アトロクに送った『ザ・スーサイド・スクワッド"極"悪党、集結』の感想を公開します。
拙い文章ですが、リスナーの皆さまに楽しんでいただければ幸いです。
宇多丸さん、時間的制約が厳しいのに言及してくださって感謝です
#utamaru
この作品、大きな話としては、汚れ仕事を押し付けられた社会の嫌われ者たちが、権力からの命令ではなく自らの意思に従い、過去から継承している負の連鎖を断ち切るというストーリーになっています。その大きなストーリーの中で、キャラクター各々の比較的小さなストーリーが的確かつコンパクトに語られる構造になっているのですが、このような複雑な構造にもかかわらず、簡潔に整理され、とてもわかりやすく作ることに成功しています。
まず、面白いとなと思うところは、その各々のストーリーに、反目を経て後に認め合う仲になるという友情やファミリーを描く語り口ではなく、ロマンスものの語り口が多用されているところです。ただし、それらのストーリーは、恋愛ではなく友情やメンバーシップに着地します。
ハーレイは、ロマンティックコメディにおいて典型的な序盤に主人公に言い寄ってきてやらかす咬ませ犬キャラを、あまりに迅速かつ的確に処理し、自分のことを命がけで必要としてくれる本命(チームメンバー)のところへと落ち着きます。
友達が欲しいナナウエは、早々に友達になってくれたラットキャッチャー2という本命がありながら、ふらふらと他の友達を探し、痛い目をみて、再び本命のラットキャッチャー2のところへと落ち着きます。
また、ネズミのセバスチャンは意中のあのこ(ブラッドスポート)に最初はつれなくされるのですが、命がけで良いところを見せて、その意中の子と仲良くなることに成功します。さらにその中で、ネズミ恐怖症というブラッドスポートが親から受けた呪いを解く手助けもしています。
セバスチャンのストーリーをあげるのは意外に思う人も多いかもしれませんが、この映画、その後におまけがつきますが、意中のあの子と戯れるセバスチャンが本筋の物語のラストショットをもっていきます。
更に言うと、この映画は小動物を愛でる色男とは対照的な、小動物を殺すバカの映像から始まりますが、この二人のそれぞれの結末も生と死で対照的です。この違いにはこの映画の倫理観が如実に表れていると言えます。
各個人のストーリーの語り口の話に戻りますが、この人たちは、リーダーである大佐と、誰に対しても分け隔てなく接する友達思いのラットキャッチャー2がいなければバラバラの、まとまって行動してはいるが実は大して仲が深まっていない絶妙な関係性のまま物語を終えます。
友情やファミリーを描く語り口よりも、着地を変えてはいますがロマンスを描く語り口を使った方が、べたべたした関係にならないのは不思議で面白いですし、その関係性は、ラットキャッチャー2以外愛情コミュニケーションの劣等生ぞろいの彼らのキャラクターにもマッチしています。
また、落ちこぼれ達が集まったからと言って、ファミリーのような密接した関係にならないのはなんだかリアルです。
その他のブラッドスポート、ピースメイカー、ポルカドットマンの物語は、親という過去から、ネガティブなものを承継しているという点で大きな物語と一致しますが、中でもブラッドスポートは、それが娘へと引き継がれることを恐れ、連鎖を断ち切りたいという意思があるので、ナチスの残党の遺産の中での悲劇の連鎖を断ち切るという大きな物語と特に一致します。
愛というポジティブなものを承継しているラットキャッチャー2に、愛を分け与えるチームのつなぎのような役目を与え、大きな物語と一致したブラッドスポートの物語を主軸に置くことで、群像劇にまとまりをもたせることに成功しています。
ちなみに、メンバー間の愛情コミュニケーションに、不器用ながらも成功したキャラだけが生き残ったのは、彼らの対極にある大きな悪の形を逆説的に物語っていますし、父権を匂わせるファミリーものの語り口ではなく、あくまでも独立した個人間の関係性を描くロマンスものの語り口を使う必然性が見いだせます。また、意思が完全に統一された敵との対比で、彼らのバラバラさも良いものとして際立ちます。
ブラッドスポートについてもう少し言及しますが、彼は登場シーンから察するに、トイレ掃除というあまり人がやりたがらない仕事でも、自分が納得いく仕事であるなら丁寧に一生懸命取り組める人です。彼が権力からの命令に従うのをやめ、踵を返すのにはそれが単なる汚れ仕事である以上の理由があるのだろうとわかります。
また、仕事だからと言って権力に唯々諾々と従うのではなく、己の意思に従うのだということは、ナチス的な悪への人類の暫定的な回答でもあります。
やはり、彼のストーリーはこの映画の大きなストーリーと一致します。
この映画は登場人物が多いのに、見終わってから振り返っても誰が何をやっていたかすべて思い出せるようにできています。それぞれが見せ場や物語を持っている作品であるにもかかわらず、非常にすっきりと整理されていて見やすいのは、以上のような要因のほかに、倫理的な基準が簡潔かつ明快であるという点があります。
その基準とは、子供や小動物のようなか弱きものを殺すやつは悪というものです。しかもその基準を超える者は必ず死ぬというルールが明確に提示されます。
また、極悪党という副題がついてはいますが、スクワッドのメンバーたちは、頑迷な悪の意志を持った者たちとしては描かれず、悪いことをせざるを得ない状況に行きついた者たちが多く、その面が強調されています。
サメ肌だからずれないであろう大きなパンツが印象的なナナウエですが、彼に至っては、人類より上位の頂点捕食者なので、彼の空腹を満たす為の殺人を悪とするのは、人類の勝手な価値観でしかありません。
つまり、この映画は一つの明確な悪の基準が提示されているだけで、悪とまた別の悪というような複雑な倫理的葛藤はほとんど描かれていません。
この作品が提示する倫理基準は極めてシンプルです。
このように、複雑さを持ちながらも簡潔に整理された明快な構造があるおかげで、作品内にちりばめられた悪趣味な笑いどころ、生身の華麗なアクション、質量ののった特撮、ブラッドスポートの美しいシルエット、ユニークな映像美という珠玉の細部を心おきなく楽しめる大大大傑作になっているのではないでしょうか。
ジェームズ・ガン監督、天才!!!
追記になりますが、子供を殺す奴は悪という倫理コードが徹底しているこの映画を見終えて気になるのが、子供を大量に殺したとされるとあるキャラクターの作品内での扱いです。
一見、あの最後のパートだけ作品内のルールがねじ曲がっているようにみえます。しかし、あのキャラが死ななかったことは作品内で明示されている事実ですが、子供を殺したという情報は観客にとっては単なる伝聞情報でしかありません。子供殺しは悪でありその轍を踏んだものは死ぬという明確に提示されているルールと合わせて考えると、あの伝聞情報が間違いであると考えるのが妥当です。
そうなると、あのキャラは子供を殺していないのに子供殺しという最悪のレッテルを張られた本当にかわいそうなキャラなのではないでしょうか。実際、ガン監督がそれを匂わすようなことをインタビューで言っているらしいですが(私は原文を確認出来てません)、作品内の論理だけみてもそれとなくわかるようになっています。
なお、この推測は、この作品内の倫理が論理的かつ明快に設定されているから可能なものですが、何よりも監督や作品をある程度信頼するという前提がないととても成り立たないものです。
これはガン監督が観客に仕掛けた「ぼくのこと信用してくれるかな?」という不器用な愛情コミュニケーションではないでしょうか。