『天気の子』感想 - 真っ白な館 http://whiteskunk.hatenablog.com/entry/20190719/1563537801 リンク先ネタバレありなので注意/「こいつ、やりやがった!!!」には同意/これ以上のコメントはネタバレになるのでふせったーでいうと
「セカイ系へのアンサー」としてこの人は「天気の子」を捉えているけど、僕は、「天気の子」が指し示したのは、「セカイ系」から「世界系」への変化だと思うんだよね。「セカイ系」というのは、世界という単語がカタカナであることからもわかるように、世界には歴史や文脈など存在せず、ただフラット(平坦)に存在する、そんな世界認識を指し示しているのだと思うのだ。そしてそれゆえに、セカイ系の「セカイ」は脆弱で、時に全体の存続のために、個が犠牲になっていくわけだ。極めて障害に脆弱なセカイ。
でも、それに対し今回の「天気の子」は、「200年前は東京は海だった。それに戻っただけ」という、中沢新一の『アースダイバー』を明らかに参照したような、人類学的視点(「社会学的視点」ではないことに注意。あくまで世界にまつわるものであり、そこに「社会」なるものが本当にあるのかという疑義は、残されたままなのだから)を持ってくることにより、セカイに文脈を取り戻すわけだ。世界なんてものはそんな平坦でまっとうなものではない、むしろデコボコして狂ったものなんだと。しかしそうであるがゆえに、世界は現代人が想像しているよりもっとロバストネスでたくましく、少年少女の犠牲がないゆえに大災害に襲われようが、そこにあり続け、そしてこれまでも、これからもそこで人は生きて死に、歴史を紡ぐのだと。
こういう世界認識は、もはやカタカナの「セカイ系」ではなく、漢字の「世界系」なんじゃないかと、そう僕は思うのだ。
まあ、こうやってカタカナか漢字かで概念の差異化をしようとするのは、人文系の悪い癖と言ったらそれまでなんだけど。事実、これまでだって別になんの意図もなく「セカイ系」を「世界系」と表記している文献も多々あるし。