浅倉透考メモ:「海へ出るつもりじゃなかったし」と【ハウ・アー・UFO】の再読
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先日【つづく、】「リバ ス」の読解をもとに浅倉透について改めて考えてみました。次の文章がそれです。リンクを貼り付けますが、これを読まなくてもこのメモの内容は分かるようにします。
「【つづく、】「リバ ス」とジャングルジムの記憶から浅倉透について考えてみる」
https://fusetter.com/tw/SqaGlCGd#all
この文章では、「リバ ス」の読解をもとして、WING編のジャングルジムの記憶について取り上げています。そのことから辿り着いたのは、浅倉透は、夢から現実へと覚めることを願っているのではないか、ということでした。しかしその「現実」というのは、この日常世界のことではありません。この日常世界へと目覚めるのではなく、むしろその反対方向に、夢の向こう側へと至るようなものです。図示すると次のようになります。
日常世界 → 夢 → 現実
ここで登場する「夢」というのは、文字通りの夢、眠っている間に見る夢ですが、それだけでなく、日常世界の中に適切に位置づけることができないような時間や場所のことでもあります。そうした夢から、日常世界へと目覚めるのではなく、現実の方へと行きたいのではないか、という気がしてきます。
WING編のジャングルジムの夢でも、ジャングルジムのてっぺんにたどり着くまえに目が覚めてしまうと語られています。ジャングルジムのてっぺんは、夢の中にこそあるのだと言いたくなります。だからジャングルジムのてっぺんにたどり着くということは、その夢の向こう側へと至ること、そう考えたくなるのです。
この構図は、浅倉透のコミュの中で繰り返し登場してきているように思えます。たとえば、「海へ出るつもりじゃなかったし」の中に出てくる「ほんとの世界」。これは、大みそかから年が明ける瞬間の「0時00000秒きっかり」にジャンプすることでたどり着くものですが、その瞬間の時間というのは、「何かが終わる時と、始まる時がまざる、いつでもない時間」と語られています。この日常世界を脱出して「ほんとの世界」に至るためには、「いつでもない時間」を経由する必要がある。ここにもその構図があります。
またほかにも「海へ出るつもりじゃなかったし」では、透が預かっているオウムが繰り返し「オキロ、ノロマ」と呼びかけています。そしてその呼びかけに応じるかのようにして目を覚ますところから、このイベントシナリオは始まっています。
このように、浅倉透は、この日常世界とは違うどこかへと脱出すること、どこかへと至ることを願っているように見えます。
ここまでが、上の文章で考えたことの範囲です。
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ただ、上の文章を書いた後で、この構図を取り出すだけでは不十分であるような気がしてきました。というのは、浅倉透が日常世界とは違うどこかへと脱出することを願っていることが本当であるとしても、それは成功していないのではないか、しかもいつも失敗に終わっているのではないか、という気がして来たからです。ジャングルジムの夢では、てっぺんにたどり着くまえに目が覚めてしまうわけです。
「海へ出るつもりじゃなかったし」の「ほんとの世界」へとたどり着くためのジャンプも、成功しませんでした。普通に年越しをし、普通に今までと連続した時間が経過しています。この年越しのジャンプが、騎馬戦でのジャンプへと重なっていくわけですが、そのジャンプも失敗し、騎馬はばらばらになり負けてしまいます。「優勝したら、見えてるものが変わる」とプロデューサーに言われていましたが、それを見ることは叶いませんでした。
つまり、夢から本当の現実へと覚めることを願いつつ、目を覚ますのは必ずこの日常世界なのです。夢は必ず日常世界に覚める。浅倉透の脱出の願望の構図は、ここまで考える必要があるのではないか、という気がしてきたのでした。
このように考えると、【ハウ・アー・UFO】について新しい気づきを得ることができます(少なくとも私にとっては新しい気づきでした)。
ひとつは、このsSSRのコミュの中でも二度、この脱出の失敗の構図が見えるということです。ひとつ目は、縁日の帰りにUFOを呼ぼうとした「ろーかる銀河」でのこと。地面に図形を書いて光で合図してUFOを呼ぼうとしますが、UFOはなかなかやってきません。しかし何やら変な雰囲気になります。何かが起こりそう…… ですが、それは花火だったのでした。このように、「何かが起こりそう! いや違う、〇〇だった」というのが、脱出の失敗の構図です。これは「うわの宙」での、謎の光は人工衛星だった、というのも当てはまります。「日常世界に位置づけられない何かが起こる/現れる! いや違う、それは〇〇(日常世界の中で知られてる何か)だった」という風に、日常世界の中に帰ってきてしまうわけです。
日常世界 ←→ 夢 ×→ 現実
【ハウ・アー・UFO】の「うわの宙」で語られる「どっかに行きたい力と、行けない力で、ぐるぐる周る星」というのも、こうした構図で理解することができると思われます。「どっかに行きたい力」というのは、現実へと脱出したい、目覚めたいという願望。「行けない力」というのは、結局は日常世界に必ず目覚めてしまうという事実。こうしてぐるぐるまわっている、と。
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こうして、脱出についての構図を二段構えで考えてみると、プロデューサーの役割というか、プロデューサーに期待されることがどういったことであるのか、ということもよりクリアになってくる気がします。それは、脱出の願望の段階と、日常生活に覚めてしまうという段階とに分かれてきます。
上にリンクを貼り付けた文章では、スカウトの場面において透がプロデューサーと再会したとき、その再会は夢に近いような過去の記憶の中の人物が現れたように感じたのではないか、と考えました。プロデューサー青年と一緒にジャングルジムのてっぺんにのぼったという出来事は、実際の出来事の歴史(記憶)の中にうまく位置づけられないような時間だったのではないか、ということです。それゆえプロデューサーは、ジャングルジムのてっぺんへと連れて行ってくれる人物として期待されていたのではないか、と思われたのでした。いわば夢から現実への覚醒=脱出を導いてくれる人物として。
ですが、その覚醒は失敗します。夢は必ずこの日常世界へと覚めるのです。透が飛び込んだアイドルの世界も、学校と似たような場所でした。それにプロデューサーはジャングルジムのてっぺんまで一緒に上ったのが自分(透)であるということに気づいていなかったのです。またしても、覚醒=脱出は失敗します。
しかしプロデューサーは、こう提示します。「のぼるっていいことなんだなぁって」。てっぺんにたどり着く=脱出することはできなくても、のぼっていくことそのものはとても良いことだということをプロデューサーは言っています。本当の現実へと脱出できずに日常世界に覚めてしまっても、その日常世界の中で積み重ねていくことに、喜びを見いだすことができる、ということです。
プロデューサーのこの役割は、偶然にも(?)「海へ出るつもりじゃなかったし」でも果たされています。プロデューサーは、騎馬戦で優勝すれば「見えてるものが変わる」と4人を誘います。優勝することで見える世界がある。この「世界」は、脱出=覚醒したい本当の現実であるように思えます。あるいはジャングルジムのてっぺん。
でも、4人のジャンプは失敗してしまう。大晦日の瞬間のジャンプが、「ほんとの世界」へと至らずにそのまま地続きの時間の上に着地して終わったように、騎馬戦でのジャンプも、優勝できずに敗退という結果で終わることになります。やはり脱出=覚醒はできない。
その結果を見届けた後、プロデューサーは1人で4人の騎馬戦のことを考えていました。プロデューサーは1人でこう言います、「優勝なんて、いいんだ」と。善村記者を相手にこうも言っていました。「何かをやるってことの、楽しさと恐ろしさが」「きっと自分たちが思ってる以上に大きいものだってこと、知ってほしくて」と。
優勝を目指したけど、結果としては優勝できなかった。優勝することで見える世界というのは見えなかった。しかしだとしても、それでもあの4人が騎馬戦に向けて練習したり作戦会議をしたりした時間が全くの無であったわけではない。蓋を開けてみたらテレビに全く映っていなかったけれど、でも4人のことを見ていた人がいなかったわけではない。プロデューサーがそうだし、たぶん善村記者は見てくれていた。てっぺんにたどり着くことはできなくても、のぼっていくことに喜びを見いだすことはできるのです。きっと。
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透の夢?の中で、4人が船員になって船を動かすところが描かれます。その船は風を失って動けずにいました。そこで船長が、口笛を吹けば風が来ると言います。口笛を吹くと、本当に風が吹きました。騎馬戦の仕事の帰り道、透が口笛を吹きます。「呼んでた。風」と、口笛を吹くと風が吹くと言っています。それでみんなで口笛を吹きますが、風は来ませんでした。
風は吹かないのです。ジャングルジムのてっぺんにはたどり着かないし、「ほんとの世界」にもならない。優勝して見れる世界も見られない。UFOも来ない。
でもそれは、日常世界の中にちゃんと適応して生きなさいということでは、おそらくないと思います。透はおそらくやはり本当の現実へと脱出=覚醒することの願望を完全に諦めるようには思えないですし、「天塵」や「海へ出るつもりじゃなかったし」でも描かれてるようにノクチルは普通の人には見えない独自の輝きを持っています。ちゃんとアイドルとして要求されたようにふるまってほしいということが、ノクチルに対して願われているわけではありません。
透はプロデューサーとともにジャングルジムのてっぺんを目指してのぼっていくわけです。またプロデューサーは「見えてるものが変わる」と言って、優勝を条件にしました。脱出=覚醒の方向は全くなくなっているわけではないのです。しかしとはいえ、それが成功するわけではない。成功しないからといって、そもそもそれを諦めるべきだというわけでもない。日常世界の中に適切に位置づけられない何かの場所を切り開くことを目指すことそのものに、浅倉透の、あるいはこう言ってよければノクチルの、独自の輝きがあるのかもしれません。
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以上のように、やや構造的に整理する形で「海へ出るつもりじゃなかったし」と【ハウ・アー・UFO】を読み返してきましたが、これできれいさっぱり整理できたという感じはしません。特に「海へ出るつもりじゃなかったし」の方は、実際に読み返す前はもっと整理できる気がしていたのですが、細部について思い違いをしていたところや記憶していなかった部分があり、うまく整理しきれない部分がかなり大きいように感じるようになりました。
その最大の部分は、【ハウ・アー・UFO】の言葉を借りれば、「どっかに行きたい力と、行けない力」のうちの「行けない力」に関するものです。今回「行けない力」は、脱出=覚醒を願っても、必ずこの日常世界に覚めるという事実として考えました。
が、「海へ出るつもりじゃなかったし」を読んでいると、仕事を断ってまで暇そうに正月を過ごすことの背後に、どんな願望があるのかということを考えないわけにいかなくなります。「どっかに行きたい力」が脱出=覚醒の願望であるとして、「行けない力」というのは、現状にとどまりたいという透自身の願望も含まれているのか、ということが気になってきます。
このあたりのことがうまく整理できていない感じが、この文章がメモにとどまっている理由になります。