【琴・禽・空・華】の話(2)。
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WINGシナリオで、包帯/絆創膏の裏側には霧子の不安や心細さなどのいろんな気持ちが隠されていることが語られています。シーズン4では、包帯/絆創膏そのものは霧子の魅力のひとつとなるところまでいって、いろんな気持ちを持っているということをみんなに見てもらおうという風になります。
【琴・禽・空・華】「o t o」では、言葉にならない気持ちがいくつも霧子の中にあることが語られています。このカードのコミュタイトルがアルファベットになっているということも、言葉にならない霧子の感情の実在を訴えるかのようです。
そして4つ目の「ha ka」では小鳥が埋葬されたお墓が出てくるのですが、そこに埋められているのが本当に小鳥であるのかどうかは分からないという話になっています。「ここにいるのは……」の選択肢でプロデューサーは、気持ちを埋めることもできるのかな、ということを話しています。
図式的な読み方になってしまいますが、以上から次の構図ができるような気がします。
音 ー 言葉
気持ち ー 包帯/絆創膏
小鳥 ー 墓
土の中のもの ー 土の外に現われたもの
土の中にあるものと、土のそとに現われたものは、フクジュソウだけでなく、【我・思・君・思】「みんみん」のセミもそうですし、「ha ka」の小鳥もそうです。小鳥は、「それじゃ空の上かもしれないな」の選択肢で、今は空の上を飛んでいるかもしれないということが語られています。土の中のものは、空を目指すのです。土から出てきたセミはお日さまに挨拶をするし、フクジュソウもお日さまの照らす外の世界に出てきます。TRUEタイトルは「日」であり、思い出アピールの名前は「土」となっていて、両者は対になっています。
左側のものは、それ自体では(他人には)見えないもの、(他人には)伝わらないもので、右側が見えるものであり、他人にも伝えられるものです。左が生きているもので右が物語(「ストーリー・ストーリー」)、左が存在するもので右が現れ(認識できるもの)、という風にもしてみたくなります。私が重要に思うのは、霧子が右側のものを通して左側のものの方に思いを馳せたり、左側のものに耳を傾けようとしたりしているということです。思うに、霧子自身が実は左側に位置する(していた)存在なのではないか、と私は考えています。
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私が半分ラカニアンなので、ここでもまたラカンの話をさせてください。シニフィアンという概念の話です。
シニフィアンというのは、もともとはスイスの言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールという人が考え出した概念でした。ソシュールはさまざまな言語を比較して言語を探究する比較言語学ではなく、言語一般のことを探究した人です。ソシュールは、記号(シーニュsigne)というのは、シニフィアンとシニフィエのセットでできていると考えました。
シニフィアンsignifiantは、シニフィエsignifier(意味する)という意味の動詞の現在分詞で、シニフィエsignifiéはその過去分詞です。お菓子のマカロンのように、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)がワンセットになってシーニュ(記号)を作っていると考えたのです。たとえば、「イヌ」という記号においては、その「i nu」という音や「イヌ」という文字がシニフィアンであり、その音や文字が指し示すあの哺乳類の動物がシニフィエになります。このようにシニフィアンとシニフィエがワンセットになってひとつの記号(シーニュ)ができている、とソシュールは考えました。
で、ラカンはこの概念を受けて、独自に言語観を展開します。
ラカンの独自性は、シニフィアンとシニフィエがワンセットになっているのを外してしまったというところです。ラカンは基本単位は記号(シーニュ)ではなくて、シニフィアンだと考えたのでした。シニフィアンはシニフィエと一対一対応をなすのではなく、それ自体で連鎖を発生させると考えたのです。シニフィアンの優位として知られている考えです。
ここでラカンが想定している言語活動は、フロイトが発見して以来知られている無意識の活動です。その代表的な例は夢の形成であり、ほかにも言い間違やド忘れ、機知などが挙げられます。
私が見た夢の例を挙げます。夢の中で私はすごい腰痛に苦しめられています。で、大学で私がフランス語とラカンについて教わっていた先生が夢の中に出てきて、私の腰の骨の治療をしてくれます。そこで、その先生が言います。「語学が骨格だからね」と。確かに語学は研究の骨格のようなものですごく大事なことだ、と私は思います。で、夢から覚めたのですが、腰痛は眠っている私に本当に表れているものでした。
その夢を見た当時(今もですが)私はフランス語など語学に苦手意識があり、ちゃんと頑張らなければと思っていたところでした。そして同時に腰痛にも悩まされていて、これは背骨に問題があるのではと何度も考えていました。そこで、語学(ゴガク)と骨格(コッカク)が出会って、フランス語を教えてくれる先生が骨の治療をしてくれるみたいな夢を見てしまったのです。このように無意識は言葉/記号(シーニュ)のレベルではなく、シニフィアンのレベルで活動しているのです。(こうした例とその解釈の仕方については、ラカン派ではないですがエラ・シャープの『夢分析実践ハンドブック』(松本由起子訳,勁草書房)がおすすめできます。)
語学(ゴガク)が骨格(コッカク)と出会うのは、言葉や記号の意味のレベルではたぶんあんまりないと思いますが、でもシニフィアンのレベルでは似ているので結びつきやすくなります。ダジャレが思いつくときみたいなものです。シニフィアンはこのように、言葉や記号の意味のレベルでの結びつきや、文法などの規則を超えて、シニフィアン同士で結びつき合う傾向があり、これはシニフィアン連鎖と呼ばれています。
精神分析家は、精神分析を受けに来た人(分析主体)の話を聞くわけですが、分析主体の話す言葉の意味や分析主体が言わんとしていることを聞くのではなく、言われたシニフィアンを聞いています。そこに分析主体の無意識が現れるからです。アメリカのラカン派の精神分析家ブルース・フィンクの例を引用します。ここでフィンクは、分析主体の言った言葉を繰り返して言うことによって分析主体の言葉に強調線を引くという手法を用いています。
「別の例では、完ぺきな同音声ではなかった。私は、分析主体が「私たちは二人とも乗っていました」(私に語った夢で彼は自転車に乗っていた)と言ったのを、「riding乗っていた」が「writing書いていた」のように聞こえるように繰り返した(アメリカ英語ではこれはかなり簡単である)。なぜなら彼は何回かのセッションの間、自分の執筆writingのことについて話し続けていたからである。それからすぐ後に、私は、その後を「righting正す」と綴りを換えて読み、彼にとって書くことwritingは、間違いだと気づいたことを正しrighting、物事や人々を直そうとする計画と結びついているのではないかと示唆したのである」(ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎』椿田貴史・中西之信・信友健志・上尾真道訳,誠信書房,p.121)。
前置きが長くなってしまいましたが、このように無意識は記号(シーニュ)ではなくシニフィアンが優位に働いて活動しています。長々と精神分析の話をしてしまいましたが、ここで強調したいのは無意識のことよりも、シニフィエとの結びつきを解き放たれたシニフィアンの方です。明確な意味を持つ記号や言葉としてのレベルではなく、それ以前のものとしてのシニフィアンです。
このようなシニフィアンの考えを背景にして、【霧・霧・奇・譚】のタイトルに「奇」があり、コミュタイトルが「霧」「綺」「戯」「帰」となっているところに、これは霧子(きりこ)の「き」というシニフィアンの連鎖なんだなと以前から感じていました。が、それ以上のアイデアはありませんでした。【琴・禽・空・華】が登場するまでは。
【琴・禽・空・華】では、コミュタイトルが日本語をローマ字化したアルファベットになっており、言葉ではなく音(おん)の方を指していることがうかがえます。そして3つ目のコミュ「o t o」では、言葉にならない気持ちとしての音という話が霧子の口から語られています。4つのコミュにはどれもほとんどBGMがなく沈鬱な雰囲気になっていて、言葉にならない気持ちが霧子の中に蓄積されていっていることを感じさせます。コミュタイトルがアルファベットになっているのは、そのことを指し示しているように読めます。
上で考えたように、音と言葉の関係が、霧子の気持ちと包帯/絆創膏の関係と重なります。見えないものと見えるもの。このことがヒントになります。
【霧・霧・奇・譚】に顕著にあらわれている「き」の音は、【娘・娘・謹・賀】【鱗・鱗・謹・賀】の「謹」、【琴・禽・空・華】の「琴」「禽」にも現れています。この繰り返し現れる「き」という音は、霧子(きりこ)の「き」を思わせる音であり、それゆえこの「き」の音は霧子の存在そのものを指していると考えたくなります。「幽」や「霧」のように形がない存在としての、左側に位置づけられるような存在としての霧子そのものです。【琴・禽・空・華】のコミュタイトル的に書けば「Kiriko」です(4つのコミュタイトルそれぞれでアルファベットのスペースの開け方に違いがありますが、それをどう読むかはまだアイデアがありません……)。
初期の霧子は、WINGシナリオの「みえない献身」で描かれているように、自分をものの数に数え入れないところがありました。まるで他人から見えていない存在であるかのようです。そこで霧子をこの世の中で見える存在へと繋ぎ止めているものが、包帯であり絆創膏なのではないか、と以前考えたことがあります。
「見えるものと見えないもの――幽谷霧子と杜野凛世の「心」について」
https://fusetter.com/tw/aF0DU3Uo#all
包帯や絆創膏が霧子を見えるものとして繋ぎ止めているように、「霧子」という名が「Kiriko」を繋ぎとめていると考えたくなります。「奇」「綺」「戯」「帰」「謹」「琴」「禽」と、これほどまでに「Kiriko」を思わせる「きki」の音の漢字が様々に登場してくるというところに、もともとの「Kiriko」=「霧子」という名自体が解体して変形する(別の姿として現れてくる)可能性が提示されるような気がしてきます。銀紙が指輪や時計になりえたように。カップが鉢植えになりえたように。「きki」が「奇」や「琴」でありえたように。妖怪にひょいってされるように。霧子もまた、「霧子」ではない何かでありうるのではないか…… 存在そのもののKirikoは、生きているKirikoは、そういう不定形な何かなのではないか……
そして名字である幽谷の「ゆうこく」も、夕刻となりえます。夕刻は昼と夜のあわいの時間です。昼が覚醒の時間であり、夜が眠りと夢の時間であるなら、夕刻はそのあわいの時間です。
このような不定形さを、「幽谷霧子」は湛えていると考えられます。
しかし逆に言えば、包帯や絆創膏が繋ぎ止められているように、いま幽谷霧子は「幽谷霧子」という名としてこの世界に繋ぎ止められて、形のある一人の人物として存在しているという風にも言えます。
【琴・禽・空・華】「yu hi」では、夕日に照らされて橙色になった事務所のリビングで、霧子は1人、ゼラニウムさんやユキノシタさんやソファさんに話しかけています。そして夕日に照らされて、ほかのみんなと同じように橙色に染まることで、自分もほかのみんなと同じであるということを確認して喜んでいるところが描かれています。夕日に照らされて橙色に染まるということは、見えるものだということであり、霧子もまたその一人だということです。ここで霧子はまるで心細い気持ちに寄り添ってくれる仲間を求めているかのようです。
霧子にはやはり、見えるものとしてこの世界の中で生きていくことを望んでいる気持ちがあるように思います。言葉にならない気持ちを、言葉にしないままでいいとはたぶん思っていないと思うのです。だから包帯や絆創膏で見えるようにしたり、お墓を作ったり(気持ちを埋める)して、何らかのかたちで見えるようにします。
コミュ4つのタイトルがアルファベットなのは、気持ちが言葉にならずにフラストレーションが溜まっていくことを示しているように思われますが、一転してTRUEが「日」と漢字になっているのは、そうした気持ちを見えるものとして、形あるものとして、外に出していくことを選んだことを感じさせます。フクジュソウが空を目指して土の外へ顔を出すように、です。