「ファイナルファンタジー15はシリーズの中でのベストエンディングの一つだ」 ものすごいざっくり訳。ホントに読み下し的ざっくり訳
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私にとって、X-2や13のような賛否両論のものであっても、全てのファイナルファンタジーは特別な意味がある。たとえ欠点があっても、その信じられないような作品の価値とSQEXのシリーズで革新をもたらしたいという願いは毎回の作品を全く新しい体験のように感じさせる。私が願っていたようにはFF15はすぐプレイできなかった、というのは人生いろいろあったからである。それはきっと幸運だっただろう、というのも、友人のゲーマーいわく、多くのフィックスやアップデートが体験をよりよくしているとのことだった。ついにプレイしたとき、私の反応は複雑だった。多くの点で愛すべきものであったが、同様に困惑するものでもあった。だが、エンディングが全てを変えた。
<夜明けのしずく>
FF15を始める前、ゲームの背景を理解するために絶対必要だと聞いていたキングスグレイブを見た。CGが綺麗だなくらいの感想だった。私が知らなかったのは、何が起きているかを知るためにいかに多くの外部メディアを見るあるいはプレイしなければならなかったかだった。これはブラザーフッドと呼ばれるアニメ、ゲームのDLC、FF15ユニバースの中での個人間ファイトゲーム(DFFのこと?)を含んでいた。私は全部それらを最初、逃したので、メインゲームの大きな部分でストーリーを完全には理解できていなかった。
オープニングでエンストした車を推す四人の友人たちはあまりに突然に感じた。彼らの関係って何だ?どうやってそんなに仲良くなったんだ?これまでプレイしてきたすべてのファイナルファンタジーのゲームでは、それぞれ初めて会った人たちでパーティが構成され、お互いについて新しいことを学習して一緒に旅に出ていた。彼らはいつも仲よいわけではないが、それが彼らのエピソードを連ねて語るストーリー手法だった。これは違っていて、違っていることは必ずしも悪いことではなかった。でもこれらの質問がゲームではなく私が見落としたアニメで解答されていることを知って欲求不満だった。
幸運にも、すぐにゲームプレイに熱中した。FF15はシリーズの中でもベストコンバットの中にはいる。これはとても面白くて中毒的で、アクションが詰まっていた。実際には何が起きているのかということについて私が持っていたどんな疑念や疑問も熱狂的なバトルの中で失われていった。四人の友達の間の関係性の発展が欠けていても、彼らの協力的なバトルやフレンドリーな冷やかしで埋め合わされた。サイドクエストはお使いクエストの繰り返しやモンスターハントのミックスのように感じられたが、レトロなFF音楽をその途中の車の中で聞いていられる限り、問題なかった。
FF15は私たちに絶え間ない攻撃の中にある世界を提供しているが、それでも一番良いパートは鳥肌をたて、リラックスして、世界を探検して、友達とつるんでいるときだ。私は料理できる様々な料理全てが好きだった。とはいえ、ホテルでとまることで得られる大量の経験値のおかげで、キャンプはあまりしなかった。ゴージャスなビジュアル、面白いゲームプレイ、なじみのある音楽が郷愁を誘った。進めたくなければストーリーは必ずしも進める必要がない、それに、パーティがレスタルムを離れるチャプターまではオープンワールドをエンジョイできる。
これが究極のファイナルファンタジーのロードトリップだ。
<慰めようのない悲しみ>
ストーリーに興味を喪い始めたので、ストーリーに集中し始めたときだった。興味を喪うなんてファイナルファンタジーというゲームの中で抱くには奇妙な感情だった。なぜって、私はふつう、ストーリーのためにプレイしていたのだから。
オルティシエについたら、非常に楽しんだリヴァイアサンとの雄大なバトルがある。しかしそのバトルのクライマックスで、アーデンがノクティスの婚約者ルナフレーナを殺したパートを実際には誤解したことで、私は混乱した。アーデンが使ったナイフはとても小さかったから、フェニックスの羽か治療の呪文で彼女の傷は癒されると思っていた(ちょうどFF8をプレイしていて、氷の槍がスコールを突き刺して、彼は次のシーンでふりすてた)。ルナフレーナはナイフの傷の後も暫く話していたから、大体大丈夫に見えた。それどころかノクティスの方が彼女よりも悪い状態に見えた。それから、彼らはフラッシュバックのように、切られた夢を一緒に見ている、そして私は実際にはこう考えた。「おう、クールじゃね?彼女はついにパーティに入るんだ。そうじゃなかったら、話しかけてくるとか?」
目覚めたら、イグニスはノクティスに告げた、「彼女は亡くなった」、これはまったく考えていなかった。悲しいと感じるよりも、私は何かを喪ったような気持ちだった。感情的な打撃は落ち着かなかった。ゲームを終わらせてから、私はルナフレーナの召喚が実際には彼女からエネルギーを吸い取って彼女を殺すようなものだったという説を読んだ。でもそれなら、なぜアーデンはさらにナイフで苦しませた?
そのうえ、イグニスの会話がそれとなく示唆するまで彼が視力を失っていることにさえ気づかなかった。私はメインキャラクターのそのような重要なイベントを見せなかったことが信じられず、あとになってそれらはイグニスのDLCにあると知った。DLCにまた払うのは気にしない…うん、多分ちょっとは気になる…でも私はそれをもっと前に知っておきたかった。
そこから、アーデンは悪玉の親分としての役割を演じ初めた。彼は悲劇的なバックストーリーを持っていた。それもまた、DLCで埋められていた。アーデンは2000年生きており、神々にひどく扱われていた。本当は彼が真の王になるはずだったが、星の病として知られる伝染病を、感染した人たちからそれらを吸い取ることで戦った。彼の治療者としての才能は彼に名声を与え、六神によって承認されるだろうと彼は信じていた。
だが、星の病は彼の体と心のコントロールをとりはじめ呪いとなった。彼の弟のかずかずの裏切りによって、彼は力、神々の祝福と愛した女を喪った。彼は何千年もとじこめられ、彼の弟によって彼の存在は歴史書から消えた。ニフルハイムは彼を開放し、彼らは彼の力を利用することができた。それからでさえ、彼は関係する事を望んでいなかったが、悪魔的な力を使うことが彼の精神をふっ飛ばした。今や彼が求めているのは弟の家系に対する復讐であり、アーデンがノクティスの父を殺すことに成功したことから、それはノクティス王子によって象徴されていた。
ノクティスは彼の運命と直面し続け、六神バハムートと出会った。バハムートはノクティスに、これを最後に星の病を終わらせるよう、彼の命を犠牲にしなければならないと語る。「多くの犠牲は全て王のためであり、王はすべてのために己を犠牲にしなくてはならない」、バハムートはそう言及し、彼を10年間クリスタルの中に吸い込み閉じ込める。10年の間、アーデンは星の病に消耗され、彼は人々をモンスターに変え、世界を永遠の夜に陥れた。FF6へのトリビュートとして、このイオスの破壊された未来は「崩壊後の世界」と呼ばれる。
ノクティスは10年年を取ってクリスタルから現れる。私は実際、崩壊後の世界にかなり興奮していた。みんな年をとった。みんなが生きるためにベストを尽くしてきた。これらのシーンは非常に威厳があった。彼らはアーデンと対決するためにインソムニアに赴いたとき、私はこのとがりまくった雰囲気を愛した。実際に、ゲームのこのパートに対してもっといろいろあるんだろう、FF6の後半みたいに、と願っていた。
四人は城を急襲し、最終的にメインの要塞を突破する。ノクティスがアーデンに直面する直前に、彼は仲間たちに別れを告げる。それはとても感動的な別れなのだが、正直言って、アーデンのケツを蹴り飛ばした後また彼らに再会できると思っていた。
不幸にも、ノクティスの運命は生まれたときから決められていた。アーデンに勝利した後、ノクティスは玉座に座り、クリスタルと光耀の指輪の力を使う。「みんな愛してる。ルーナ、みんな、親父……一緒に過ごせた時間は大事だった」と彼は言う。それからルシスの王たちを呼び、彼らに、彼の元に来るよう命じる。彼らは彼を突き刺し、最後の一撃は父親の霊によるものだった。死後の世界でアーデンを最後に追い詰める。ゲームの最後のイメージはノクティスとルーナが霊として結婚するものだった。彼らは死んだ。ジ・エンド。
このとき、私は衝撃を受けた。
ゲームの全体がまるで解釈しなおされたようだった。
ファイナルファンタジー15は兄弟愛(brotherhood)というより、むしろ暗い運命と甘受する若い男の話だ。彼の運命は究極の捧げものにするための準備だった。すべての人に対する救済をもたらし、そして夕陽の中に去っていく、逃避の物語ではなかった。これは子どもが成長し、彼が命に感謝しようとするごく短い時間(なんと短いことか)を過ごす話なのだ。
気安い空気、無頓着さ、楽しい友情は、ノクティスが、自分が死に行くと知っていたら不可能だっただろう。ストーリーはあなたの思うペースで進んでいくが、それが真の王のマントを羽織る準備のための全てであったのだ。だが、ノクティスを素晴らしい指導者にしているのは、彼が己の力を、鉄腕で権威をふるったりするからではない。真の王はいかにして自分の王国を救うかを、友人やルナフレーナから学んだ彼の教訓を気にかけていた。アーデンが二千年前に経験したすべてのことと同じように、彼は死ななければいけないというバハムートの啓示は残酷だ。とても残酷で、我々は六神とはどんな存在なのかとすら問わなければならない。だが、彼の父親は、ルナフレーナがそうしたように彼がそうしなければならないことを知っていた。これは運命に逆らうのではなく、運命を受け入れた初めてのファイナルファンタジーである。そしてこの受容により、すべての人々は平和を得るのだ。
振り返ると、全体のゲームが全く違って感じられる。レアモンスターをハントしようとする瞬間、人にランダムな写真を撮ること、友達とイオスでばかなことをすること、それらが突然、我々すべての人生のメタファーとなる。死と向かい、彼の全ての若さはプレイヤーの選択のたった一枚の写真の中に蒸着する。ノクティスのように、ぼんやり時間を過ごしてある日目覚めて、突然不思議に思うことは簡単だ。私の人生のこの十年、何が起きてたっけ? 存在とは突然たち現れ、中断に満ちて、継続性に欠けている。友は彼ら自身の旅に立ち、彼らが何をなしたか見出すために時間をとらない限り、幾度も、彼らが何を成してきたのか欠片も分からないだろう。良い運命、悪い運命、幸運、あなたがそれを何と呼ぼうと、そのカードはただ我が道を行くといったわけにはいかない。アーデンは彼の人生の変転によって狂わされ、それが彼の高貴な意図にも関わらず恐ろしいものとなった。ノクティスは彼が愛したものたちの記憶に力を得て、彼の不運を受け入れた。彼のヒロイズムは積極的なものではなく、受動的な選択だった。
私はノクティスが六神に中指をでっかく突き立ててアーデンをなんとかするための自分の道を見つけたとしても気にしないだろう。あるいは、FF15のシリーズで彼の仲間がノクティスとルナフレーナをあの世から救い出すこともまだ不可能ではない、彼らは助けられたいと思っているようには見えないけれど。しかしゲームの厳しい結果の中に、我々はこのファンタジーが真実、究極的(final)なものであると思い出すのである。
(小見出しのDewdrops at dawnとSorrow without solaceはサントラの曲名)
※真夜中クオリティなので誤訳してたらすみません