シャニマスにおける「実在性」の2方向のずれについて
◆はじめに
このテキストは、シャニマスの魅力とされる「実在性」について論じるものです。内容のほとんどはTwitterにて何度も話したことがあることですので、私の考えを知っている方にとっては特段の目新しさはないかもしれません。
このテキストは前半と後半の2つの部分から構成されています。前半部分は、シャニマスが自らの強みとして「実在性」を自覚し押し出そうとするとき、そこにはもともとユーザーの間で語られていた魅力としての「実在性」からのずれがあるのではないか、ということを論じます。このずれに関してはすでに多くの方が指摘しています。
このもともと語られていた魅力としての「実在性」からのずれに関する私の見解は、ずれは二段階に分けて進行しているのではないかということです。つまりもともと魅力として語られてきた「実在性」を含めて、大きく分けて三種類の「実在性」があるということです。三段階目の「実在性」に関しては「気持ち悪さ」として語られるような、魅力として打ち出すのははばかられるような性質があると思われます。前半部の最後には、そのことについて論じます。
そして後半部分は、「実在性」ということに関連して私が感じているシャニマスの魅力的部分について論じます。私がシャニマスに強く感じている魅力は、前半部分で考えられるような「実在性」とは異なります。それは日常的に用いられるような「実在」とは異なる「実在」であり、日常の観点からすればむしろ「非実在」ですらあるものです。これを「実在性」の第二のずれとして、後半部分ではシャニマスの実際のコミュを参照しながら論じます。
簡単に整理すると、前半部分で問題になるずれは「何が実在するのか」という実在の内容に関することであり、後半部分で問題になるずれは「実在」の概念そのものである、と言うことができます。
◆「実在性」の第一のずれ――シャニマスが魅力として打ち出す「実在性」とは?
◇もともと語られていた「実在性」について
シャニマスはその初期から、ユーザーの間で「実在性」に関する魅力が語られていました。そこで語られていたのは、「こういう子本当にいそう」「いるよね」、というものだったと記憶しています。
このように語られるとき、実在していそうなものとして考えられていたのは、見た目などのアイドルの特徴、出自、考え方、ファッションなどでした。これらに「リアリティがある」として評価されていたことと記憶しています。
キャラクターが一人の人格として無理なく成立しており、また実際に生きているかのように思考や趣味嗜好に深みや広がりがあると語られてきました。あるいはさらに、そういう特徴や出自や考え方や趣味嗜好を持った人たちが実際にいるのを見聞きした経験があり、実際に存在してると感じられる(そういう人がいるのを知っている)と語られることもありました。
ここで考えられている「実在性」は、人の手によって作られたキャラクターであるにもかかわらず、その設定や考え方、趣味嗜好などにわざとらしさや無理がなく、また実際にそういう人がいるということを経験しているために、われわれユーザーたちの暮らす世界の中にアイドルたちが実際に存在していそうに感じられる、ということです。
ここで注目されているのは、アイドルの特徴や出自や考え方や趣味嗜好で、これはアイドルそのものというよりは、アイドルが持つ個性です。アイドルが持つ個性に「実在性」があり、それゆえそれを持つアイドルが実際にわれわれユーザーが暮らす世界の中にいるかのように感じられるというわけです。
これが、シャニマスについてもともと語られていた、「実在性」あるいは「リアリティ」だったと私は考えています。これから見ていくように、シャニマスはここから「実在性」をずらしていきます。
◇アイドル自身の「実在性」
シャニマスの運営は、シャニマスの魅力は「実在性」にあると自覚し、それを押し出すような企画を何度も打ち出しています。例に挙げると、アイドルがTwitterの公式アカウントから発信する、あるいはTwitterで質問を受け付けてそれに答える、期間限定ギャラリーでアイドルの私物を展示する、見守りカメラを使用して事務所にいるアイドルの様子を音で伝える、など。
われわれユーザーが、シャニマスのゲームをプレイし、シャニマスのコミュを読んでいるときは、アイドルたちはお話の中の人物であるとされ、アイドルたちが存在し生きる世界は、われわれユーザーが生活する世界とは全く別であるとされます。以上のような企画は、このように分かたれた世界を接続し、われわれユーザーの生活している世界の中にアイドル自身が実在しているということをわれわれユーザーに感じさせることを意図しています。Twitterのアカウントや展示される私物や、見守りカメラから伝わる音声を窓として、アイドルをわれわれの生活する世界の中に出現させるというわけです。
これらは、アイドル自身をわれわれユーザーの生活する世界の中に出現させることによって、アイドルの「実在性」を打ち出そうとするものです。もともと語られていたのは、アイドルが持つ個性の「実在性」でした。そういう子いるよねという形で、個性の「実在性」に基づいてアイドルの「実在性」が語られていたはずです。以上のような企画ではアイドル自身の「実在性」を打ち出そうとしているという点において、もともと語られていた「実在性」からずれが生じています。アイドルが持つ個性のリアリティという一段階目の「実在性」から、アイドル自身がそこにいるという二段階目の「実在性」へとずれているのです。
以上のような企画においては、アイドルがどのようなことを考えるかということや、アイドルがどのような特徴を持つかということよりも、アイドル自身がいるという「実在性」が前面に出されています。もちろんTwitterでどのようなことを語るか、質問にどのように答えるか、どのような私物を持つかという点においてアイドルの個性は現れ、そこに個性の「実在性」を感じることは可能です。ですがTwitterアカウントから発信するということ、アイドルの私物がそこにあるということそれ自体は、その内容がどういうものであっても、アイドルがそこにいるように感じられるという「実在性」を生み出します。
このずれは、シャニマスの見守りカメラの企画の担当者のインタビューからも読み取ることができます。
「『シャニマス』の魅力である「実在感」はどのように生み出されるのか?生配信企画「283プロ見守りカメラ」の裏側【前編】」
https://funfare.bandainamcoent.co.jp/13502/
このインタビューの冒頭で、吉川氏はシャニマスを「“リアルに人を描いていく”ことに重点を置いている作品だ」としつつ、「“本当にアイドルが感情をもって存在している”“心をもって存在している”ことは、初期からの魅力だったのかなと思っています」と語っています。この発言からは、アイドルがどのような感情を持っているか、どのような心を持っているかというアイドルの個性について以上に、二度も繰り返している「存在している」という方への力点の移動が読みとれます。そして吉川氏はこの話をふまえ、「五感でアイドルたちの存在を感じていただける企画」として見守りカメラを企画したと語っています。
アイドルそこにいるように感じられるという「実在性」を打ち出す企画は非常に面白い試みであると同時に、アイドルがどのような人物であるか、アイドルがどのようなことを考え、語るか、アイドルがどのような趣味嗜好を持つかということから重心が移ってしまうという問題が生じます。さらに言えば、もともと魅力として感じられていたはずのアイドルの個性の扱いがいい加減になっていってしまう可能性もあります。どんなにアイドルの個性の描写がいい加減だったとしても、また描写自体が省かれてしまったとしても、私物の展示や呼吸の音声のようなものを用いれば、アイドル自身の「実在性」を打ち出すことは可能だからです。「実在性」のずれはこのような問題をはらんでいます。
◇もはやアイドルですらなく
アイドル自身の「実在性」を打ち出そうとした企画の中でも、アイドルのジャージの展示や、見守りカメラについては多くの批判が飛び交いました。これらの企画において、「実在性」に関してさらなるずれが生じていると私は考えます。つまりここに第三段階目の「実在性」があるということです。
シャニマスのアニバーサリーの時期などに開催されるアイドルの私物展示は、アイドルの人となりを伝えるものとして、すなわちアイドルの「実在性」を高めるものとして、評価されてきました。そこでは、靴に始まり、傘、レッスン用のジャージなどが展示されてきています。初期の頃は好意的に受け止められていたものの、ジャージに関しては拒否感を示したり批判をする発言が多く飛び交っていたように思います。ジャージがなぜ問題となったのかということを考える前に、まずは靴の展示を振り返りながらこの私物展示の特徴について確認していきます。
私物の展示は283プロの事務所を実際に再現した展示の一部として行われたものでした。事務所にあるかもしれない下駄箱を置き、そこにアイドルたちの靴を並べて展示していたのです。283プロの事務所はもともと住居としての利用を想定した賃貸でしたから、玄関を上がるときは靴を脱ぎます。事務所を再現した展示の中に下駄箱があり、そこに靴が置かれているのは不自然ではありません。このような空間の中で自然にそこにあるべきものとして置かれた靴は、持ち主であるアイドルがその展示の空間から地続きのどこかに「実在」するということを惹起させるというわけです。
問題のジャージの展示は、レッスン室を再現した展示の中に置かれていました。全員分が並べてしまわれている(あるいはハンガーにかけられている)というような状態ではありませんでした。何名かのものが、使用後に脱いで置いているというような形での展示だったのです。畳まれていたり、丸められていたりと置き方はさまざまでした。展示意図としては、その置き方にアイドルの個性を見てほしかったのでしょう。
しかし事務所を再現した空間に下駄箱があって靴が置かれているという状態に比べると、レッスン室にアイドルそれぞれの脱いだジャージが置かれているという状態は決して自然な状態とは言い難いと思われます。脱いだジャージをそのままレッスン室に置きっぱなしにして帰るようなことは考えにくいはずです。もしこの置きっぱなしにされたジャージが、下駄箱の靴と同じようにアイドル自身の「実在性」を感じさせるとしたら、そこで惹起されるアイドルの「実在性」は、何の「実在性」でしょうか。
事務所を再現した展示における下駄箱と靴は事務所の光景として不自然なものではありません。アイドルやプロデューサー以外の誰であっても、事務所を訪れれば玄関にある下駄箱とそこに置かれた靴は当然目に入るでしょう。それゆえ下駄箱と靴の展示は不自然ではありません。しかしレッスン後に脱いだジャージを置いた状態は、アイドル当人たち以外の誰かが目にするような光景ではないはずです。プロデューサーがその場に居合わせたり、その光景を見るというのは不適切です。それをプロデューサーが見るとしたら、それは覗きとされても仕方ないと思います。そういう光景を展示にするという点で、ここには覗きのような趣味が感じられます。またさらに、ジャージは性的な目的でくり返し盗難の対象となる物であり、そういうものを展示するということ自体に性的なニュアンスが加わるものです。
ここでジャージは、アイドル自身の「実在性」を超えて、アイドルの肉体の「実在性」を喚起しています。しかもそこに性的なニュアンス入ってくるのを否定することは難しいでしょう。ジャージはしっかりと、アイドルの肉体の「実在性」を性的に感じさせるフェティッシュとしての効果を発揮しています。「気持ち悪い」と嫌悪感を示し、批判した人たちは、こうした部分を感じ取ったものと思われます。これは「性的なニュアンスを感じる方が悪い」ということでは言い逃れができません。展示はわざわざ脱いで置かれたジャージを展示しているのであって、そういうものを展示するというところにそういうニュアンスを纏った「実在性」を主体的に打ち出そうとしているように感じられるからです。(後から振り返れば靴の展示においても、靴はフェティッシュの効果を発揮していたとも言えます。靴は代表的なフェティッシュの一つです。)
見守りカメラの企画にも覗きのニュアンスはまとわりついており、そこで聞くことのできる音声の中の足音や寝息やくしゃみなどは、アイドル自身の「実在性」のみならずその肉体の「実在性」も喚起してくるものとなっています。
◇二段階のずれ――何が問題なのか
このように、シャニマスは自らの魅力として「実在性」を自覚し、それを打ち出そうとさまざまな企画を打ち出してきましたが、そこには二段階のずれが見られると私は考えます。ずれは次のようになっています。
アイドルの個性の「実在性」 → アイドル自身の「実在性」 → アイドルの肉体の「実在性」
もともとはアイドルの持つ特徴や、出自や、考え方や趣味嗜好に対して、リアリティがあるという風に語られていたのでした。つまり「実在性」が感じられていたのはアイドルが持つ個性に対してだったのです。しかしシャニマスが打ち出す企画の中で「実在性」は、アイドル自身がわれわれの生活する世界の中にいると感じられるような「実在性」へと置き換えられています。そして特にジャージの展示では、「実在性」はアイドルの肉体があるということを示すものとなっており、そこにはさらに性的なニュアンスも混在するようになっています。
上の図において右にずれていくほど、アイドルがどのような人物であるのか、どのように考えどのように言葉を発するのか、どのような趣味嗜好を持っているのか、ということは重要ではなくなっていきます。またさらに、右に行くほどアイドルの客体化も進んでいきます。
「実在性」ということを打ち出そうとしてジャージの展示などの企画のように、アイドルの肉体の「実在性」を提示してしまうことには次の3つの問題があります。(1)アイドルを客体化している、(2)アイドルの肉体の存在の示唆に性的なニュアンスが混在している、(3)シャニマスのシナリオが描いているものと齟齬がある。
(1)のアイドルの客体化が問題となるのは、そこにアイドルの主体性が介入していないからです。脱いで置いたジャージはアイドル自身が見せようとしたものではないはずで、それを見せようとしたのは別の誰かであり、見せようとした何者か(ここでは運営)と見る者の関係の中にアイドルは主体的な存在として関与していません。この関係の中でアイドルは自分の意志とは無関係に見られる者とされてしまっています。ここに問題があります。
(2)のアイドルの肉体の存在の示唆に性的なニュアンスが混在しているということそれ自体に関しては、そこにキャラクターの主体性や個性が現れていたり、そういうたぐいのコンテンツであったりそういうイベントだったりする場合には、ここまで大きく問題にはならないかもしれません。セクシーさを売りにしたり自分の強みにしているキャラクターだったり、R18のコンテンツだったりすればこういう展示もありだったかもしれません。ですが、(1)の問題も重なってくるところですし、(3)に見るようにシャニマスはそういうコンテンツではないはずで、この観点から(2)は問題になってきます。
シャニマスはシナリオの中で、アイドルが業界のスタッフや視聴者やファンたちによって客体化されたり、一方的に消費されたりすることの問題を何度も取り上げてきています。ですがシャニマスが打ち出す企画において、「実在性」はアイドル自身の存在へと置き換えられ、さらにジャージの展示などにおいてはアイドルの肉体の存在へとずれて行ってしまっているのです。そこにおいてはアイドルの主体性も関与していません。これでは、シナリオにおいて問題として描かれていたことを運営がそのままやってしまっていることになります。運営の企画がシナリオが大事にしていたことと食い違っているのです。シャニマスのシナリオを評価する立場からすれば、こうした食い違いを肯定的に受け入れることは容易ではないはずです。それにもともとの「実在性」の評価は主にシナリオの中におけるアイドルの描写、アイドルの思考や発言、趣味嗜好などの、アイドルの個性に向けられていたものでした。それゆえシナリオとの食い違いはここまでくると無視できない問題となってくるのです。
このように、シャニマスは「実在性」ということを自身の強みとして認識していながら、それを打ち出そうとするときにもともと評価されていた「実在性」からずれを生じさせていると考えられます。そしてそのずれは、ジャージの展示などのようにアイドルの肉体の存在を提示しようとするときに、大きな問題となります。「実在性」を自身の強みとして自覚し、それを打ち出すような企画をすることそれ自体に大きな問題があるわけではありません。ですが企画を立てる際には、シャニマスの根幹であるシナリオに立ち返り、そこで大事にされていることを大事にしてほしいと私は思います。
◆「実在性」の第二のずれ――実在しないとされるものの方へ
◇「実在性」?
前半部分ではシャニマスの強みとされている「実在性」について見てきました。もともと魅力とされてきた「実在性」と、シャニマスの運営が自身の強みとして認識している「実在性」との間にはずれがあるのではないか、ということを考えました。このテキストにおいてここまで取り上げてきた「実在性」は、シャニマスの魅力ないし強みとしてユーザーと運営が抱いているであろう認識に基づいています。
ですが、私自身がシャニマスに感じている魅力は確かに「実在」が大きく関与しているのですが、その「実在」は日常的に考えられるような「実在」ではなく、日常的な観点からすればむしろ「非実在」の方が近いものです。それゆえ、私がシャニマスの魅力として考える「実在」は、このテキスト前半部分で取り上げた「実在性」とは異なっています。これが第二の方向ののずれです。
ここで論じようとしている第二のずれを次のように図示することができます。
日常的な世界の中で考えられる「実在」 → 日常の観点からすると「非実在」 → 強い実在論
いままで何度も文章にしたり話したりしてきましたが、この図の一番右にあるような実在論こそが、シャニマスの最大の魅力であると私は感じています。その実在論では、日常の観点からすれば「実在」するとはされないものの「実在」を考えています。シャニマスは繰り返し、日常の観点からすれば「実在」しないとされるものに対して視線を注ぎ、またそれらについて考えてきています。そういう「実在」しないとされるものの「実在」について考える瞬間に、私は強く心惹かれるのです。
◇実際にどう描かれてきたか
シャニマスのシナリオでは、繰り返し実在しないとされるものへと視線が注がれています。イベントシナリオから例を採ると、「明るい部屋」における縦にも横にも部屋が繋がっていくという考え方や、「海へ出るつもりじゃなかったし」における「ほんとの世界」、「線たちの12月」における「ただいま」などを挙げることができます。
アイドル個人に注目すると、幽谷霧子と浅倉透が特に、実在しないとされるものへと視線を注ぐ人物であるように私は感じています(シナリオを追えていないだけで他のアイドルもそうなのかもしれません)。こちらも例を挙げると、霧子が植物や無機物に語りかけているということ、【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」において建物を移動させる妖怪について考えていること、夢と現実の連続性について考えていること、また透が【10個、光】において「昼光ってるもの」などの見えにくいものに注目していたこと、【つづく、】ににおいて「ヘンな時間」について考えていたこと、【おかえり、ギター】においてギターとセミの命の繋がりについて思考していること、などを挙げることができます。
霧子と透については何度か文章にしたことがありますので少し紹介します。(長いので今読まなくても大丈夫です。)
・霧子について
「シャニマスコミュに見られる哲学的センスの話をするよ――幽谷霧子「でんごん」を読む」
https://hibikihare.hatenablog.com/entry/2020/05/17/045024
「〈現実〉の夢――幽谷霧子の世界観について」『幽谷霧子学会合同誌 vol.1』所収
https://fusetter.com/tw/M2uuiAAC#all
・透について
「【つづく、】「リバ ス」とジャングルジムの記憶から浅倉透について考えてみる」
https://fusetter.com/tw/SqaGlCGd#all
「まなざしの転覆者――クィア理論を通して読む浅倉透」『WHERE,WHO,WHAT IS TORU ASAKURA?』所収
https://shinano-shuppan.booth.pm/items/4639574
◇「実在」に隙間を開く――「線たちの12月」における透の「ただいま」
「線たちの12月」では、透たちは図書館で不思議なクリスマスカードを見つけます。それは洋菓子のレシピ本に挟まれており、「おばば」に宛てられていました。そこにはこう書かれています、「メリークリスマス。これは来年の分。自分で渡せたらいいな」。宛て先の住所に行ってみると、そこには確かに宛て先となっている名前の表札がありました。
透たちは参加している町内会の火の用心の巡回に出ます。例のクリスマスカードの宛て先の家の近くに来ると、庭先に1人のおばあちゃんが立っているのに気がつきました。この人がクリスマスカードの宛て先の「おばば」に違いありません。町内会の人によると、このおばあちゃんは1人お孫さんを預かっていたそうです。ですがそのお孫さんはだいぶ前に病気か何かで亡くなっているようです。そして現在このおばあちゃんは、認知症を患っているようなのでした。実際に町内会の人が話しかけても反応がありません。一同が過ぎ去ろうとしたとき、おばあちゃんは透に向かって言うのです。「おかえり」「よく……帰ってきたねぇ」と。それを聞いた透は一瞬驚きつつ、おばあちゃんに微笑みかけて、優しく「ただいま」と答えるのでした。
この「ただいま」の周りを流れている空気は、この世の世界を超えているように感じます。認知症のおばあちゃんが透を亡くなった自分の孫だと勘違いしており、透はなんとなく、あるいはふざけてそれに答えたのではと一瞬考えてしまうところですが、ここにはそれ以上のものがあります。まず透は全くふざけてなどいないということです。透の「ただいま」を受けておばあちゃんは「もう行くの?」「気を付けて」と言いますが、それを聞く透の顔はとても悲しそうな表情をしていました。透は何もかもを理解しています。その上で透は、亡くなった孫を引き受けて「ただいま」と答え、さらに去り際に「幸せでいてね」と、あの届かなかったクリスマスカードの言葉を「おばば」に伝えているのです。
ここは透自身の【おかえり、ギター】のエピソードが想起されるところです。【おかえり、ギター】は、ちゃんと音が出せなくなって廃棄に出されたギターの命が、道端で見かけたセミに繋がっている(輪廻している)ということを透が見出すエピソードです。命が輪廻すること、しかも無機物が生き物へと繋がることというのは、われわれが普段生活している日常世界の中で確かめることはできませんし、そういう日常世界の中には「実在」しないことであるとされます。透はそういう実在しないものへと視線をそそぎ、日常世界の中における「実在」の外側、あるいはその隙間を切り開いています。それゆえ「線たちの12月」の「ただいま」、そして「幸せでいてね」のメッセージには、単に亡くなった人の言葉を代わりに伝えるという以上の何かが現れているように感じられるのです。つまりここにも日常世界における「実在」を超えた線が引かれているように見えるのです。
透はおばあちゃんが認知症になっていて、自分とお孫さんを勘違いしているということを分かっています。そして自分がそのお孫さんの代わりに応答をし、お孫さんが伝えたかったメッセージを伝えることが「嘘」であるということ、つまりこの世界の事実に反するということを理解しています。しかしその上で透は「嘘だけど、めっちゃ。ほんとじゃん? ほんとに見えたら」と考えていました。透はこうして日常生活における「実在」するとされるものの総体に穴を穿ち、隙間を開けるのです。
◇何が「実在」するのか
シャニマスはこうした「実在」を超える瞬間を繰り返し描いてきており、ここにこそ、私はシャニマスの最大の魅力を感じています。というのも、私は日常世界においてそうであるとされている「実在」に対して違和感と疑いを抱いているからです。
たとえばユニコーンとかペガサスとかドラゴンとか妖精とか河童とかは、だいたい「実在しない」とされています。「実在しない」ということが、事実であるとされています。シャーロック・ホームズやジェームズ・ボンドやドラえもんやポケモンも、「実在しない」とされていますし、「実在しない」ということが事実であるとされています。幽谷霧子や浅倉透もそうです。彼女たちも「実在しない」とされていますし、「実在しない」ということが事実であるとされています。こうした生物や人物やキャラクターの他にも、眠っている間に見た夢の中で起きた出来事も、「実在しない」とされていますし、「実在しない」ということが事実であるとされています。またさらに、5分前に世界は一挙に創造されたということや、今現実だと思っているこの世界はまるっと全部夢かもしれないということも、「実在しない」出来事であるとされています。
このように、われわれが日常生活を営んでいる世界は、何が実在するもので、なにが実在しないものであるのかは、だいたい決められているわけです。そこで「実在しない」とされるものについて「実在する」と主張すると、おかしな顔をされたり、間違っていると否定されたりしてしまいます。
ですが私は思うわけです。眠っている間に見た夢の中の出来事の全てが、全く起こらなかったことで、全く意味のないことだったのだろうか。何を考えているのか、どんなことを感じているのかを知りたいと日々思考と想像をめぐらしているキャラクターたちの実在の度合いは、実在しているとされるものの会ったこともないような人たちよりも低いというのだろうか。
このあたりはけっこう共感していただける部分もあるのではないかと考えています。眠っている間に見た夢の出来事の中に、自分自身の体験として記憶されるような、そういう夢を見たことがある人も多いのではないかと思います。またあるいは、ゲームを開いてそこにいるキャラクターたちに声をかけられて、キャラクターたちの存在を身近に感じるようなことも、かなりあるのではないかと思います。ゲーム以外にも、キャラクターのアクスタやぬいぐるみを持ち歩いて、共に生活している感じがしたりなども。
われわれが日常生活を送ってるこの世界は、何が「実在する」もので何が「実在しない」ものなのか、決められています。ですが、われわれの日常生活の中には、そうした「実在する」ものの総量の中に数えられないもの、あるいは「実在する」ものの空間の中に位置づけられないものが、かなりあるはずなのです。現代の二次元キャラクターの多くはそうした、「実在する」ものの総量の中に数えられないもの、「実在」するものの空間の中に位置づけられないもの、であるかもしれない。けれどもそれらはわれわれの日常生活の中に、確かに存在しているはずです。すでにこうして、「実在」には穴が穿たれ、隙間が開かれているわけです。
◇「実在しない」とされるものたち
霧子や透は、「実在する」とされるものの総量の中に含まれなかったり位置づけられないようなものへと視線を注いでいます。そして「実在」に穴を穿ち、そこに隙間を広げ、「実在しない」とされるものたちの「実在」の場所を開こうとしています。シャニマスのイベントシナリオにおいてもそうした瞬間は繰り返し訪れています。
眠っている間に見る夢の現実性について切実に考え、この現実世界の中に自分が「実在」するものとされている実感が薄く、二次元キャラクターの存在を身近に感じるような私にとって、「実在」に穴を穿ちその隙間を開こうとしてくれる態度それ自体に私は喜びを感じます。こういうことを考えるのは私だけではないのだと、私みたいなものの居る場所は存在しているのだと感じることができます。またそれは、「実在しない」とされるものたちへの態度も抱擁してくれるように思います。
このように、私はシャニマスの最大の魅力を、「実在」というよりはむしろ「非実在」であるようなものの「実在」へ視線を注いでいることだと感じています。私物を展示するなどして、日常生活において考えられているような「実在」の水準での「実在性」をことさら強調するような企画など、行う必要はないのだと私は感じるのです。シャニマスにおいては、日常生活において考えられているような「実在」に位置づけられないものたちの場所がすでに開かれており、シャニマスのアイドルたちは今のままで十分私たちの身近な存在として「実在」しえているはずです。この地点が、私がシャニマスの魅力として感じている「実在性」の第二のずれの極点であり、強い実在論の場所です。
◆おわりに
前半部分と後半部分とに分けて、「実在性」に関して二つのずれについて論じてきました。今まで各所で文章にしてきたり、話してきた内容ですので、私の考えていることを知っている方にとっては目新しい部分は少ないかもしれません。ですがこれを、シャニマスの強みとされる「実在性」に関する一つのテキストとしてまとめることには意味があると思っています。
引用したインタビューに見られるように、シャニマスは自身の強みを「実在性」であると自覚しており、「実在性」に関する企画を多々行ってきていますが、それらに関して違和感を覚える人は少なくないということもまた事実であると思います。このテキストの特に前半部分が、そうした違和感について考える助けになったらいいなと思っていますし、後半部分については、こういうことを考えている人がいるということを知ってもらえたらいいなと思っています。