【我・思・君・思】が面白いのは、デカルトを引用しながら、デカルトからけっこうズレてるってことなんですよね。実はそのズレが、まさに私にとっての最大の関心事でもある。
これは実は夢であるかもしれない、という疑いは、夢の懐疑と呼ばれる。デカルトが夢の懐疑を行ったのには目的があった。デカルトは、絶対に疑いえない、確実な真理を手にしたかったからである。
私たちは、さまざまな知識を持っている。自分自身について、他人について、街のことについて、世界のことについて、地球のことについて、歴史のことについて、宇宙のことについて。さまざまな知識を持っている。けれどその知識はどのように得られたものだったかを思い返せば、それは人から聞いたことで合ったり、感覚に基づいて観察したことだったりする。けれどそれらは間違っていることがある。絶対に疑いえない確実なものではありえない。その疑いは自分の感覚そのものや、自分の身体にさえも向く。夢の中でこうして同じことをしているということもありえるからだ。だから、全ては現実らしさを持っているだけの、単なる夢であるかもしれない。
これがデカルトの行った夢の懐疑である。繰り返すが、デカルトは、絶対に確実な真理を得るために、疑いうるものはすべて疑う、という懐疑を行った。だから、この疑いは、棄却できるのでなければならない。全てが夢であっては困る。科学的な実験や観察が、全て夢であるとしたら、神に欺かれた偽物であるとしたら、そうだとしたらその実験や観察に基づいた知識は絶対に確実な真理ではありえない。そうであっては困るのだ。だから、デカルトのこの懐疑は、退けられることが目指される。それゆえこの懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれる。
そしてデカルトが導き出した最初の確実なものこそ、「われ思う、ゆえにわれあり」にほかならない。全てを疑ってみたところで、その疑いそのもの、そう思考する「私」そのものの存在は、決して疑いえない。デカルトはここにたどり着くのである。そしてデカルトはこの思考する「私」の確実性に足場を置き、神の存在証明を行い、明晰な思考に基づく判断は真であるという確実性を手にするに至る。そしてそこまで行くことで、夢と現実を区別することができるようになるのだ。(そこで夢と現実を区別するのは、整合性である。夢は支離滅裂である一方、現実は整合的であるから、整合的でないものを現実でないものとして除外すればよい、となる。ここで基準となる整合性の確実性を得る必要があったため、神の存在証明を行ったのである。)
だが、私が注目したいのは2点。
1つは、「われ思う、ゆえにわれあり」にたどり着いたところで、実はその思考する「私」の存在の確実さは、それだけでは「私」が認識するものが現実であるのか夢であるのかの区別を与えないということだ。デカルトの議論に従うなら、夢と現実の区別を確実に行うためには、神の存在証明を経て、明晰な思考による判断の確実性を得なければならない。夢の中であろうと、「私」は「われ思う、ゆえにわれあり!」と考えることができる。
2つ目は、デカルトとは全く異なる関心に基づく。デカルトは、絶対に確実な知識を得るために、方法的に懐疑を行った。デカルトにおいては、知識に対する障壁として、夢の懐疑が登場する。それゆえデカルトおよび、確実な知識を得たいと考える人は夢の懐疑をどうにかして退けることを目指す。
だが私は、こうしたことにほとんど関心がない。私がデカルトの懐疑に興味を向けるのは、それが全面的な懐疑であるというところだ。「全ては夢かもしれない」と、一瞬であったとしても考える、そこに興味がある。その一瞬においては、夢と現実との、存在論的な身分の差異がなくなっているのである。私にとってはそれが重要なのである。
絶対確実な知式を得たいと考える人たちにとっての夢の懐疑は、現実であるはずのものごとを夢かもしれない、と疑うというものである。だからゆくゆくは〈であるはずの〉と〈夢かもしれない〉を外して、現実そのものを確実に手にすることを求める。
一方の私はというと、逆なのである。夢とされるものに、現実と同じだけの身分を与えることがどうしてできないのか、と私は考える。夢の懐疑の一瞬においては、夢と現実との間の存在論的な身分に差がないのであった。それは現実が「夢にすぎないもの」と区別がつかない、と解釈されてきたのだが、それはしかし同時に、「夢にすぎないもの」だと思っていてもそれは実は現実なのではないかと解釈することもできるはずである。どうしてできないのか?
何を言っているのか分からないかもしれない。私が考えているのは、いわばこういうことだ。夢の中に登場した人物や、場所を、夢から覚めた後の世界の中に探すことはできないのか、ということである。馬鹿げている、と思われるかもしれない。それも当然かもしれない。何しろ、「夢」というのは「現実には起こらなかったこと」だと考える人もいるくらいである。起こらなかったことを起きたこととして考えるのは、矛盾している。
だが果たして本当に「起こらなかったこと」なのだろうか? 夢の中で誰かに会った。夢の中でどこかへ行った。それは果たして、本当に起こらなかったのだろうか? 起こらなかったのだとすれば、私は誰に会い、どこへ行き、何を体験したのか? 私のあの体験は何だったのか? それらは無に等しいものなのか?
とはいえ、夢の中に登場した人や場所は、夢から覚めた後の世界には存在しないものであるような気がする。そういうものを「夢」と呼ぶのが適切であるのかもしれない。だがそれは、夢の中に登場した人や場所が、無であることを意味しない。それらは、起こらなかったことではないのだ。それらは夢から目覚めた場所とは別のどこかにあるのだ。
さて、ここでようやく【我・思・君・思】に戻ることができる。
咲耶は、ここに私がいることを疑うことができない、ということから話を始めている。そしてそれは確実であっても、これが夢であるのか現実であるのかは分からない、という懐疑へと向かう。これはデカルトの歩みとは逆向きである。デカルトは方法的懐疑から始め、「私」の確実性へと到達した。そこからデカルトは確実な知識を求めて進んでいくのであり、もはや懐疑には戻らない。だがデカルトの確実な「私」は、実は咲耶も言うように、それだけでは夢と現実の区別を与えないのである。咲耶と霧子の話のポイントは、確実な知識を得るというデカルトとは異なり、夢の懐疑そのものへと向かう。デカルトからズレている。
そしてもう1つは、霧子の夢に対する感度である。霧子は、「今見てるのが夢でも夢でなくても」と夢と現実の区別そのものに力点を置いていない。デカルトたち確実な知識を求める者にとっては、この差こそが重要なのである。だが霧子にとっては、夢かもしれないいまここにいる「この咲耶さん」と、これから夢見る=目覚める(この区別が消える!)先の世界にいる「咲耶さん」が同一であることを願うのだ。
夢というのは、普通は一人で見るものだ。だから、夢の中に登場した人物は、夢を見る主体と並び立つことができない。それらの間には超えられないレベルの差がある。先にここで咲耶の立場を考えた(https://fusetter.com/tw/G71rx#all)が、今度は霧子の側から考えよう。霧子が願うのは、今目の前にいる「この咲耶さん」と同一の人物に、これから夢見る=目覚める世界の中で出会うことだ。夢の中に登場した人物を、夢から覚めた後の世界に探すというのは、普通はおかしいことであるとされる。でもそれを願う。もしそれが可能であるとすれば、それは2人が同じ世界で、同じ夢を見ているということではないか。だから、「われ思う」に「君思う」を並べるのかもしれない。これは実は、霧子にとっても祈りのようなものであるのかもしれない。
コミュのラストに一瞬垣間見える廃墟の光景が、足元を突き崩す。胡蝶の夢である。いったいどちらが現実であるのだろう。世界がひっくり返る。けれども、霧子にとってそこは重要ではない。「この咲耶さん」にまた会うこと、「この夏」が「この夏」であること、これらが重要なのだ。それに、どんな世界であろうと、認識の主体であり認識=世界の中心が霧子であることは動かない。
ところで、咲耶は「さっきの話の続き」としてデカルトの話を始める。「もしかしたら本当に夢なのかもしれない」と言いつつ、「続き」を話し始めるのである。
デカルトは、夢と現実の区別を整合性に基づいて与える。夢は支離滅裂であるので、整合性のある部分を現実として考え、整合的でないものを夢として現実から除外すればよい、ということである。だがこの考えに対して、ホッブズは次のように反論した。整合的な夢を見ることもありえるのではないか、と。確かに続きものの夢を見る、ということは実際にある。そうであるとしたら、整合性は夢と現実との区別として機能しなくなるはずだ。
咲耶と霧子のこの会話は、どこかからの「続き」として始まる。果たしてそれは、現実の続きだったのだろうか、と考えたくなる。だが、続きであるということそれ自体が、それが単なる夢以上の何かであることを示唆しているようにも思えてくる。