【杜野凛世の印象派】TRUEコミュの「たちきれぬ」について。
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落語の演目「たちぎれ」の引用。身分違いの恋をした男女。男は大店の若旦那。女は芸者。会えるのは線香が燃え尽きるまでの間だけ。当時は線香によって芸者と会う時間を計っていたのである。若旦那はこの恋を親族に反対され、倉に100日閉じ込められる。会いに行けない間に芸者は亡くなってしまう。死後に芸者のもとを訪ねると芸者の三味線が音を鳴らし始める。しかし音は曲の途中で止んでしまう。仏壇の線香がたちぎれたのである。
この話を受けて凛世は言う、「凛世の香は…… いつまでも、いつまでも…… たちきれることは、ございません……」。コミュタイトルの「たちきれぬ」は、口語にすれば「たちきれてしまった」という意味。最後の「ぬ」は完了の終助詞のぬ。けれども、「ぬ」を否定を意味する「ず」の連体形だとすれば、「たちきれない」とたちきれることの否定ともとれる。凛世はたちきれることはない、と言う。
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「たちきれることは、ございません」というのは、三味線が曲を鳴らし続けるということであり、それはつまり凛世が歌い続けるという意味である。ここにはいつまでもプロデューサーのために歌い続けるという凛世のアイドルとしての願いが現れている。
このアイドルとして歌い続けることの永遠性は、凛世のコミュの中に繰り返し登場するモチーフだということがいまは分かる。【微熱風鈴】の風鈴、【ふらここのうた】のブランコ、【水色感情】のレコードである。どれも音が鳴るものであり、コミュの中でSEが鳴る。
【微熱風鈴】の風鈴に描かれていたのは桔梗の花であり、桔梗の花言葉は久遠の愛である。また、風鈴はガラスでできており、ガラスは「千年も万年もかけて」流れているという。長い時間をかけて移ろいゆくものである(移ろいゆくものとの対比として、久遠の愛を意味する桔梗の花と凛世自身の想いがある)。プロデューサーは凛世にガラスが流れていくのを一緒に見ようか、と提案しており、凛世はそれを喜ぶような反応を見せる。
【ふらここのうた】では、「ブランコが歌う」と言われている。人が乗っていないブランコが音を鳴らし、繰り返し動き続けることについて凛世は、「もっと前に行きたいのでしょう」と言っており、プロデューサーのもとに追いつきたいという自分の感情を凛世はブランコに移し見ているようである。
【水色感情】のレコードは、「恋はみずいろ」という邦題のついたフランス語の歌のレコードだということが分かっている。歌詞は「どぅ、どぅ、らむぅれ、どぅ」と歌うが、この「どぅ、どぅ」は凛世の心臓と重ねられている。凛世はレコードをプレイヤーに置くとき「鳴れ」と命じており、これはレコードだけでなく凛世自身の心臓が鳴るように命じている。
このレコードのタイトルについて、凛世はその意味を知らないと言っているが、プロデューサーは「意味が分かるまで聞こうか」と提案している。風鈴のガラスが流れていくのを一緒に見ようかと言ったのに重なる。たぶん2人ともフランス語ができないと思うのだが、それでフランス語の曲を聞いているだけで曲のタイトルの意味が分かるようになるということがあるのだとすれば、それは気の遠くなるほどの長さの時間が必要であるに違いない。
また、【水色感情】のTRUEコミュのタイトルは「R&P」であるのだが、これはRinze&Producerであるだけでなく、Record&Playerでもあると言われている。レコードがプレイヤーによって鳴らされるように、凛世もまたプロデューサーのプロデュースによって歌い、踊るのである。
(【水色感情】のレコードについては以前書いたこちらのふせったーもご参照ください→https://fusetter.com/tw/ChwIG#all)
こうして見ると、「たちきれぬ」で凛世が語った「たちぎれ」のお話の中の三味線が、風鈴やブランコやレコードに連なるものであることが分かる。「たちぎれ」の中では芸者(の念)が若旦那のために三味線を鳴らしていたが、線香がたちぎえになれば演奏を止めてしまう。けれど、凛世は違う。凛世もプロデューサーのためにアイドルとして歌を歌うのだが、凛世の歌は「たちきれぬ」歌である。「いつまでも、いつまでも」、凛世はプロデューサーのために歌い続けたいと思っている。
ただ、実際に「たちぎれ」の落語を聞いてみると、仏壇の前で三味線が鳴るのを聞いてる場面は悲しみの雰囲気に包まれているし、それに三味線が鳴るのは死者の念や霊のなせることである。凛世の香がたちきれることはないといっても、凛世の歌を「たちぎれ」の三味線になぞらえると、歌う凛世は亡くなった芸者の念や霊に類するものになってしまうということはちょっと気にかからないわけではない…… そこまで類比して読まなくてもいいとも思うけれど……
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ところで凛世のコミュの中で音が鳴るものはもう一つあり、それは【十二月短篇】の花火である。この花火は、ブランコと同様に数が数えられていてSEも点けられているのだが、これは凛世の心の中で弾ける感情を示しているもののように感じられ、プロデューサーのために聞かせるものかどうかはまだ分からない。
(【十二月短篇】の花火については、こちらのふせったー記事もご参照ください→https://fusetter.com/tw/DmWQrxcv#allhttps://fusetter.com/tw/DmWQrxcv#all)
「たちきれぬ」で引用された「たちぎれ」のお話と、【十二月短篇】のモチーフになっているオペラ「カルメン」を並べてみたくなる。
「たちぎれ」の芸者は手紙を送り続け若旦那が来ることを待ち続けていた。待ち続けたまま亡くなってしまう。落語を聞くと、若旦那は芸者が自分を恨んでいるはずだと言っているし、他の芸者は若旦那のことをうっかり亡くなった芸者の「かたき」と言ってしまっている。
「カルメン」の方は。喧嘩をして捕まったカルメンを衛兵のホセが逃がすのだが、それによってホセが投獄されることになる。釈放されたホセはカルメンに会いに行くのだが、ラッパが鳴り響いてホセは帰らなくてはならないと言う。それを聞いたカルメンは怒り、あんたは私を愛していないのだ、と言ってしまう。
どちらも女性の側が、男に対して疑いを抱くような立場に立たされる構図になっている。芸者は待ち続けて死んでしまったが、カルメンはホセを信じられず愛するのをやめてしまった(別の男に気が移った)。
(【十二月短篇】と「カルメン」についてはPrivatterの記事もご参照ください→「カルメン、カレンダー、書かれたもの:【十二月短篇】杜野凛世コミュについて感想とメモ」https://fusetter.com/tw/B1FZBn0W#all)