>RT いやまじ……青江単騎は会場入って舞台セット見た段階でウワーーーって内心悲鳴上げましたもん 美術さん感謝……
三条や鶴さんならいざ知らず、青江が能舞台の鏡板を背に何かやるの!?その橋掛かりは何!?ってなって、
いざ内容見たらあれでしょう はげるかと思った!!!!!!
本当はもうちょい丁寧に裏取って書こうと思ってたんですけど、もうしらん美術さんに冥利につきるなんて言われてしまったら勢いでぶちこみます。
今回の流れってほんのり「一人複式夢幻能」かつ「一人五番立」っぽかったじゃないですか。
【複式夢幻能】
ざっくり言うと
→旅人が旅先で出会った人物から、土地ゆかりの人物Xに纏わる物語を聞く。
一通りを語ったところで、人物は旅人に「私こそそのXだ」と正体を明かし、中入り(退場)を挟んで、真の姿で現れる。Xは己の思いを舞って見せ、成仏する。
後半は、旅人の夢の中という態を取るので”夢幻”能。
旅をするのも青江、回想を物語るのも青江で、一度退場して正体を明かすのも青江(の中の彼女)なら、成仏=救済を得るのも青江。
すんごい。
【五番立】
→能の伝統的な演目分類かつプログラム構成「神・男・女・狂・鬼」の五種。
小狐幻影抄で「翁も神も武者も亡霊も 少女も狂女も鬼も獣も」って歌詞がこれにのっとってるって話あったじゃないですか。アレ。
・最初に橋の向こう=彼岸と見立てられるどこかから登場する青江は、刀剣男士という”神”として私たちに語り掛けますね。
・講談パートは”男”(武者)である物吉君の戦場のエピソードが語られる。
・子育てに纏わる微笑ましい挿話(親子愛→能における母の領分)から青江の葛藤が語られた後に「成仏せずに彷徨う”女”幽霊」の気配が現れて、
・惑乱した青江はくるくる身を翻し”狂”いの所作を見せる。(現代の”狂人”と違って「思い乱れる様」みたいな意)
・鬼そのものが出る訳ではないですが、”切能”と言われる力強い演目の如く、華やかな衣装を着替えた”付喪神”青江が刀を振るって『刀剣乱舞』の演舞を見せる。
これは今日気づいたんですが、『刀剣乱舞』で轟く太鼓のリズムが強調されたアレンジになってたのも、五番目物の特徴として挙げられる要素でぐわーー!!???ってなりました。
そして最後に、晴れやかな”祝言”まで添えて演目の〆という…。
なんていうんでしょうね。
「古典芸能に則っているからすごい」という話では全然ないんです。
そうではなくて、様式を整えて尊重されている芸能には、「ソレであるからこそ人々の心を動かしてきた」力みたいなものがあると思うんですよ。
「夢幻能」「五番立」でいうなら、”本当の姿”になった人物が誰かに思いの丈を打ち明けて救いを得る過程だとか、勇壮な物語に心震えたあとで情愛の物語に触れると余計に沁みる感じ、最後の最後にアップテンポなエンタメをぶつけたあと幸福な気持ちで現実に送り返すエンディング。
そういう様式が、ごく自然に「演劇・ミュージカル刀剣乱舞」の中でシンクロして尊重されてる感じを受けて、あのセットに堪らない心地になってました。
その舞台が朽ち果ててることで「誰もいなくなってしまったどこかでも、人は歌う」東京心覚思い出して瀕死になってたし……
そもそも細かいこと抜きにしても青江っていう男士自体にあの図が似合いすぎるし
それでいて実際の能舞台のような平面でなく複雑な段差があることで、腰掛けるにっかりさんの艶っぽさとか、苦しそうに最下手で座り込んだりする姿のちいささが苦しいほど映えてたし
あとあの布…………
幽霊画が映ってたと思ったら開演と同時に女幽霊がスルッと抜けていく演出は「そこにただあるだけだったはずのものが、意思を持つ何かだった」感でゾワッとした。
あそこの開幕一発で「うわやられた!」って思った。
歌合の篝火講談もそうでしたが、”演者”は厳然としてにっかりさん一人であっても美術・照明・音響が立派な助演として物語世界を作り上げてくれてる感じ、本当に胸いっぱいです。
見えるものも見えないものも、ぜんぶだいすきだ!!!!!!!