「君たちはどう生きるか」感想。
物語というお守りについて。
「君たちはどう生きるか」を見た。
上映中にぽろぽろ泣いて、エンドロールで泣いて、シアターから現実に戻るために歩くその最中にも、ひたひたと泣いてしまった。
まずひとつ、この映画は積み木みたいな映画だなと思った。監督が積んだ意味深な積み木を色んな人が見て、これは〇〇だ、いや××だ、と各々が自由に解釈できるような。だから私も自由に解釈して楽しんだわけだけど、私は元々自分に都合よく物語を解釈しがちなので、「こいつ何言ってんだ?」というような感想になっているかもしれない。ご容赦ください。
この映画は、眞人が塔の世界(下の世界)というファンタジーの力を借りて、母の死を受け入れ、新しい母と、この現実世界そのものを受け入れていく話なのではないか、と思った。
もっと言えば、塔の世界は眞人が母の死を受け入れるために作った世界なのではないかと。眞人のイマジナリーフレンドというか、イマジナリーワールド。
親しい人の死を飲み込むきっかけを求めている人にとって、きっとお守りになるのではないか、と思える映画だった。「どう生きるか」って、「死とどう向き合うか」なんだと思った。
以下、なるべく時系列で、感想を書き殴り。
物語の冒頭。
主人公の眞人は母親を火事で亡くしてしまう。
まず、階段での眞人の動きや、寝巻きからきちんと服に着替えて外に出る様子から、彼の育った環境や彼の人柄が伺えて、すぐに眞人のことを好きになった。火事の現場に向かう時のシーンはすごかった。風景も音も歪み、火がものすごく強く描かれている。眞人の目や耳で捉えたものを描いたようなすごく主観的な映像。この時点で、この映画は現実を描くというより「眞人の主観」を描いていくんだなという予感があった。
眞人の傷が癒えないうちに、父親は母親そっくりのナツコ(母の妹)と結婚し、ナツコは新しい子供までお腹に宿している。ためらいなく自分のお腹を触らせるナツコ。父親も前向きで明るい。なんか…無神経すぎる!眞人が本当に可哀想になる。新しい屋敷に着いても、眞人を迎える人は誰もいない。眞人の孤独が「孤独」という言葉なしに何度も描かれる(彼が気づいていないだけで、父もナツコもおばあちゃんたちも眞人を思っているんだろうけど)。
眞人は、母が火に焼かれながら自分に助けを求める様子を夢に見てしまう。「眞人、助けて」という母の声さえ聞いてしまう。母を助けられなかった悔しさがそういう夢になってしまうのだろう。母が苦しんで死んだであろう情景に、眞人はとても苦しめられている。でも起きている時は泣くことができない。涙を押し殺してるんだろうな。1人で眠った時にしか泣けないなんてつらい。自分の悲しみを抱きしめて癒してくれるはずの母親も、もういない。眞人の寂しさはいかほどだろうか…と思うと、もうこの時点で見ていて本当につらい。物語の展開としてはさして珍しくもないんだけど、やはり監督の力なのだろうか、アニメーションの端々から彼の孤独を何度も読み取ってしまって、でもそれに負けまいとする眞人の気丈さが彼の所作や目線から伝わってきて、ああ眞人!!
父親も、めちゃくちゃ嫌なやつというわけではないのだけど、眞人を放って、新しい妻といちゃいちゃして、やめろや!と思う。キムタクの声がすごくいい。
そして自分で頭に石を打ちつける眞人。なぜ彼はそんなことをしたのか。解釈は別れそうだけど、私は、父や周りの人の目を自分だけに向けさせたくて、そうしたのかな…と思う。俺がこんなふうになったのはお前らのせいだぞ、苦しめ、という反抗心もあったかもしれない。赤ちゃん返りというには重すぎる。後に眞人はこの自傷行為を自分の悪意だったと言うけど、お前はなにも悪くないよ…と思った。
自傷の結果「俺の大切な息子」という言葉を父から引き出しても、眞人の傷は痛み続ける。悪意を隠す絆創膏。
眞人はナツコがつわりで苦しんでいても、見舞いに行かない。ナツコにまだ心を開いていない。でもおばあちゃんに、「あなたのお母さんもつわりで苦しんでいたよ」というようなことを言われ、初めてハッと何かに気づいたように、ナツコの元へ行く。ここにも、眞人の後悔がちょっと表れている気がする。母を見舞えなかった代わりにナツコを、というような。でもまだ本心ではない。お見舞いついでにタバコを盗む眞人、とてもよかった。そういう強かさみたいなのがあるのは、なんだかほっとした。
その後、ナツコが森へ入っていくのを見かける。でも眞人は追いかけない。
そして、眞人は母が自分に残した「君たちはどう生きるか」という本を発見する。
「大きくなった眞人へ」という母の文字を発見する。
物語のターニングポイントだ。
母の死によって時間が止まっていた眞人のもとに、母から投げかけられる「君はどう生きるか」という問い。
この本は実際に存在するが、内容を私は知らないので、眞人がこれを読んでどう思ったのかはわからない。でもここで眞人は「僕はどう生きるか」を考えたはずだ。
母は死んでしまった。
でも母は、「生きて大きくなった眞人」にあてて本を残している。
これからどう生きるの?と問いかけている。
自分は生きなくてはいけない、だから死んだ母のそばで立ち止まっていてはいけない。
ここで眞人は初めて、「母の死を受け入れて、新しい母と生きる」という道に向き合ったのではないだろうか。
そして眞人は、一度は無視したナツコを助けるために、塔に入る。生きているとアオサギに言われた母ではなく、ナツコを探しにいく。
塔に入るというのは、亡き母と別れ、新しい母と一緒に生きるための一歩目だったんだと思う。
塔の中で、眞人はナツコのことを「父の好きな人」と言い続ける。このセリフ、すごく印象的だった。ナツコは「僕の好きな人」でも「僕を好いてくれる人」でもない。父ももう、母を好きではない。眞人の孤独が感じられるセリフだと思った。それでも眞人はナツコを助けにいく。好かれていなくてもナツコを助けにいく。
塔の世界(下の世界)がなんなのかは、本当に難しい。でも、前述した通り、塔の中の出来事は眞人が母の死を受け入れるために生みだしたイマジナリーワールドで、塔はその入れ物として建っているのだと考えると、色々合点が行くというか、「そうだったらいいよね、眞人…」と思えるものが多い。
例えばワラワラ。ワラワラは空に上り、現実世界でまた生まれるらしい。死んで魂が下の世界に帰っても、キリコという強く優しい女性に世話してもらいながら、また現実に生まれる。これが本当なら、母は死んでも、また現実世界に生まれるのだという希望になる。
ナツコの産屋のシーンも、あれ、ナツコは眞人を産もうとしてるんじゃないか?と思った。いや本当に産むわけじゃなくて、眞人の本当の母親になろうとしている、という意味のシーンなんじゃないかと思った。少し脱線するけど、そもそもナツコはどうして塔に入ったのか。まさか本当に「塔で出産しよ!」と思ったわけではないはず。自分としては、やっぱりナツコも、自分の姉の死に折り合いをつけ、眞人の本当の母親になろうとしていたのではないか…と思っている。あの塔はそういう人を呼ぶんじゃないだろうか(あの塔は色んな世界に跨って建っている=親しい人の死に苦しむ人を癒すために現れるイマジナリーワールドなのかなと)。塔の案内人であるアオサギは不死鳥とも言われるし、やはり死によって何かしら苦しめられている人が招かれている気がする。うろ覚えだけど、ヒミも、母親を亡くしたと言う眞人に「私も同じ」と言っていた気がする。ヒミも母を亡くしたのをきっかけに塔に入ったのでは?と思う。ナツコは最初良い印象があまりなかったけど、初めて塔に入ろうとした眞人を引き止めたのはたしかナツコの弓矢なったし、屋敷に着いてから倒れるように眠った眞人の寝顔を見るナツコの表情や、音を立てないように優しくドアを閉める様子には、まちがいなく愛があったように思う…あったと思いたい。ただ、やっぱり姉の夫と恋愛再婚するくらいだから、姉に対して何か確執はあっただろうし、眞人の母になることに葛藤や嫌悪もあったかもしれない。そういう苦しみも姉の死がきっかけだったわけで、だから塔に呼ばれたのかなあ。
話は戻って、産屋。ナツコが「あなたなんか大嫌い」と言った理由はすごく難しい。ナツコの本心なのか、眞人を危険から遠ざけるためにわざと言ったのか、それとも眞人の恐れの具現化なのか。でもこのシーンで大事なのは、大嫌いと言われてもなお「ナツコお母さん」と眞人が叫び、ナツコを助けようとしたことだと思う。眞人の決意の表れのようなシーンだと思った。最初は「なんで突然ナツコをお母さんと呼んだんだ、いつの間に心を開いたんだ」と面食らったけど、やっぱり「君たちはどう生きるか」を読んだ時点でもう覚悟完了していて、それを言うために塔に入ったのかな、と思う。
そして、ヒミという少女の存在。
ヒミは火を操る強い少女だ。ヒミは火を恐れない。火で焼けることもない。火で焼いた美味しいパンを眞人に与え、眞人は笑顔でそれを頬張る。私はここで泣いてしまった。母と火の痛ましい関係を、ファンタジーの力でなんとか優しい関係に繋ぎ直そうとしているように思えたから。ヒミは最後、火で焼かれて死ぬことを知りながらも、それでも眞人を産みたいという気持ちで自ら現実に帰る。このシーン、眞人の切実な願いのような気がして、胸が本当に痛かった。“母は死の運命を知っていても、自分を産むために生まれてくれた。母は火に負けなかった。だからきっと母は幸せだった。”そんな願いが具現化したようなシーンに見えてしまった。そうだったらいいよね。そうだったらどれだけ眞人は救われるだろうね…。眞人を産めるならなら死んでも構わないという愛。そしてそうヒミに思わせたのは眞人。お互いに救い合う関係が大好きな人間なので、やっぱりここでも泣いた。眞人はヒミに抱きしめてもらって嬉しかっだろう。でも、ヒミはヒサコお母さんじゃない。同じ人だけど別の存在だ。
そして眞人は母のいない現実に帰る。
大叔父に、綺麗な世界を作って欲しいと言われても、それを拒絶する。綺麗な世界、それは例えばお母さんが生きていて、ナツコからも大嫌いなんて言われないような、戦争もないような、悪意のないとても都合のよい世界かもしれない。でもそんなファンタジー世界の神になることを眞人は拒否する。
塔の中の出来事は明らかに現実ではない。塔から出るというのは、塔で起きたことが虚構だと認めることだ。母が苦しんだか、自分に助けを求めたか、幸せだったのか、現実に帰ってしまえばもうわからない。
それでも眞人は帰ることを選ぶんだよね。塔の冒険を経て大きくなった眞人は、現実で生きるんだ…。
「友達を作ります」という眞人の言葉、とてもよかった。親子という閉じた関係から抜け出して、ひとりだけのファンタジーから抜け出して、友達という他者を得て、前向きに外に歩いていく感じがして、泣けた。
帰った時、お父さんたちが迎えてくれるところでやっぱりうるっときたな。
そしてたくさんのインコたち。すごく綺麗なんだけど、汚ないフンもいっぱい降ってきてて、とてもよかった。美しさと汚さの混ざった現実に帰ってきたんだなと。現実もすごくいいじゃん!!!!と素直に思わされる。
眞人は塔で拾った石(積み木だっけ)を持って帰る。これは「ファンタジー」というお守りなんじゃないかな、と思う。人は、どうしても受け入れられない悲しみがあったとき、そこに物語を作って、悲しみを癒すことがある。多分それは人間にしかできない。物語なんて、言ってみれば「ただの嘘」なんだけど、生きるために物語が必要になることがある。それを肯定してくれているような気がして、勝手に嬉しくなってしまった。
物語なんてすぐに忘れてしまうかもしれないけど、でもその物語の中で拾った何気ない石を持って帰ることはできる。メッセージとかテーマみたいな難しいものだけじゃなくて、たとえば「あのパン美味しそうだったな」とか、「あの海綺麗だったな」とか、「あのキャラの笑顔最高だったな」とか。そういうちっちゃな石だけでも、それが生きていくお守りになったりする。そういう石を積み上げて生きていけたらいいなぁと思う。
ああ、いい映画だったなぁ、劇場を出てからしみじみ思った。大好きだな…。
まだ一回しか見てないし、やっぱり難しくて飲み込めてないシーンもたくさんあって、「この解釈だとこのシーンの説明がつかないじゃん、矛盾してるじゃん」というのも多々ある。ペリカンとかインコとか大叔父とか全然わかんない。なんでヒミがワラワラを焼いちゃうシーンを入れたのか、とか、キリコさんとか。正直キャラの心情や行動原理もわかりやすく描かれている訳ではなかったから、やっぱり都合よく見ているかもしれない。もっとやりようがあったんじゃないかとも思う。でもそれも含めてまた見たいなと思う。また見たら、感想も変わる気がする。でもきっと、ずっと好きだと思う。
さて最後に。作品を語る時、作者の人格とか半生とかを絡めるのは好きじゃないんだけど、少しだけ。
他の人の感想を読むと、「ジブリの老いた王」みたいなネガティブな文脈で語られているのを時々見る。「駿はどう生きたか」を求めてこの映画を見るとそういう感想になるのかもしれないし、言ってることもすごく納得感あってわかるんだけど、でも自分はそういう感じを全然受けなかった。むしろ、「物語は嘘であり、いつか現実に帰らなきゃいけないけど、石ひとつでも持って帰ってこれたら生きるお守りになる」っていう、監督の「物語への信頼」みたいは前向きな姿勢を感じられて、とても嬉しかったんだよな。こんなにも偉大な映画監督が、たったひとつの積み木しか残せないことに自覚的で、それでもなおその尊さを最後に伝えてくれたの、本当にありがとうという気持ちになったんだよ。監督、物語が好きで、物語の力を今も信じてるんだな、みたいな気持ちになったんだよね。この難解な作りについても、「物語の積み木は渡したぞ、好きに積め」と言ってくれてるような気がしちゃうんだよな。いや、監督のこと全然わからないから、これも勝手な感想だけど。でも、この気持ちは大事に取っておきたいと思う。これもひとつのお守りだと思うので。
宮崎駿監督、そしてスタッフのみなさま、素敵な映画をありがとうございました。眞人を!眞人を生み出してくれて本当にありがとうございました!!引退しないでまた映画作ってください!!楽しみにしてます!