ホラー小説習作。ホラーのつもりで書いたけどたぶん全然怖くないです。虎杖、日下部、猪野、日車が出ますがCP要素はありません。
決戦後日車術師IFです
呼び水
汚れた手を海に浸す。まだ冷たい春の海が、指の合間にこびりついていた呪霊の体液を洗い流していく。空を見上げると、ほどけていく帳の隙間から星空が見えた。見惚れながら両手を擦っていると、ひとつ高い波が岩場へと打ち寄せて靴を濡らす。どのみち膝から下はもう濡れているから、あまり構うことはない。手を引き上げると風が肌寒かった。
「虎杖、置いてくぞ」
「日下部先生、タオル持ってない?」
「ねえよ」
背後から話し掛けられて振り向くと、先生は気怠げにポケットから飴を取り出し、タオルの代わりのようにそれを投げてよこした。確かに先生はタオルやハンカチを持ち歩きそうもないな、と自分を棚に上げて思う。日車なら持っているかもしれない。濡れた手で飴玉の包みを引き剥がして口に入れた。
「先生の方は?」
「二級以下の雑魚ばっかだけど、思ったより多いな。崖上の薮の方に十ぐらいいた」
「俺たぶん一級と二級だったよ。猪野さんと日車は?」
「等級は知らねえけど終わったって連絡来たわ。宿戻ってるだろ」
そっかあ、良かった、と自然に安堵が出た。あの二人なら手こずることもないとは思うけれど、祓除のたびに、同行者の無事は気になるのだ。先生に続いて岩場から上がると、靴がガポガポと間抜けな音を立てた。車をすぐ近くに停めていて助かった。最後に海を振り返ると、堤防の端に並ぶテトラポッドが見えた。
テトラポッドに近寄ってはいけない。隙間から白い手が出て来て引き摺り込まれ、二度と浮かばないらしい。あるいは、少し離れたところにある海辺の洞窟へ、夜中に行ってはいけない。直線で深くもない洞窟の中で、なぜか出口を見失うらしい。あるいは、砂浜で佇んでいる長い髪を濡らした男に話しかけてはいけない。髪に隠れた顔は人のものではないらしい。
そんなひとつひとつは取り止めもない怪談が、この辺りの岬の海岸線およそ二、三十キロに散在していて、高専の呪術師四人掛かりで祓除に来ていた。自分と日下部先生、日車と猪野さんでペアを作り手分けして呪霊を祓う。先生を除く三人は一級呪術師の推薦を受けているので、まとめて査定すると伊地知さんからは聞かされていたものの、先生はあまりやる気が無さそうだった。日車や俺には指導することもあるけれど、術師歴の長い猪野さんに至ってはほとんど放置している。
車に戻り、先生がエンジンを掛けるのを横目に見ながらスマホを見ると、猪野さんから連絡が来ていた。
『宿着いた。宿の人のご好意で、深夜だけど風呂場開けてくれるらしいです。日車さん入りました』
泊まっている宿の主人は窓だと、伊地知さんから聞いたような気がする。濡れた足先が冷えてきたのでありがたい。
『こっちも終わった!戻ります』
打ち込むと、すぐに返事があった。
『お疲れ。ヤバいのいた?』
『一級は一体だけど、先生の方は思ったより数多かったみたいです』
『こっちもせいぜい準一くらいだけど意外と多かった。二人で三十とか祓った。洞窟ヤバかった』
『お疲れ様です!』
猪野さんのメッセージをそのまま日下部先生に報告すると、ああクソ、多いな、明日帰れっかなあ、と悪態が飛んだ。明日以降も岬の反対側を探索し祓う予定だ。強い呪霊が少数出て来るよりも、細かい呪霊がたくさん潜んでいる方が時間はかかる。それにしても、東京や死滅回游跡地でもないのに珍しいな、と思い、先生に話し掛ける。
「この辺ってなんか曰くつきの場所なの?」
「いや、たぶん、そうでもねえと思う。海…っていうか、水場だとたまにある」
「へー。なんで?」
「元々水場は呪霊のホットスポットだろ。で、水難事故とか漂着物とか…きっかけはなんでもいいんだけど、人間の負の感情が高まると一箇所に集まることがある。まあ渋谷事変の影響もあるかもな」
「水場ってそうなの?」
「お前授業聞いてた?江戸時代の幽霊、柳の下に出るの分かるか?あれ川の側って意味な。河童とか舟幽霊とか、妖怪も多いだろ」
海沿いの細い山道に、車がガタガタと揺れた。街灯はほとんどない。
水場は呪霊が多い、言われてみればそうかもしれない。今までに祓除したものの中なら、八十八橋の下にいた呪霊だろうか。そう言うと先生は、あー、川は境界になるから面倒なんだよなあ、出たり出なかったりするし、と細い道を見つめながらぼやいた。
「川でも海でも湖でも、人の死因になるからな。実際には死んでなくても水場が怖いと思うやつはいるし、死んだら死んだで人間の負の感情が溜まる」
ふと、子供の頃、近くの溜池に十数年も前に女の子が落ちて死んだと聞かされたことを思い出した。そんな子供が本当にいたのかさえよく分からない。学校では聞かなかったから、爺ちゃんの嘘だったような気もする。真実はさておき、たぶん爺ちゃんの思惑通り俺は溜池ではなく浅い川でザリガニを釣るようになった。そういう、なんとなく怖い、が溜まれば呪霊にもなるかもしれない。
道の先に疎らな明かりが見えて、お、道合ってた、と先生が声を出した。
小さな旅館のロビーでは、猪野さんと伊地知さんが地図を見ながら何か話していた。どうも仕事の話ではなく近くの観光地の話で盛り上がっていたようで、俺たちがロビーに入ると猪野さんはパッと顔を上げ、お疲れ様です!と元気よく言った後、先生にソファを譲った。
先生が伊地知さんに首尾を報告し、明日の方針を話し合い始める。部屋に戻ろうかとも思ったけれど、カウンターから出てきた宿の人がお茶を出してくれたので、別の机を囲んで猪野さんと座った。相変わらず足は湿っていたけれど、もう慣れていてあまり気にならなかった。
「洞窟ヤバかった、ってどうヤバかったの?」
「ほんとに出口見つからなくてさあ。懐中電灯持ってったけど、ほとんど真っ暗な中でやるの結構しんどかった。なんか潮も満ちてくるし、日車さん濡れちゃったから風呂。テトラポッドは?」
「足場がめっちゃ悪かったぐらいかな。俺も海藻踏んで滑ってちょっと濡れた。人間と違って向こうは足場気にしなくていいからズルい」
テトラポッドの呪霊は一級くらいではあったけれど、その条件なら洞窟の方が大変だっただろうと思う。それなりに疲れたらしい猪野さんがソファに体を預けて天井を仰いだ。
「東京にかかり切りで、海来るのも久しぶりだけど、そういや海って無限に呪霊湧きがちって思い出した」
「先生もおんなじこと言ってた」
「そうだ。お前も仕事選べるようになったら、海…ってか水場は断った方がいいぞ」
猪野さんが冗談めかして言うけれど、俺たちが仕事を断れるようになる日はたぶんしばらく来ない。決戦の後からずっと人手不足、ずっと働き詰めなのだ。事実、呪術界の上の方に位置するようになった──本人に言わせれば、余計な仕事と責任がやたら増えた──日下部先生だって海に来ている。
「水場は死因になるから怖いし人の想いも溜まるって、さっき聞いた。授業はたぶん寝てたけど」
「あー、習った習った。日下部さんじゃなくて夜蛾さんに」
猪野さんが浅く腰掛けただらけた姿勢のまま、出されたお茶を飲んだ。
「でもさあ、あれ正しいと思うんだけど、それだけじゃない気もすんだよなあ」
「なんで?」
「川とか海がヤバいのは分かるんだけど、術師やってると結構、プールとか風呂場とかトイレとかの仕事多いんだよな。広い意味では水場だと思うんだけど、プールはまだしも、風呂場とかトイレにそんなに命の危機感じないじゃん」
「確かにホラー映画でも、大抵風呂場で出る!」
「そうそう、前に七海サンとマンションで祓除やった時に、扉開けたら風呂場いっぱいにみちみちの呪霊が詰まっててさあ。七海サンが凄え顔して一回ドア閉めたわ」
「見たかった」
猪野さんが少し笑い、傍に置いていた鈍を撫でた。
「だからさ、水場が危険だから呪霊が出るかっていうと微妙だと思ってて……どっちかというと、水場が必要だから呪霊が出るんじゃねえの、って思ったことある」
「どういうこと?」
うーん、と猪野さんが首を捻り、ついでに背伸びをした。
「お前さ、怖い想像することある?例えば…そうだな、任務の後でくったくたに疲れてるとき、今ちょっと一級あたり出てきたらヤバいかもなってときに、曲がり角の向こうに特級がいる、みたいな最悪の事態の想像」
「するよ!乙骨先輩もめっちゃするって言ってた」
死滅回游に参加する前ほんの少しだけ行動を共にしたときに、戦闘について聞いたことがある。先輩曰く、相手が呪詛師でも呪霊でも、敵対する限り、自分にとってやられたら一番嫌なことをやってくる。だから常に最悪を想定しなくちゃならない。なるほど、とは思ったけれど、先輩の場合は単に性分のようなものである気がする。
「人間ってそういう、最悪の事態とか怖いこととかを敢えて想像するように出来てると思うんだよ。で、人間の生活って水場が絶対に必要だろ。だから水場の近くに怖いものがいるってのはまあまあ最悪の事態で…だから勝手に想像して怖くなる」
「危険かどうかじゃなくて、想像だけで?」
「だって、学校とか病院も呪霊ホットスポットだけどそんなに危険なんかなくて、人の気持ちだけで溜まるだろ」
「そっか」
確かに、病院は死人の多い場所ではあるけれど、危険というイメージとはあまり結びつかない。学校も病院も、危険というよりは、「嫌でも行かなければいけない場所」だ。水場もそうなのかもしれない。
「まあ、日下部さんに言うと反論されそうな気がするから黙っといて。俺の勝手な考えだから」
「いやあ、面白かった。ありがとうございます」
猪野さんがちらりと俺の湿った足元を見た。
「虎杖、先風呂入ってきたら?」
「猪野さんは?」
「呪具の相談あるから日下部さん待ってる。もう日車さんも上がっただろうから独占してこいよ」
人間には風呂が必要だろ、と言って猪野さんが笑った。
浴場に入ると、猪野さんの予想を裏切って日車が湯船の中にいた。猪野さんからのメッセージを受け取ったときから数えると、かれこれ一時間は浸かっているようだ。
「日車、のぼせねえの」
「虎杖か……そこまで熱くないから平気だ」
「ふやけるよ」
「……正直に言うと、出るのが面倒になっていたし、今少しだけ寝ていた」
段差に腰掛け、湯船の縁に寄りかかったまま微睡んでいたらしい。ついさっき猪野さんが、風呂場で命の危機は普通感じない、と言っていたけれど例外もあるようだ。日車は死にかねない。
俺が体を軽く洗う間、浴槽から這い出た日車は、一旦サウナ横の冷水に浸かったが、すぐに首を振って一番大きな風呂に戻った。海で少し冷えたのかもしれない。体を洗い終えてから俺も湯船に浸かって日車を見ると、案の定その指はふやけていた。確かに湯の温度はそれほど高くない。宿の人が急いで沸かしてくれたからかもしれない。
「戻んねえの」
「あと三分」
また浴槽の縁に肘をついて目を瞑っている。眠らないように話し掛けることにする。
「今日さ、海とか川とか、風呂でもトイレでも、水場は呪霊が多いなって話しててさ。日車はなんでだと思う?」
「…俺に聞くのか?日下部と猪野は?」
「聞いたし納得したけど、日車はどう思うのかなって」
日車が風呂に入っていると、どうしても初めて会った時のことを思い出す。風呂が好きなのかもしれない。
目を閉じたまま考え始めた日車の高い鼻先から、水滴がひとつ落ちる。濡れて落ちてきた前髪を、鬱陶しそうにかき上げるのが、なんとなく若く見える。長い沈黙に、まさかまた寝ているのではないかと思った頃、ようやく日車は口を開いた。
「人間は」
「ん?」
日車が目を開け、こちらに視線は向けないまま答えた。
「……人間は七割水だから、共鳴している。人間の思念から生まれた呪霊も、生まれたところに帰ろうとして、水に向かう…要するに」
──人も呪霊も、水に、自分と似たものを感じるから、呼ばれている。
そう言って日車は立ち上がり、呆気に取られる俺に向かって、少しのぼせた、戻る、と言い残して浴場を出て行った。
天井から落ちた水滴が、ぽちゃん、と音を立てて湯に混じった。
取り残された湯船の中で体を伸ばしながら、日車の回答について考えてみる。日車にしてはやたら、根拠も説明もない回答だった。こういうのを観念的、とか主観的、というのだろうか。普段は呪術の話になると、日車はまず理屈で語り、理解しようとするのだ。
それがまるで、その感覚を知っているかのような口調だった。
初めて会った時の日車は、スーツのまま湯船に浮いて、さっきと同じように目を閉じて、俺と会話をする間も、なかなか湯船を出ようとはしなかった。
──日車も呼ばれたのだろうか。
日車を真似て、浴槽の角で縁に両肘を掛けて力を抜く。浮力が脚を攫って、全身が浮き上がる。天井を仰ぐと、頭に載せていたタオルが浴槽の外へ落ちたが、無視して目を閉じてみる。
湯はほどほどにぬるく、そのまま浮かんでいると、水に囲まれているという感覚が段々と失われるようだった。自分の輪郭がほぐれ、ほどけていく。
そういえば、あの劇場で日車の入っていた湯船は、ほとんど湯気が立っていなかった。湯を運ぶうちに冷めたのか、それともさっきみたいに出るのが億劫になって、浸かりながら静かに冷めていったのだろうか。
縁に掛けた肘からも力を抜き、頭だけを預けて、深く息を吐く。首から下の感覚はもうすっかり湯に溶け出していて、曖昧に心地いい。確かに自分は、七割水なのだ、と思う。この水はしばらく冷めることはない。
全てを預けたくなり、首から力を抜こうとした瞬間、ガラガラと浴場の戸を開けて日下部先生と猪野さんが入ってきた。驚いた途端に浮力が失われて、俺は体を回転させて立ち上がる。盛大に水飛沫が飛んだ。
「……何やってんの」
「……ええと、日車の、真似をしていました」
「死ぬぞ」
「日車さん一人で大浴場行かせるのやめましょう」
二人が辛辣に言い放ち、流し場へ向かった。もう一度段差に腰掛けながら、髪を洗い始めたふたりの背中に話し掛ける。
「日車にさあ、水場に呪霊が多いのなんでだと思う?って聞いてみたんだけど」
「おー、なんて言ってた?」
「人間は七割水だから、って」
「は?」
猪野さんが首を捻る横で、日下部先生は鏡越しに口の端を歪めて笑った。
「やっぱ着衣入浴男は言うことが違えな」