アイマスライブ、アイドルの身体、霧子の包帯――シャニマス1stライブを見た感想
初出:2020年7月27日Privatterに投稿
初出時より一部修正
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感覚的につかんでいるものを書いていくので、うまく書けるか分からないのですけれども、文章に残しておきたいので書きます。シャニマス1stライブで、結名美月さんがつけていた包帯の話です。アンコール後に衣装を変えてステージに戻って来たとき、結名さんが右手の肘に包帯をつけていて、私は驚きとともに目が離せなくなりました。
私はアイマスライブを見るときは、声優さんの存在を通してアイドルの存在を感じることができるのを楽しみにしています。具体的に言うと、アイドルの身体性を感じたいのです。声優さんの演技やダンスを通じて、アイドルはこんな風に動いてダンスをするのかなとか、声優さん自身の身体をスクリーンのようにして、アイドルがそこにいたらこんな感じなのかなとか。身長がアイドルと同じだという声優さんも、見た目の雰囲気がアイドル自身に近い声優さんもけっこういます。MCで普通にしゃべっているのを見るだけでもアイドルを感じる瞬間があったりします。それを見つけるのが楽しい。
もちろんアイドルと声優は同一ではありません。アイドルと声優を同一視したいわけではなくて、声優の演技や表現や身体性に、アイドルの存在を幻視する感じが楽しく面白いのです。同一ではないが、違うとも言い切れない。この感じ。声優の演技や表現や身体性はアイドルの存在を幻視させてくれるけれど、アイドルそのものはやはり声優の存在からまた逃れ去る部分もあるわけです。こういうところが面白い。
ただどのアイドルに対してもそういう見方をしているわけではなくて、これはやっぱり自分にとっての担当とか推しのアイドルに対してそういう見方をしてしまうという感じです。しかも意識的にそうしているという以上に、自ずとそんな風に見てしまうという感じで。アイドルがそこにいること、アイドルが身体を持っていること、それらを見たい、それらを感じたいという感じです。
シンデレラガールズでは声優がついていないアイドルが半数以上いるので、アイマスライブでそれを感じるのは不可能なんですが、デレステのAR機能を使うとそれを体感することができます。アイドルの身長などが単なる数字ではなく、実際に目の前にいたらどんな感じなのか、ということを実感することができるわけです。アイマスのARライブとか、つい最近あったSHOWROOMの美希の配信なんかも、そういう身体を伴った実在性を感じさせるものとしての効果があると思います。
シャニマスが作るSPINEのアニメーションも、アイドルの身体性を感じさせるものになっています。ミリシタではアイドル間で共通のいくつかのしぐさが使われていますが、シャニマスでは個人ごとに固有のしぐさとアニメーションになっています。またアニメーションのモデルも、個人ごとに固有になっていて、アイドルごとに骨格が違うことを感じることができます。
ただこういう話を真剣に追求していくなら、VTuberとかVライバーとか、そういう人たちのバーチャルな身体性の話と、あと2.5次元ミュージカルの役者の身体性の話とを見ていく必要があると思います。私はどっちについても全く知らないので、これは詳しい人に丸投げしたいところです。VTuberと2.5次元ミュージカルを絡めた話をしている人は見たことがありますが、そこにアイマスライブを加えて考えている人はいるでしょうか。
さっきちょろっと書きましたが、ただの数字上のデータではない、実在するアイドルの身体性そのものを感じること、これが私にとってのアイマスライブの楽しみの一つです。これはある種の人格としてのアイドル自身の実在性そのものの話とはちょっと違います。ある意味では、物体的な側面としての身体の実在の話だと言えます。
人間という存在にとって、精神とか人格というのは重要な要素であり、それを尊重するということは非常に大事なことです。ですが、一人の人間が実際に存在するというのは、空中に魂が浮かんでるとか幽霊みたいに存在しているわけではありません。一人の人間が実際に存在する、ということは、一つの身体があるということです。身体の存在を抜きに、人間が実際に存在するということを考えるのは難しいことだと思います。身体抜きに人間が存在するとしたら、それは一体何が存在しているということなのか。(SNSが流行し、VTuberなどの存在が流行っているいま、人間が存在すると考えるときの身体性のその「身体」がどういうものなのか、を考えることは面白いことだと思います。普通に考えられているような「人体」とはちょっと違ったものが出てくると思います。あるいは、どこまで物質的なものをそぎ落とすことができるか。)
人格や精神が、一人の人間として存在するとき、ある種の物質性を伴うことを必要とすると考えるとき、その物質性が身体です。人格や精神にとって身体は、ある意味では存在するためにどうしても必要としなければならなかった余計なものです。プラトンとかデカルトとか、西洋の哲学の伝統はずっと身体の方を精神や人格に対して劣ったものの位置に置き続けた歴史があります。人格や精神など抽象度の高いものの方が重要であり、その物質的側面は二次的で余計なものなわけです。機能を追求した物が余計な部分をそぎ落としていくことに似ています。
ただ、何かを好きになるとき、その対象の抽象的な側面だけでなく、その物質的側面が関与するということはけっこうあることではないでしょうか。物を好きになるときでも、そのカラーリングとか、その形とか、そういう部分が好きに訴えかけてくる、そういうことはけっこうあるんじゃないでしょうか。たとえ機能を追求して余計なものをそぎ落としたとしても、「機能美」と言ってそういう物質的側面に対する好感を抱くことがあるわけです。人間を好きになるときも、そういうことはやっぱりあるわけですよね。言ってしまえばつまりは見た目のことです。
ただ注意してほしいのは、見た目をきっかけに人を好きになるんだってことが言いたいのではなくて、もちろんそういうことがるという事実を否定しないですが、それだけではなくて好きなもの(あるいは人)に関しては見た目などの物質的な側面に対しても好感とか興味が湧いてくることがあるんじゃないかということです。
どのアイドルもそうですが、三村かな子もエミリー・スチュアートも身体的な特徴があります。霧子もそうです。霧子の身長はやや高めで、アイマスアイドルの中では体重もしっかりしています。献血するためじゃないかという話があります。かな子は見た目の影響を強く受けました(N三村かな子の見た目)が、エミリーと霧子については必ずしもそうではありません。ですがエミリーと霧子の見た目についても愛おしさを感じています。
この物質的な側面としての身体をアイマスライブでの声優の身体が感じさせてくれることがあるわけです。かな子の存在を大坪由佳さんが、エミリーの存在を郁原ゆうさんが感じさせてくれます。かな子と大坪さんは雰囲気が似てるし、郁原ゆうさんとエミリーは身長が同じでエミリーと同じツインテールにしてくれることがあります。ライブに2人が出演していると、探して目で追ってしまいます。
で、霧子役の結名美月さんに関しては、感謝祭のステージを配信で一度見ただけなんですが、なぜかあまりそれをなりませんでした。確かに結名さんは見た目の雰囲気が霧子に似ていて、霧子を感じさせます。ですが、思わず大坪さんの存在が気になったり、郁原さんの存在が気になったりするようには、結名さんのことが気になったりはしなかったのです。なぜかはあまりよく分かってません。このことをもって、霧子は私にとっては担当アイドルとはちょっと違うっていうことなんだろうか、と考えたりもしました。(凛世の丸岡さんについても実は同様でした。丸岡さんは凛世と身長が一緒なので雰囲気を感じることができ、凛世が踊ったらこんな感じなのかなと思ったりはしたのですが、探して目で追ったりという風にはなりませんでした。なぜだったんでしょう。)
ただ急いで注釈を加えなければならないのですが、このことを以って結名さん(と丸岡さん)がアイドルを表現するのにまだ未熟であるとかそういうことを言いたいわけではないのです。これは私自身の方の認識の仕方の話であって、声優の方の演技力とか表現力の問題ではありません。
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で、こういうことを考えていて、それで見たのがシャニマスの1stライブだったわけです。やっとこの話にたどり着きましたね。
ライブの間は、感謝祭を見たときと同じ印象でした。確かに雰囲気は感じるけど、目で追う感じにはならない、と。そのままライブは終わるのかなと思ってアンコールを迎えるわけですが、衣装を変えてステージに戻って来た結名さんが右肘に包帯を着けているのに気がついて、急速に霧子の存在感が強くなったのです。これには驚きました。包帯を着けている結名さんのことが気になって仕方がなくなってきたのです。端っこだろうと後ろだろうと、画面の中に映る結名さんの姿を見たくてしょうがなくなりました。これは不思議な体験でした。
ここには2つの意味があるように思います。1つは、アイマスライブで何人もの声優が実践しているように、アイドルの姿を思わせるトレードマークやワンポイントアイテムを身に着けることは効果があるということ。そしてもう1つは、霧子にとっての包帯の重要性です。
律子役の若林直美さんが、律子役として人前に出るときは眼鏡をかけているように、トレードマークとなるアイテムを身に着けることで急速にそのアイドルの存在が感じられることがあります。ミリオンライブのライブでは、3rdの幕張公演のday2で箱崎星梨花役の麻倉ももさんがツインテールで登壇したときのことが印象に残っています。(ライブの当時ではなく、先月ミリオンの過去のライブが配信されたのでそのときの話です。)
星梨花はミリオンライブの推しだったのですが、3rdの幕張公演までは実を言うとあまり星梨花を感じることができていませんでした。それはおそらく私が麻倉ももさん個人に対して惹かれすぎていたからだと思っています。星梨花としてではなく、麻倉ももさん個人として見てしまう、という。
ですが3rd幕張公演のday2でツインテールの麻倉ももさんを見て、星梨花だ強くと感じることができました。トレードマークを身に着けるなどして見た目を寄せていくことの効果の強さをここで初めて実感したわけです。(ついでに言うとこのミリオンのライブの配信を通して、麻倉ももさん個人のキャラクターの方から星梨花のキャラクターに通じている道についても気づくことができました。)
結名さんの包帯も、そういう効果があったと思います。ただ不思議なのは、アンコール後に包帯を着けて出てきたときは、全員共通衣装だったということです。それまではユニットごとの個人衣装を着ていました。霧子個人を感じるならば個人衣装の方がそれを感じやすいはずではないでしょうか。
おそらくその問題が、霧子にとっての包帯の重要性と繋がっていると思います。
単純に考えると、霧子というキャラクターの特徴として、包帯の方が個人衣装よりも強く際立っているということは言えそうです。ですが霧子にとって包帯がどういうものなのかを考えると、単なるキャラクターの特徴づけ以上のものがあるように思われます。以前この霧子の包帯について考えて書いたことがありました。
「見えるものと見えないもの――幽谷霧子と杜野凛世の「心」について」https://fusetter.com/tw/aF0DU3Uo
この記事では、ラカンの鏡像段階の話を引用しながら、霧子の鏡像(身体イメージ)を固定するものとして包帯や絆創膏が意味を持っているのではないか、と考えました。鏡像の破れを覆うものとしての包帯と絆創膏です。霧子のコミュの中でこの話を証拠立ててくれるものはあまりないので(そもそも包帯や絆創膏についての話が少ない)、いったん頭の中で保留になっていたのですが、結名さんの包帯を見てこの話を思い出したのです。結名さんの右肘の包帯は霧子の身体イメージを結名さんの身体に係留させているものであるが、そもそも霧子自身にとって包帯がそういう効果のあるものなのではないか、と。
上の記事は「見ええるものと見えないもの」というタイトルで、これは見えるものとしての包帯や言葉と、見えないものとしての心という対比から来ているものだったんですが、これは哲学者モーリス・メルロ=ポンティの遺作のタイトルでもあります(記事の名前自体はここから来ています)。名前は同じなんですが、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』との内容的な関連はないつもりでした。
が、繋がってくるポイントがあると今は思います。メルロ=ポンティは身体について探求した20世紀のフランスの哲学者でした。晩年のメルロ=ポンティにとって重要な問題は、身体が見るものであり見られるものでもある、ということだったのです。私たちは世界を見て、認識しています。それは自分固有の身体でもって、行っていることです。ですが、身体はタンパク質などからできた物質でもあります。物質としての身体は五感で捉えることができるものです。精神の作用が強い見るものでもあり、かつ、その見ることの客体としての物体でもある。身体はこういう不思議な二重性を持っています。これが晩年のメルロ=ポンティにとっての謎でした。
で、やっぱりラカンの話なんですが、ラカンはメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』の問題を受けて、「見る物の目のもとに我われを置く何か」があることを言っています(ラカン『精神分析の四基本概念』岩波書店,p.95)。物質である身体の一部としてのこの目から見るということを、「私が見ている」ということにする何かがある、ということです。これは脳の中に何らかの機能があるとか、身体機構の中に特定の器官があるとか、そういう話ではありません。
ここでは目と見るということが問題になっていますが、もっと普遍的に考えると、身体として生きているということと、私が生きているということを橋渡しするものが必要だということです。簡単に言えば、私が生きているということを証拠立てる何かが必要だということです。ラカンのことを知っている人向けに言うと、対象aです。対象aは、身体の一部でありながら、身体とは切り離された物質でもある、というパラドキシカルなあり方をしたものです。それがあるということによって、自分が生きているということになるものです。
ラカンの精神分析の話に従えば、多くの人間はこういうものの恩恵をこうむって、自分が生きているということにしています。生々しい身体の話をすれば、われわれ人間は毎日食事をして排泄をしていますが、排泄物は私たちが身体を持って生きているということを証拠立ててくれます。芸術家にとっては、作り出す作品が存在することが、自分が生きているということの証拠になることがあります。ここで排泄物や芸術作品が対象aの役割を果たしています。対象aは、「私は生きているのか」、さらに言えば「私は何者であるのか」という問いに対して、無意識のレベルで自分自身に対して答えを与えている対象なのです。
霧子の包帯や絆創膏は、その役割を果たしているのではないでしょうか。自分を人数に数え入れない傾向がある霧子にとって、包帯や絆創膏が、自分が生きているということの証拠になっているのではないでしょうか。
結名さんの右肘の包帯を端緒に結名さんの身体に霧子の身体性を強く感じて、こういうことを考えたのでした。
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