『レディ・プレイヤー1』三つの試練は、振り返ってみると「フィクションとは何か」の答えを模索する旅だったように思える。以下、具体的に旅の過程を振り返ってみる
第1の試練は「全力で後ろ向きに進む」が答えで、それはハリデーの人生観でもあった。つまりそれこそがオアシス(フィクション)の意義そのものなのだ。現実で壁にぶち当たったとき、無闇に突き進もうとするのではなく、一旦逃避する先として虚構がある。それは決してネガティブなものではなく、辛いときに行ける場所があるからこそ、そこで大切なものを見つけたり、逆に現実で生きる意味を見出せたりするということなのだ。そしてそれは、この映画におけるストーリーの大筋にもなっているわけで、はやくも最初から答えが示されていることがわかる。
第2の試練は、創造主ハリデーの極めて個人的な「後悔」に関するものであった。プレイヤーはハリデーの代わりに「跳ばなかったジャンプ」をすることになるわけだが、この試練の意図はなんだったのか。思うに、これはフィクションが持つ力を示すとともに、生前ハリデーができなかったことを成し遂げてほしいというメッセージでもあったのではないか。フィクションは、「あのときああすれば」という後悔を供養したり、「こうなってくれれば」という願望を叶えてくれるものでもある。しかし、それだけで終わってはいけない。重要なのは、それが現実にフィードバックされ、次へと繋がるかどうかだ。なぜなら、現実と虚構はコインの裏表であって、互いに影響し合い、支え合うものだからだ。ハリデーは幼い頃から他人との関わり方が分からず、おそらく想い人を誘おうとしたときも、あと一歩を踏み出せなかったのだろう。そして後になって「現実」の大切さに気付いたのだ。だからこそ後継者には「表と裏」の大切さを学んで欲しかったのだろう。この辺りは終盤、ウェイドに語られた通りだ。
そして第3の試練は、史上初のイースターエッグを発見するという、いわば原点に立ち返る内容であった。これぞまさに「フィクションとは何か」を示す過程である。すなわち、それは人生における「遠回り」なのだ。クリアだけがゲームの目的なのではなく、あちこちウロウロして、ただ気ままに遊んだっていい。一見無駄に思えても、それは決して無駄ではない。むしろそこで得た「楽しさ」や「興奮」はかけがえのない経験であって、人生になくてはならないものなのだ。この試練で、プレイヤーは実際にゲームをプレイすることで、その原体験へと立ち返ることになる。それはあたかも、我々がこの映画を観て、始原的な「楽しさ」や「興奮」を改めて思い出したように。
以上のように、第1の試練は「逃避先としてのフィクション」、第2の試練は「現実と裏表のフィクション」、第3の試練は「フィクションが与えてくれるもの」という風に、それぞれの試練がプレイヤーと共にフィクションの何たるかを体験する旅だったように思える。それら全てを理解し、正しくオアシスを導ける者にこそ、ハリデーは自らの後継者となって欲しかったに違いない。言うまでもなく、それはフィクションの創造主スピルバーグの、我々に対する思いでもあるのだ。