伊達双騎・春風桃李巵 初見感想
これは、『とりあえず歴史資料に当たる勢』に強烈に刺さる作品。
『伊達政宗の書状』という文字から創り上げられた伊達政宗という人物像。
まず、私は伊達家についてはほぼ素人の門外漢であり、詳細にまるで疎いうえ、持ち合わせている情報・認識は最新のものではありません。有識者の有り難い考察を切に待ち望むひとりです。
そのうえで、この作品のメインテーマに掲げられた『伊達政宗の書状』の内容から、その人物像を脳内で組み立て、創り上げていくメゾットそのものを、刀剣男士二人を通して見せくれていると感じました。
歴史研究において、参考とする文書は、一次資料と二次資料に分類されます。
一次資料は、その時代にリアルタイムに記録されたもの。二次資料とは、後年になって取材したり収集してまとめたりして記録されたものを指します。
その時代を知る上で、一次資料と二次資料は、片方だけでは足りません。一次資料は断片的かつ主観的であり、二次資料は後世の価値観や、記録者の認識や主観が強調される可能性があるからです。複数の資料を突き合わせ整合性を取ることで、その時代のこと、モノ、ヒトを立体的に見ることができます。
その前提で、おそらく、この作品を作るにあたり、伊達政宗という人物像を作るため参照してきたたくさんの『手紙(書状)』という一次資料をどう見つめてきたかを、別々の視点を持つ刀剣男士二人に語らせているのでしょう。
伊達政宗の書状の多さは有名で(作中では2千と言っていた)、でもその多くは、日常のやり取りなのでしょう。
戦国武将同士の書状でよく見るのは「この間は良いものを頂いてありがとう……」的な文章です。
このタイプは内容そのものよりも、いつ、誰と誰が交流があったのか…が重要なので、本文はまさしく「どうでもいい」という感想を持ちます。一生懸命読んだらだいたい季節の挨拶で、大事なのは追伸だった……というのもあるある。
でも、その「どうでもいい」の積み重ねが、伊達政宗の交流の広さを形作っている、あのシーンはそれを、上手に表していました。
畳み掛けるような『即火中』。読んだら燃やして。あれは、乱文乱筆お許し下さい……的な言い回し(転じて、祐筆を通さない直筆であることの強調)だと思うのですが、あれ見ると思いますよね。「燃やしてない!」って。
そして、手紙だけでは分からない人物像の話
小十郎に『産まれてくる子供を殺すな』と繰り返し諭している文書。あの手紙単体では「何故小十郎は誕生する我が子を殺そうとしているのか」は分かりません。
小十郎が初子を授かった年の伊達家の背景、小十郎の立ち位置、そこを他の記録から推察する工程を、寸劇という形で表現。
小手森城の撫で斬りでは、正宗本人が書状に記した(一次資料)ということから、ほぼ実際に起きたこととされています。しかし、別々の差出人(語り手の、虎哉宗乙宛の文書もある)にそれぞれ違いがあることから、内容を『盛った』……これからの戦闘を優位に進めるため、あえて残虐性を誇張した情報戦……とも推測されます。そんな、複数の資料を突き合わせる重要さがあの手紙にはあるのです。
ところで、伽羅ちゃんって、小手森城の撫で斬りを観測したあと、榊原康政の史実として堀川城や八王子城の惨殺に参加して、パライソで原城の撫で斬りの場に居合わせる訳ですよね。超難任務すぎる。
七種の歌では、再び、内容と背景を照らし合わせることで見えてくる意味合いを解いています。が、正直あれは、ほんとにただの春の七草の歌を深読みしすぎてるんじゃ……と思わないでもないです。1月7日の正月連歌の発句らしいので。
愛姫との関係性、夫婦仲の良さについての評価も、愛姫の死後、遺品として出てきた大量の夫からの書状を根拠にされます。
この手紙が見つからなかったら。あるいは、当たり前のこととして、逸話として残らなかったら。愛姫の乳母を殺した件から、不仲だったと解釈されていたかもしれない。
遺品から出てきた、たくさん手紙というモノから、人々が連想した、美しい夫婦愛の物語。
敵遡行軍の目的、『書状を奪う』。
そう来たかーと思いました。むしろ、今までそうしないのがずっと不思議だったんですけど、『過去にその手を使われたので対策されている』のですね。
この手段の恐ろしいところは、成功してしまえば『歴史が変わったことが分からなくなる』かもしれないこと。人の伝聞は不安定で移ろいやすく、我々が過去を知る上で最も重要なのは文字史料。言うなれば、文書というモノによって歴史は守られているわけです。そこを奪われたり書き換えられたら、守る指針を失ってしまう。
江水の時に、歴ヲタ勢が悲鳴を上げていたのは、『吉田松陰と井伊直弼の交流を示す書状を何故届けたのか』でした。
いや、燃やせよ!即火中!!それ残っちゃ駄目な奴だ!!
……あれは、手遅れとなった世界で、敵が如何なる手段で歴史を変えてくるかを観測するのが(まんば先輩投入後の)任務だったので仕方がないのですが、すごくハラハラしましたし、手紙を傘張りの素材としてきっちり処分しているまんば先輩にベテランの貫禄を感じました。
閑話休題。史料を消す、というのは歴史修正主義者にとってとても効率的な手法。
鶴さんが、手紙だけでなく使者も守っているのが頼もしかった。この頃の戦時中の文書によくあるのは、『詳細はこの手紙を持ってった奴に聞いて』。文面と口頭の二重構造になっていることがあるからです。
一通目、豊臣との交渉文を狙うのは、解りやすい伊達家存亡の危機。『徹底抗戦だ!』という内容とすり替えれば完璧です。
ニ通目は、ローマ法王への信書という現存史料を消すことによって、あの時代の国交事情、さらには世界史における日本の認識そのものが変わってしまうからです。
そういえば、支倉常長と慶長遣欧使節が持ち帰った『みやげ』は、現在、国宝でありユネスコ記憶遺産となっています。
慶長遣欧使節関係資料−仙台市の指定・登録文化財
https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c00505.html
慶長遣欧使節と支倉常長は不幸だったか。
訪欧中に日本におけるキリシタンの立場が悪化、通商条約締結は失敗という結末を知っている我々は、伽羅ちゃんとほぼ同時に「あれは…」と思ってしまうのですが、それに対して、彼等がどう感じていたかは分からない、と返してくるくだりは、まるで第四の壁を越えてくるような演出でした。
そう、何を感じていたか?
手紙という究極の文字資料を中心に据えながら、大事なところは『不立文字』。本当のことは文字やことばで伝えられない……って言うんですよね!!あれ、本当にずるい!!
私達が、文書や絵画という資料、言うなれば『モノ』から歴史を紡ぐ感動と危うさを、『物語』から産まれた刀剣男士という存在が、対比する二つの目線で追体験するという展開は、とても胸踊りました。
作中登場する和歌は、有識者にお任せするとして、あえてここには書きませんが、検索すればすぐに出てきます。その意味を追求することもできますが、東京心覚で雨さんは『知らぬが花の吉野山……』とつぶやいているのですよね。