#ジョーカー 感想!
観終わった後、これ別にジョーカーじゃなくてもいいんじゃあ…と思ったんだけども「どこまでが現実でどこまでが妄想なんだろう」と話してる時に友達がふと言ったんですよ。「銃何発撃ったっけ」と。
何発…?と考えて……ゾワッとしました。
あきらかに、あの拳銃の総弾数を超える回数、撃ってたやん?!
というわけで、友達と一緒に思い出して数えました。(※曖昧で恐縮です)
まず部屋で壁に誤射を1発。
電車の中でエリートリーマンに3発、追いかけて1発か2発、駅の階段の前で3発くらい。
そして『マレー・フランクリン・ショー』でマレーに2発か3発。
…銃には詳しくないけども、絶対にこんな数の弾入る拳銃ないやん?!
いや、弾を補充した、と考えるのが自然なんだろうけど、あの駅の惨劇の時は、途中で弾が足りなくなっているのでは?!追いかけながら弾入れる余裕なかったよね?!
これ別に、ツッコミを入れてるわけじゃないんですよ。私は普段映画で総弾数とか全く気にしないので(弾数に矛盾があったとしても、別にええやんと思うので)。
でも、この映画に関しては
「弾数をわかった上で、わざとそうしている」
と思ったのです。
(部屋の誤射シーンで銃声が印象に残る構成だったし、弾切れしてるシーンもあるのに、撃ちすぎなシーンもあるのは、そこを意識させるためなのかなあと)
そこで疑問に思いました。この駅の惨劇は、現実なのか?それとも妄想なのか?…と。
映画の最後の、異様に白く美しい病院のシーンが「現実か妄想か」というのは大多数が考えることだと思うし、それによって「本編自体が、病院にいるジョーカーの妄想なのでは?」と考えることもあると思うのですが、作中で
「『マレー・フランクリン・ショー』でマレーに優しくされる」
「ソフィーと恋人同士になる」
という明確な妄想が描かれているがために、それ以外は「現実」だと、つい思い込んでしまうと思うのです。
少なくとも私は思い込んでいた!
でもこの2つの明確な妄想は、アーサーが元々「現実逃避の妄想」をしていて、徐々に(薬がなくなってから?)「現実と妄想の区別がつかなくなっている」ということも描いているわけですよ。
パンフでアーサー役のホアキンさんも言ってましたが、アーサーはまさにミステリで言うところの「信頼できない語り手」なわけですよ!
ソフィーが恋人になった妄想シーンを観た時に感じた「そんなことあるん?」というような違和感が、この映画には他にいくつもあります。
たとえば、ランドルが銃を渡してきたシーン。
いくら同僚がチンピラキッズに襲われたからって、武器商人でもギャングでもない一般人のピエロが、ハンバーガーを差し入れるみたいな気軽さで銃を渡すだろうか?いくらなんでも唐突すぎやしないか?…いや、アメリカならあり得るかもしれんけども!(偏見)
でも電話で社長はアーサーにブチ切れながら
「銃を買いたいと、アーサーからランドルに依頼した」
というようなことを言っていた。
これにアーサーは激怒していたし、私もランドル嘘つきクソ野郎やん…と思ったけど…もしもこれが事実だったとしたら?
ランドルの「礼はいつでもいい」という恩着せがましい台詞が「代金はいつでもいい」という意味だったとしたら?
母親が入院した病院で、アーサーのステージが『マレー・フランクリン・ショー』で取り上げられたところ。
アーサーが出演できるような小さなナイトクラブのショーを『マレー・フランクリン・ショー』が取り上げるのだろうか?
上品な笑いをモットーにしてる人気番組が、笑いものにするために、わざわざ?
その後の、謎の冷蔵庫シーン…は後述するから飛ばすとして、アーサーに『マレー・フランクリン・ショー』から出演依頼の電話が来るところ。
他の回のゲストは、そうそうたるメンバーっぽかったけど、そのゲストに無名のアーサーを呼ぶかな?
楽屋でも「ジョーカー」という呼び名について、名付けたマレーは憶えていなかった。
ゲストに呼んでおきながら?名司会者が?
何より、アーサーを訪ねてきたランドルとゲイリーは、アーサーのステージが『マレー・フランクリン・ショー』で取り上げられたことも、アーサーが次のゲストに呼ばれていることも、話題にしなかった。
2人がたまたま『マレー・フランクリン・ショー』を観てなかっただけかもしれないけど…極限状態でゲイリーが言った「信じられない」という台詞が、全ての答えのように今は思える。
上記のシーンで、アーサーは
「押し付けられた銃で問題を起こし職を追われる」
「憧れていた人と番組に笑いものにされる」
「マレーがアーサーを軽んじているとわかり、ネタも途中で遮られる」
という、理不尽な仕打ちと屈辱を受けるわけだけども…これら全てが、アーサーの妄想だとしたら?
さすがにそれは無いと思いたいけど、冒頭のチンピラに襲われたシーン(楽器屋の店主は「アーサーが持ち場を離れ、看板を返さない」と社長にクレームを入れていた)や、
電車の中でクズリーマンに暴力を受けたシーン(アーサーは「歌が下手だったから」三人を撃ったと言っていた)すら、妄想だったとしたら?
チンピラに襲われた後は、背中にあざがあったから本当な気がする…けど、エリートリーマンに襲われた後、アーサーの体にあざはあっただろうか?もし彼らが本当に「へたくそな歌を歌っていた」だけだったとしたら?
いや、序盤にあったアーサーの背中のあざは、幼い頃ヒーターに縛り付けられた時にできたものかもしれない。それがなくなっていたということは、ランドルとゲイリーが訪ねて来たシーンは、アーサーが頭の中で作り出した(だから背中のあざを知らない)もので、現実ではない?
もし、もしも、アーサーが傷つけられたシーンの殆どが、妄想で…誰も、現実には何も、アーサーに酷いことをしていなかったとしたら?
逆に、アーサーが殺傷するシーンの殆どが妄想で、アーサーは自分が殺人ピエロだと思い込んでいただけだったとしたら?
全部がひっくり返るやん?!
観たばかりの映画の、根底が揺らぐ事態やん?!
普通なら、いやさすがにそんなことはないやろ…と思うけれども、アーサーは、アーサーなら…
わからん!!!!!
私は、映画を観終わってなお、アーサー・フレックという人物のことが、何もわかっていない…わからない!
涙を流しながら、指で口を笑いの形に歪める顔。
痩せて痛ましく骨の浮いた背中。
笑いの発作を止めようと、喉を絞めるように掴んでいた手。
奇妙で悲痛で耳に残る笑い声。
子供を笑わせようとするおどけた表情。
裏切りに、嘲笑に、見開かれた瞳。
階段での鮮やかなダンスと、狂乱の中での堂々たる歩み。
最後まで言えなかったネタと、最後まで放送されなかった言葉。
まるで生贄となったメシアのように担ぎ出され、まるで生贄となるメシアのように担ぎ上げられ踊る姿。
血の足跡と、コミカルな追いかけっこ。
あらゆるシーンが鮮やかに思い出せるし、傷ついていたのも苦しんでいたのも知っているし、変わっていく姿もつぶさに観ていたけれど、
理解されない善人だったのか、
抑圧された悪人だったのか、
妄想を愛し妄想に支配された平凡な男だったのか、
それとも全く違う存在だったのか、
まるでわからない。
わかったつもりで定義づけしても、しっくりこない。
だってアーサーは徹頭徹尾、同情も感情移入も共感もしにくいように、描かれていた。
悲惨なエピソードはものすごく痛ましく、人によってはトラウマ直撃で大ダメージを食らいそうな生々しさだったけども…同情を誘うような描き方ではなかった。エピソード自体に感情移入することはできても、アーサーへの感情移入は拒むかのように。
人間性についても、簡潔に断言できないくらいに、どんな印象もはっきりとした像を結ばないように、徹底的にアーサーをわかりにくく、共感しにくく描いている、と感じた。
それは、ヴィランが主人公だからかな…それともアーサーの理解され難さを視聴者に理解させるためかな…と思っていたのですが、
アーサーのそういう感じも、ギミックの一つだったんか?!
今までの前提全てがひっくり返っても、違和感がないようにするために…どんな可能性も「アーサーならあり得る」と、感じさせるためだったんか?!
妄想だった!…と断言したいんじゃないんです。
妄想だという可能性が生まれるだけで、この「善良に生きてきた男が、不遇と不運の連鎖でジョーカーという悪のカリスマに成った話」が、全然別物になる、その仕掛けに、構造に、ふおあああああとなったという説明を…したい!している!のですが!できていますかね?!
これは友達が言ったのですが、ランドルとゲイリーが訪ねて来たとき、ドアベルの音が鳴る前にアーサーが鋏を手にしていたのは、自分の口の両端を切って笑いの形にするためではないかと。
その後、マレー・フランクリン・ショーに出演して、アーサーは「ノックノック」のネタで、自殺するつもりだったんじゃないかと。(練習してたし)
作中で一番の謎、冷蔵庫に入ったシーン。誰もが「死ぬのでは?」「出れるの?」と思ったであろうシーン。しかし次の瞬間、何事もなかったようにアーサーが寝ていたので「出れたんだな…」と思った(だろう)シーン。
あそこでアーサーは死んでいて、以降のシーンは全てアーサーの妄想(死ぬ間際の夢)である、という説があるのも知りました。
(※ジョーカーは、ウェイン夫妻を殺したピエロで、アーサーはジョーカーが生まれるきっかけとなった存在という説)
これらの推測を聞いた時「アーサーならありえる…」とすぐ納得できてしまった。
アーサーはそういう「あらゆる可能性を否定させない人物」に見えるように、徹底して描かれていたと思うのです。
なのでパッと思いつくだけでも、
1、善良に生きてきた男が、不遇と不運の連鎖でジョーカーという悪のカリスマに成った話(妄想だと明確に描かれたシーン以外全部現実)
2、アーカム病院にいるジョーカーが、お得意の嘘の身の上話を臨場感たっぷりに妄想した話(最後の病院のシーン以外全部妄想)
3、信じていた母の愛さえ幻想だったと知った殺人者が、ジョーカーという悪のカリスマを生み出した話(冷蔵庫で自殺し以降は全部妄想)
4、善良に生きてきたが妄想と現実がわからなくなった男が、被害妄想から殺戮を繰り返した話(アーサーが傷つけられるシーンは全部もしくは殆ど妄想で、アーサーの殺戮シーンは全部現実)
5、過酷な現実で妄想に救いを求める男が、妄想の中で悪のカリスマと成った話(アーサーが傷つけられたシーンは全部現実で、殺戮シーンは全部妄想。悪のカリスマジョーカーは過酷な現実から自然発生し、アーサーは一切関係ない)
の5つのパターンが出てくるのですが(※ウェイン夫妻殺害シーンは、アーサーが登場しないので、どの場合でも現実)
どれが正解かはわからないし(普通に観たら1だけども)この中にも正解はないのかもしれない。
そもそもどこが現実で、どれが妄想かもわからないのだから…
観たばかりの映画なのに…観たばかりの…私は、一体、何を観たんだ?!!!!
考えれば考えるほど、どんどん虚実がわからなくなる…そう、まるで、ジョーカーの話を聞いている時のように…
そして、どうとでも取れるからこそ、どれが真相だったんだろうと考える時に、無意識に「どれが一番面白いか」で考えてしまう自分に気付き…ジョーカーの笑顔を思い出す…
繰り返しになりますが、この映画を観終わった直後、私は「これ、ジョーカーにする必要あったんかな?アーサー・フレックという男が、悪に堕ちる物語、でもよかったんじゃないんかな?」と思ったんですよ。
でも違った。違いました。
これは、まさしくジョーカーの物語。
嗤いでは笑わず、笑いたくない時に笑い、嗤われて生きてきた男が、
笑いのツボがわからないままに、他者を笑わせたかったコメディアンが、
主観では悲劇でも、俯瞰では喜劇となると、気付いた物語であり。
おそろしく緻密で巧みな構造の中に、
貧困・格差・傲慢・無慈悲・無関心・忌避・排斥・暴力・嘘・猜疑・裏切り・虐待・嘲笑・憤怒…
あらゆる怖く悲しく醜くありふれて身近にあるおぞましいものを練りこんだ、ミラーハウスのような物語であり。
説明できない、定義もできない、悪徳に耽溺するよりも善性の敗北を求め悦ぶ究極の愉快犯、
そんなジョーカーに形を与えてしまうこと自体が、恐怖を薄れさせると、確実に理解している者が作っている、
観る者によって違うものが見える、正体不明の怪物のような物語。
この映画自体が、ジョーカーそのもののような。
だからこれはまさに、一つのジョーカーの誕生を描いた、映画でした。