鈴原サクラ、怪文書のせいでシンジとしっぽりやる感じになってるけど子供の頃の怪我の傷跡とか残ってそうだし、あのこじらせぶりを見るにそういうのシンジに見せたくないんじゃないだろうか。
「で? サクラとはどこまで行ったのよ」
ケンスケが資料を取りに行っている間、アスカがそう訊いてきた。
「どこまで、って……」
「鈍いわねえ、付き合ってんでしょ?」
「あー、えっと……キス、までは……」
シンジは恥ずかしそうに頬をかいた。
「はぁー!? まだキスぅー!?」
「ちょ、アスカ、声大きいよ」
「あんた、付き合って一年は経って、まだキスぅ!? 嘘でしょ!」
「べ、別にいいだろ」
「ほんっと、いい大人になったかと思ったらそういうとこはガキシンジね」
「まあまあ、そういうのは人それぞれだろ。ほら、シンジ」
部屋の奥から出てきたケンスケがシンジに資料を手渡した。近隣の復興状況に関するデータについて二人が話す間も、アスカはシンジをじっとりと睨みつけていた。
「じゃあ、また連絡するよ。アスカも気を付けて」
「あんたこそ、ぼやぼやしてるとその辺のやつに盗られちゃうわよ。サクラは可愛いんだから」
「わ、わかったよ!」
シンジの乗った車が走り出すと、アスカは「ったく、世話の焼ける」とつぶやいた。
「うーん、まあ、サクラちゃん次第じゃないか?」
ケンスケの言葉にアスカは首をかしげたが、すぐに何かに気付いた顔になった。
「スーツ暑いな……」
黄昏の中を初夏のぬるい風が通り抜け、シンジの首筋を撫でた。地球の環境が回復して四季が戻ると、慣れっこのはずの暑さがやけに堪えた。
「今日は僕が夕飯当番だし、急がないと」
シンジは歩く速度を速めた。
サクラはシンジとあまり触れあいたがらなかった。とは言っても嫌がっているという様子ではなく、何かの一線のようなものが彼女の中にあって、それを越えられないでいるようだった。
恋人同士なので、月に何度か『そういう雰囲気』になることもある。しかしそういうときも強く身を寄せ合い情熱的なキスを交わすだけで、興奮が閾値を越えようとすると途端にサクラはシンジの胸板に顔をうずめ、二人の鼓動が鎮まるのを待つのだ。
シンジもそういうことに悶々としないわけではなかったが、何も言わずサクラのしたいようにさせた。
アパートの階段を登ると、すぐに二人の部屋があった。鍵を開けて、ドアを開く。
「ただいま、サクラさん──」
ドアを閉め、靴を脱ごうとした姿勢のままシンジは固まった。目の前に裸のサクラがいたからだ。
もちろん、目の前のサクラも固まっている。ちょうど風呂場から出てきたのだろう。兄譲りのやや浅黒い肌は濡れて光っている。まだタオルで水を拭ききっていない髪が肌に貼りつき、そこから水が流れ、彼女の下半身の豊かな曲線をなぞって床に落ちた。それを合図のようにして二人は叫んだ。
「い、い、碇さんっ!?」
「ご、ごめんっ、見てないからっ!」
「いや見てないって絶対嘘や──って、それより服!ほんますんませんちょっと待っ──」
焦ったサクラの素足が、濡れた床板で滑った。サクラが踏ん張るよりも早く、シンジが飛び出して彼女を抱きとめた。
「大丈夫!?」
「あっ、は、はい。ごめんなさ──あっ」
シンジに裸の自分を抱きしめられているという状況に気付いてサクラがまた動揺した。
シンジはサクラの素肌に釘付けになった。彼女の肢体に見惚れた──わけではない。
彼女の小ぶりな乳房、その下。左の脇腹に、うっすらと白い傷跡があった。
「ごめんなさい、隠してて」
小さなソファに二人は並んで座り、サクラはシンジの腕にしがみつきながら、ようやく言葉を発した。
「いや、僕こそごめん。酷い怪我だったって、知ってたのに」
「あっ、あの、でもっ、怪我の痕ってわけやないんですよ! 怪我して、ちょっと、ほんまちょっとだけ、手術することになって、それで……。碇さんのせいじゃ……」
その後に言葉は続かなかった。シンジに続きを言っても意味がないことはサクラが一番わかっていたからだ。長い沈黙が再び訪れた。テーブルの上の麦茶に入れた氷が軋む音をシンジは聴いた。
「……サクラさん」
「やめて!」
サクラがシンジの腕をさらに強く握りしめた。そうしていないと崩れ落ちてしまうかのように。
「せやからっ、せやから、知られたくなかったんです! 碇さん、これ見たら絶対背負ってまう。私のせいで、背負ってるもん一個増えてまう」
「そんなことは……」
ない。そう言いたかったが、できなかった。嘘をつくことになるから。サクラにも、自分にも。
「私が『気にせんで』言うて、碇さんがほんまにそうしてくれても……でも、碇さんはこのこと知ってるから、それまでの私たちやなくなる思って……。どうもできんから、ずっと黙っとこうって、それで、それで……」
サクラもそれ以上は何も言えなくなった。代わりに、シンジは部屋着の袖に熱いものが流れるのを感じた。
シンジはサクラを抱きしめた。大丈夫というように。あるいは、抵抗を封じるように。
「サクラさん、ありがとう。でも、ごめん。背負わないってのは、無理だから。だから、サクラさんこそ気にしないで。これは僕がやりたいことだから」
「…………無理や」
シンジの腕の中からくぐもった声が聞こえた。
「……そっか」
シンジは抱きしめたままの肩を軽く、一定のリズムで叩いた。
「じゃあ、慣れていこうよ。僕がその傷も背負って、それからを長くしていこう。当たり前のことにするんだ。一緒に、二人で」
「碇さん……」
サクラが身体を動かしたので、シンジは腕の力を緩めた。サクラは泣きはらした眼でシンジを見上げた。
「だから、隠すよりもよく見せてほしいかな」
加持の影響が今更出てきたのか、大人の男っぽく決めようと思ってそう言ったが、直後にシンジは後悔した。言葉が上滑りする感覚が確かにあった。
サクラはきょとんとしていたが、見る間に顔が赤くなっていった。
「……スケベ」
「えっ、あっ、いや、今のは……」
弁解の言葉はサクラの唇で止められた。
どちらかが唇を離すと、片方がそれを追いかける。啄むようなキスは、貪りあうようなキスへ。互いの身体の形を確かめ合う度に鼓動は高まり続け、それを止める術はなかった。
「──で、足りてない薬やけど」
「うん」
次の日、トウジの診療所で話を聞きながら、シンジは手早くメモを取っていく。
「……シンジ、お前それどうした? 首んとこ赤うなってへん?」
「え? ほんと?」
「ほんまやほんま。ほれ鏡。虫さされかいな、だいぶ暑うなってきたしなあ。かゆみ止め持って来たるから待っとれ」
トウジは手鏡を差し出すと席を立った。
シンジは鏡で自分の首筋を見て血の気が引いた。確かにトウジの言う通り赤く腫れている。だがそれは虫さされというよりも──
「キスマーク……」
隣にいたヒカリがつぶやいた。
シンジはぎこちなく苦笑いし、口の前に人差し指を立てた。ヒカリも同じジェスチャーを繰り返した。
「あ、あったで、かゆみ止め!」
薄暮の中、シーツの擦れる音だけが部屋に響く。
「──ぷはっ」
サクラはシンジの首元から口を離し、まだ起きる気配のないシンジの鎖骨をなでた。
「お返しです……」
サクラは愛おしそうに眼を細め、再びまどろんだ。