考え方ですよね。感情的に体制側に殴りかかりたくなるのは人情ですが、リオは理性をもってもっと冷静に物事を見通せる晴眼の持ち主です。リオのそういうとこいっぱいちゅき。ただし完璧な指導者ではなくまだまだ青臭い理想論者に過ぎないというのも好き。現実と折り合いをつけるのは大事ですけど、現実の前に膝を折ることなく純粋に理想を信じ続けられる真っ直ぐさは保つことが難しいからこそ尊いと思ってるので。クレイのような現実主義とリオのような理想論、どちらかが正しいのではなく世界にとってはどちらも等価値なんだと思うんですよ。手段として現実をとるとしても、まず「人を助けたい」という理想がなくては現実的な行動をすることすらないわけですし、理想を忘れてはただの感情のない歯車になるしかないんですよね。そこを喪ってしまっては極論一つのプログラムしか実行できない機械や機構になるしかないと思うので。でもだからといってバーニッシュたちのことだけを思いやり体制側に我慢を強いるような方法は片方の価値観を押し付けているだけなので、一方的正義感の理想を掲げるだけではそれはワガママでしかないです。
リオとクレイ、同じように物事を見通す理性がありながらリオは「そのために力(炎)を使う」とし、クレイは「そのために力(本能)を押さえつける」道を選ぶ時点でもう特大対比構図になってるので対比構造大好きオタクはこの時点でゲロ泣きして一度再生を止めた。しかもここ、夕陽を背に振り向いたリオの瞳がすごい赤いんですよね。もうほんと真っ赤なんですよ。夕陽だからって赤すぎない?ってほど赤い。
前に「クレイの瞳は本来はブルーで、プロメアの影響で感情が昂ったとき赤になる(バーニッシュになってから赤目になった)のではないか」という考察をしたことがあった気がするんですけど(ふせったーに入れたかどうかは覚えてないです)、リオ編のこれで概念として『答え』を見せられてしまったのでもう本当に無理無理の無理でした。「無理」と「待って」しか言えない壊れたレコードと化してしまった。
バーニッシュが皆そうなるという証明ではないと思いますし、本当にただの夕焼けの影響である可能性ももちろん考えてますが、でも少なくとも『瞳の色を赤で塗る』という一手間はかかってるわけじゃないですか。『瞳を赤くする』という作り手の意思があるわけです。瞳の中に燃える赤色があるのはガロですが、瞳そのものが赤いキャラなんて作中にクレイしかいないんですよ。だとしたらこれはもう意図として完全にクレイとの対比ではないですか…?同じバーニッシュでありながら他人を導くリーダーとして、同じく物事を見据える理性を持ちながら理想を捨てどこまでも現実を見る現実主義者と現実と戦いどこまでも理想を追い求める理想論者として、そしてそのために炎を拒絶した男とそのために炎と共生する男とのこれ以上ない対比関係であり「リオは『もしも』の可能性を歩んだもう一人のクレイ」概念が強く浮かび上がってくる構図では????オ゛ェ゛ッ゛(情緒の限界)
正直クレイの「そうなっていたかもしれない可能性」として考えていた全部がリオ編に詰まっていたのでもうほんと…無理……好きだ……しんどい……。
可能性があればあるほど本編の「それでもそうならなかったクレイ(この生き方を選んだクレイ)」という概念が強まっていくのでマジでほんと情緒と涙腺がダメダメなんですよ。語彙がなくなっていくのをかんじるぞ。
しかもこの『感情が昂ったとき瞳が赤くなる』の妄言を仮定として考えるとリオがこの時に言うセリフが上記の「お前たちのような者が無闇に暴れるからバーニッシュの立場はますます悪くなる」という叱責なんですよね。リオ、そこまで淡々と喋ってるんですが「お前たちのような」のところはわずかに揺らぎ、声に怒りのニュアンスが入るんですよ。他人のために怒っているんですよね。ゲーラとメイスに対する叱責と同時にそもそも暴力に訴えることでしか生きられないほど理不尽な社会そのものに対する怒りじゃないかと思います。ここで感情の昂りがMAXになってるとしたらハイパーエモーション。これもまた「他人のため」に憤るリオと、自分で選び積み上げてきた計画が否定されていくことで「自分の」感情として憤りを見せてきたクレイとの対比すぎてオ゛ェッッッッてなりました。後半ほんと言葉を忘れたゾンビになるしかなかった。そして自分のためじゃなく他人のために憤るリオもまた愛しい。
本来たった独りで全人類の命運を背負うほどの責任なんかただの学生にはどこにもないはずなのにその自己責任感を放棄して安易に死を選んでしまわず、何も考えない愚かにもなれず、また世の理不尽に対して感情的な他人への暴力という簡単な結論に向かわず、しかして理想論を追い求めるだけでは現実の厳しすぎる厳しさを超えることはできないリアリストであったためにバーニッシュが受ける苦しみとはまた違う地獄のような道を自ら選び続けたクレイ、あまりにも……生きるのが下手くそ……。愛……。
そこで他者に手を差し伸べ他者と手を取り合い「助けて」と言えたならきっともっと楽だったはずなんですよね。でも右手でデウス博士と協力する道を断ち、左腕でプロメアと共生する道も絶ってしまった。右手の炎でガロを殴り、左腕の炎でリオの命をエンジンに使おうとした。クレイが最初に間違えたとしたら本当にここだと思います。自分は他人を救う救世主にならねばと思うばかりで、自分もまた他人に助けてもらう人間である意識がなかったこと。「他人と手を取り合って生きる」ということを自ら徹底的に排除してしまったこと。
人は一人では生きられない、繋がる意思が螺旋になるという命題を地でいく中島かずきワールドにおいてたぶんクレイの犯した最大の罪はこの「拒絶」だったと思いますね。
でもそれらがあったからこそガロとリオはあの結末に辿り着き、クレイがもしそういう人生を選んで来なかったら、もしクレイが存在しない世界だったら火事を経験した『火消しのガロ』も存在せず、ああいう結末にはたどり着かなかったという無茶苦茶な『結果論』がドンと出されてしまってるので、罪ではあったかもしれないけど『間違った人生』では決してなかったのがもうほんとなんとも言えず大好きです。デウス博士とお互い信頼関係が出来て協力し合えていたら、プロメアと共生しながら平和的に真の声に耳を傾けていたらもっともっと良い解決方法はあったのかもしれないけど、でも少なくともあの本編軸においてはクレイのそういう矛盾に満ちた人生の肯定は成されているしそれに対して「余計な真似を」を万感の想いで言っていると思うのでマジで今クレイへの感情「愛」しかないですね。何回も同じことを言ってしまうな。もういいか。
とにかくそんな感じでリオ編の感想でした。1ミリもクレイ出てきてないけどクレイで想像していた概念と可能性の殆どが見られたので感無量です。リオ編がそんな感じだったのでクレイ編は無いなと確信したというかむしろ本編がクレイ編だと思います。
おわり。