すずめの戸締まり、今朝は肯定的な感想を書いたけど、今度は少しもやもやした部分について書きます。みみずの話、と前回書いたけど正確にはみみずというより閉じ師という存在の件です。
最初に言っておくとこれは批判ではないし、これ以外の意見を否定するつもりも全くない。あくまで自分がなんとなくもやもやして、それに自分でも少し驚いて、なぜなんだろうと思ったという話です。結局なぜもやもやしてるのかわからない。
また一応断っておくと、非科学的な描写にめくじらを立てたいわけでもまったくない。これは和風オカルト寄りのファンタジーなのだから、どうせ楽しむならそこにどっぷり浸かりたいし、みみずが地震を起こしているような描写もそういう解釈の世界観なのだと思っている(自分は、プレートの歪みとかそういう地震の予兆のようなものを閉じ師たちがみみずのような形で知覚しているということなのかなと勝手に解釈した)。
ちょっともやもやしたのは「閉じ師」や「要石」という存在。正確には「閉じ師や要石が地震を防いでいる」、逆に言えば「大震災は彼らがそれを防ぎきれなかったから起きた」と見えてしまう因果関係だ。(この解釈自体が間違ってるのかもしれない。そうだったらすみません)
もし本当に閉じ師のような方々がいたとしたら大変失礼なことを申し上げているし(すみません!)、あるいは将来科学的に本当に地震を未然に防ぐことができるかもしれない。人知れず災厄を防ぐ存在というのは一般的にはめちゃくちゃカッコいい。そして、あの災害を防げたら、というのは人類永遠の夢だ。
ただ、この作品の世界観に従うと、過去の大震災は閉じ師が防ぎきれなくて起こったものになってしまうように思えた。たった一人(本当はもっといるのかもしれないけど)が扉を閉めきれなかったことにその責任を負わせる世界観なのだとしたら、あまりに酷な存在だ(もちろん、別に誰も責任を負わせようとしてないし、彼らが負ういわれはまったくない。でも物語上、そういう構造になってしまっている)。
もしこれが架空の災害であれば、まだわかる。ただ、前回のふせったーで自分が高く評価した、一人称で振り返るための固有名詞や実際の日付が、ここではもやもやを助長してしまっている気がする。あの震災は、閉じ師が防ぎれなかったから起こったのか。そう思うことでもしかしたら心が楽になる人もいるのかもしれないし、アニミズムの発生ってこういう発想からだったのかもしれないけど、なんとなく自分はあまりそう思いたくない気がする。たとえば現在進行形で経験しているコロナ禍が、人知れず誰かが何かの戦いに負けて広がったものだとは、フィクションだとしても自分はあまり思いたくない(もちろん公衆衛生的には「人の力で防ぎ得た」部分は大きいので、単純な比較はできない)。なぜ、そう思いたくないのか、まだ自分でもよくわからないのだが。
喪失とそこからの再起とか、鎮魂の意味合いを込めているのはよくわかるし、その描き方は本当にすごいなと思うのだけど、そのテーマと「地震は人が防げるし大半は防いできた」という世界観があまりうまく噛み合ってないところがあるのかもしれない。これは、『君の名は。』での災害の描き方でもちょっともやもやしたのと似ている。あの災害を無かったことにしたい、というのはものすごくわかる。わかるのだけども…
じゃあどうすればよかったのかと言うと正直わからない。この作品自体はかなり好きだと思ったし、もしこれがただ災害が起きてそれをただ弔う話だったらまるで映画にならない。この先、小さな地震が起きるたびに、閉じ師が頑張っている!と思うのは確かにちょっと楽しくはあるし、世の中のあらゆる出来事に物語を見出すことである種の生きやすさが生じるのはたしかで、この映画全体は自分にとってとても大きな意義のある物語になった。でも、だからこそ、あの震災を「閉じ師の頑張りが足りなかったこと」に帰着して良いのか、という思いは残っている。
1回しか見てないので誤解があったらすみません。もう一度見たらまた感想が変わるのかもしれない。あと、もう一度言うけど、もやもやはあるけど他の部分は本当にすごいなと思ったので、次はまためっちゃ褒める感想書くかもですw
参考:今朝書いた肯定的なふせったーというのはこちら
https://fusetter.com/tw/9R7roU3Y#all
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追記:ティーチインで草太の祖父が「東日本大震災を防ごうとしたけどできなくて怪我を負った」という裏設定があったと教えて頂きました(TMCさん、イサイハクさん、ありがとうございます)。
https://fusetter.com/tw/livpWjp6#all
これが完全なフィクションの災害であればこんなにもやもやしなかったんだろうと思います。
追記:まさにこのもやもやに対する答えのようなSSを、同タイミングでsshさんが書いて下さってました。ありがとうございます。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18731823
もやもやの理由が少しわかった気がします。あの震災は「閉じ師の誰かが失敗して起こったわけではない」ようだけど、「もしかしたら本当は閉じ師の誰かが失敗したのかもしれない」。でも「それはたぶん、重要なことじゃない」。はい、そうですね。すみませんw
「行政も科学も、普通の人たちも、みんな災害と戦っている」。たぶん自分はそれを信じたいのだと思う。実際僕らは、阪神・淡路大震災で通電火災や高速道路倒壊の恐ろしさを、中越地震で走行中の新幹線の脱線リスクを、東日本大震災で津波の脅威を知り、感震ブレーカー、橋脚の強化、脱線停止装置、津波観測網の強化……確実に一歩一歩前進しているのを肌で感じる。実際、もう二度と同様の被害を繰り返さないという気概を感じるし、実際最小限に抑えられている。そして、その叡智の結晶ともいえる緊急地震速報は、映画の中ではどうも現実より精度も良く、かなり進化してるように見えるので、そこにも彼らのたゆまぬ努力があったのだろう。
そういった不断の努力、「地震を止めることはできないけれど、その被害を最小限に抑える」という人類の営みの総体を象徴した存在が、閉じ師なのかもしれない。ちょっと無理やりだけどそう解釈すると、決して「彼らが失敗したから地震が起きた」わけではないのだ、と思えるような気がする(とはいえ絵面的には、地震自体が起きないように閉じ師が物理で頑張ってるように見えるので難しいんですがw)
ちなみに自分的には「あの世界でも、依然としてすべての地震はプレートテクトニクスで説明できるのだけど、その現象と閉じ師の活動を無理やり映像化したらみみずバトルになりました(画像はイメージです)」的な見方をしていました。じゃあ椅子が走るのは何なんだよとか突っ込まれると完全に答えに窮するんだけど、まぁそれはそれということでw あの椅子自体、どこが起点で現れたのかわからない、完全にパラドックスのように見えるので(『君の名は。」の組紐的な)…