ネタバレされたくなーーーい!! という人に配慮し、ここに走り書きのメモを残します。
【感想メモ】
・「宣伝広告費をかけないこと自体が戦略なのでその手にまんまと乗ることはまこと癪である」という言説について、宣伝広告費をかけないことが興収に寄与する点など何ひとつないと思うので、もうちょっと素直に生きても良いのではないだろうかと思う。「俺たちはどう生きるか」が問われている。
・映画そのものが行先不明のミステリーツアーという試み。宮さんの最後の作品になるかもしれないという時点で、試みもなにもあったものじゃなかろうという話はあるように思う。まこと不謹慎な話ではあるが、遺品整理の終わった家の引き出しを何気なく開けたら、分厚い遺言らしきものが封筒に入れられた状態でそっと置かれていたのを発見した……とか、そういう感覚に近い。かなり奇妙な鑑賞体験といえる。
・映画冒頭「東映」のロゴ→暗転→フェードインで空襲警報。ああこれは第二次世界大戦中の話で、「旦那さま」云々の台詞から裕福な家の子の話なのだなと分かる仕掛け。冒頭からいきなり「空襲警報→第二次世界大戦」「主人公は裕福な家の子」「東京を離れる→あれは東京大空襲だったのか」と即座に文脈を汲み取るリテラシーを要求される。観客の教養をきちんと信頼してくれていて素直に嬉しいと感じた。客を知性ある他者としてきちんと扱ってくれている温かみがある。
・リテラシーや読解力を求める作品で数字は取れない。だから数字を求めるのであればリテラシーや読解力がなくても楽しめるものを作らねばならない。というのはある種の仕事を経験した作り手なら誰しも叩き込まれる基礎教育的事柄であるが、それは客を知性ある他者として扱わないこととイコールでもある。だからこそ「分かるよう説明しない」この映画の態度は実に血の通ったものだとぼくは思う。
・分かるように説明しない。分かるように作っていない。というかそもそも分かって欲しいという意図ありきで作られていない。だけれど動く絵で分からせる。理屈を超えて分からせる。そういう並々ならぬ気骨が映画に一本スッと筋として通っている。「上の世界と下の世界とは何なのか」「夏子が下の世界へ行ったのはなぜなのか」なんてことは当然説明などされず、観客にとって最低限知らねばならない情報であろう「あの子の正体が母ちゃんである」という事実も当然のごとく説明されない。作り手は客を知性ある他者として扱うが、そのかわり客の側までわざわざ降りて説明しない。つまりこの映画において作り手と観客は対等ではない。というか(吉野源三郎の名著から引いた)タイトルからして、作り手と観客は既に対等でないのである。観客である我々が作り手側から常になにかを問われ続けるという構造が、この作品には内在している。
・「お前は絵を動かす営みにどれだけ興味関心があるか」という感じで観る側の腕が問われるカットなりシーンが断続的に続くところがあって「教養が試されてる!」とビビりまくった。たとえば重たい荷物を持った人間の表現。大人ほど体重のない子どもが音を立てないよう廊下を這い進む動作。水分を含んだ土がぐにゃりと変形するときの動き。そうした世の中に存在する事物を見て、観察し、考え、ペン先を動かして表現する人間の営みそのものがあの映画には込められている。漫然と観ていて良いカットがほぼ存在しない。絶えず問われ続けるような感覚がある。この作品は「目の前の作品を情報として消費する」ような観客の態度を基本的に許容していないと個人的に思う。
・「予想を超えると人の心や感情は動く」「それがポンポン出来たらここまで苦労しねぇんですわ」というのは作り手にとって常に悩みの種である。そういった観点に立つと、この映画がとんでもない頻度で観客の予想を超えてくることに気づくはずだ。「下の世界」へ行ってからは特にそうだ。「想像力とは消費可能な情報ではない」というアツい想いと気骨を感じ「所詮データベース消費なんすわ」と斜に構えることはもうやめにしようとも思ったりした。観る者の予想を次々と超える画づくりにそう思わせるだけのエネルギーがあった、という言い方も可能だろう。
・「合理性」や「キャラ感」「らしさ」の枠からややはみ出た台詞(例:あの建物に近づいてはいけないと釘を刺された直後の台詞「はい、ごちそうさまでした」など)に、平凡な表現では到達し得ない「人間らしさ」が宿る、という学びがあった。生きたその人がその場で発する純然たる言葉としての台詞、という観点についてちょっと考えたりなど。
飽きたのでここで終わりです