『羅小黒戦記』吹替版が全国公開されて以降、様々な感想や反応で賑わうようになり、人間と妖精の描き方に疑問を投げかける声も中には見られる。ただ、この話を捉える上で決して見逃してはならないのは、大人対子供のテーマだ。以下、長文。
手つかずの自然で生まれる妖精と、その自然に介入する人間から多民族国家である中国の情勢を連想すること自体はごく自然なことだろう。そこから、人間社会に適合した妖精たちが組織する館が体制側で、人間を追い出す強硬策に出たフーシー達は少数派という図式を当てはめて、その結末を現状肯定と捉えて違和感を表する声も中には見られる。
だが、この見方には大きな見落としがある。この物語がシャオヘイという子供の目線から語られ、明確な答えを出すことはなく彼に委ねていることだ。
シャオヘイはまだ分別が備わっていない子供として描かれる。自分を襲う人間から守ってくれ、その上衣食住を与えてくれたフーシーは自分と同類の妖精にして善良な存在と認識する。反対に、そのフーシーを追うムゲンは明確に自分と敵対する悪い人間であり、相入れない敵とみなして反抗する。
この捉え方は見ての通り旅の中で徐々に逆転していくことになるわけだが、同行者のムゲンは決してシャオヘイに自分の考えを押し付けてはいない。寧ろ劇中で、実は幾度となく細心の注意を払って彼に接している。
最たる例のひとつが、海上にてシャオヘイからフーシーをなぜ追っているのか尋ねられた際に、その返答に沈黙で返していたことだ。法を執行する立場であるならば、あの場でフーシーが不法行為に及んでいると説いて、自分の正当性を明らかにすることができたはずだ。
しかし、ムゲンは決してフーシーを悪し様には言わない。法の概念に首を傾げていたシャオヘイに対しても、「(執行人は)雑用係のようなもの」とは教えても、フーシーが実際に及んでいたであろう法に悖る行為については言及していないのだ。シャオヘイが信じるフーシーの人物像を、大人の、それも組織の大義を後ろ盾にして、歪めてしまわないよう気を遣っていることが読み取れる。
一方で、彼はまるっきりシャオヘイを放任している訳ではない。シャオヘイがフーシーの元へ行くと言って逃走を図れば、きまってそれを阻止する。一見すると、父権主義的な子供の自由への過干渉に思えるかもしれない。けれども、シャオヘイがそのままフーシーの元へ着いたらどうなるだろうか。無垢な彼はきっとフーシーの言う事成す事に素直に賛同するだろう。そうしてゆくゆくは、龍游の街を領界で呑み込むのは他ならぬシャオヘイ自身になっていただろう。
世界の仕組みを理解していない子供に大人がするべきは、自分の価値観を押し付けるのでも、他の大人にいいように操られるのを見過ごすのでもない。だからムゲンはフーシーに逃げられた後に、急いで館に戻ることよりもシャオヘイに様々な物事をその目で見させることを優先する。
ムゲンが旅の道中でシャオヘイに問いかける言葉も姿勢も、決して押し付けがましくはない。「人間に復讐をしたいのか」という問いに「ただ森に帰りたい」と返せば、ただ黙ってシャオヘイに寄り添うように頭を撫でる。館に向かいながら人間社会の景色を見せ、他の執行人達と卓を囲った後も、「館が嫌なら出て行ってもいい」と最終的な選択は彼に委ねる。
シャオヘイに対してムゲンがしているのは、年長者が決まりきった正解へと誘導するヘルプではない。彼の未来を信じて、彼が進むべき道へと至れるようサポートすることだ。子供からの見返りなど一切求めることなく、まだ知らないことを先を行く者として教え、困難があれば手を差し出す。
ホテルの一室での会話がそれを端的に物語っている。「館から出て行ってもいい」という言葉にシャオヘイは「信じない」と返す。しかし「善悪がわかるか」と言う問いに対するシャオヘイの「当たり前だ」という返答には「信じよう」と返すのだ。「悪いことに使ってほしくない」と言う願いを伝えつつも、決して自分本位の尺度で子供を測ることなく、シャオヘイの考えを尊重する。
そして子供を信じ寄り添う大人としてのムゲンと対比される大人としてフーシーがいる。彼は物語上、最終的にシャオヘイ達と敵対する立場にあり、追い詰められた末に過ちを犯す。シャオヘイの霊域と結びついた領界を強奪し、命の危険に晒したことで、ムゲンとは対照的に子供を利用する側に回ってしまう。
物語の冒頭においても、フーシーはアクウが操った人間からシャオヘイを救出し、信頼を勝ち取る。もちろん手近に信頼を得るための自作自演だが、これにはシャオヘイの人間への心象を損ねさせ、思想の面でも自分達の側に引き込む意図も含まれているのは自明だろう。最初からその能力に目をつけて接近したフーシーは、それ故にその親切心は能力のためかという問いにも返答することができない。
このように、ムゲンとフーシーは単に妖精と人間という対比のみならず、子供に対する向き合い方という点においても正反対なのだ。
しかしだからといって、フーシーのことを子供を搾取・支配する単純悪と振り払うこともまたできない。今作はこの道義に反した行いに、複雑な背景と心情を通わせている。
フーシーは、自分が犯した過ちに対してどこまでも自覚的である。上述のシャオヘイからの問いかけに対して即座に否定できなかったことと、それについて結局嘘をつかなかったこと、ムゲンにシャオヘイを傷つけたことを咎められた際にも「言い訳はしない」と言い切るあたりに、その自覚とそれをも抱えて進もうという覚悟が表れている。自分の行いが間違っていることも承知の上で、しかしその振り上げた拳を止められずにいる。
シャオヘイの能力を目当てに近付きこそすれ彼に親身に接していたことを考えても、思惑通りに運べば本当の仲間にだってなっていたのかもしれない。結果的に、ムゲンがやってきたことでその目論見が逸れただけだ。
自分の罪を分かっていたからこそ、最期にフーシーはシャオヘイに謝罪する。そこでシャオヘイが投げかける「悪い人なの?」という疑問には、フーシーのことを断罪しきれないシャオヘイの複雑な感情が表れている。もちろん平和を脅かしたという点において、何よりシャオヘイを傷つけてしまったという点において、それは悪であるということは他でもないフーシー自身がわかっている。
けれども、同じく人間に故郷を追われ、人間を疎んでいたシャオヘイは、フーシーの内面を理解し、許すことのできる唯一の存在である。だからこそ彼も、彼を見守るムゲンもまた、決してフーシーを悪人と処断しない。
旅の途中で「ただ森に帰りたい」というシャオヘイの言葉と、「もうここから離れたくない」というフーシーの言葉は、同じ道程を辿ってきた者同士、相似をなす。フーシーの生き様を目撃したことで、シャオヘイはこの世界に横たわる善悪で割り切れない複雑さに初めて触れたのだ。
フーシーは妖精が人間社会で隠れ生きることへの疑問を呈し、館に囚われることよりも自分の故郷で落命することを選択する。この様子を見ていたナタとキュウ爺の材木かあるいは有料の公園にされるかもしれないという台詞は、繰り返しこうした事が起こる現実への諦観とある種の皮肉をぶつけているように響く。確かにフーシーは形上敗北したのかもしれないが、それは間違いと正しさを振り分ける証明ではないという抵抗がここに滲んで見える。
世界の不条理に対峙したシャオヘイに、ここでもムゲンは「答えはお前の中にある」と彼に委ね、結論を押し付けることをしない。シャオヘイの心に刺さった棘は、決してフーシーのような存在を善悪の二元論で単純化して溶けていくようなものではないだろう。その痛みに向き合うには、きっとシャオヘイがその都度自分の目と耳と肌で感じて、行動していくしかない。しかし、彼が独り立ち出来るようになるまで、ムゲンも見守ってくれるはずだ。
旅の終わり、離別の予感によってシャオヘイは館ではなくムゲンを居場所として選ぶ。
数百年生きながらえ、最強の執行人として妖精からも恐れられるムゲンは人間とはかけ離れた存在である。しかし完全に妖精とも言えない彼は、どちら側でもありどちら側でもない微妙な立場にある。そうした自身の苦労を差し置いて、シャオヘイに居場所を与えることに奔走したムゲンだから、シャオヘイの居場所たり得たのだ。
まとめると今作は、善悪では決して割り切ることのできない複雑な世界に子供が翻弄された時、大人が子供に何が出来るのかを、妖精のシャオヘイと人間のムゲンの関係に託したあたたかな物語だ。子供に向けた優しい視線、そして大人として責任といった道徳観が、迫力のアクション、美しい旅風景、個性的なキャラクター、小気味好いユーモアといった魅力を通じてごく自然に伝えられていることに驚かされる。
しかし、今作でシャオヘイが触れたのは、世界の実相のほんの一部に過ぎないだろう。彼とムゲンがこれから浮かび上がってくる困難にいかにして立ち向かうのか。劇場版の次回作が今から待ち遠しい。
P.S.今作は字幕版の時に衝撃を受け、映像に集中できる吹替版でもより楽しんでいる。その個人的な感想は以下でもまとめているため、こちらも参照されたし。
(ネタバレなし)https://wataridley.com/archives/the_legend_of_hei-movie-review.html
(ネタバレあり) https://wataridley.com/archives/the_legend_of_hei-review2.html