一夜明けて、昨日感じたものを言葉にしました。言葉では限界があるのですが。。
(登場人物12番を中心としたネタバレがあります)
#ムケイチョウコク #反転エンド
4月29日、【登場人物チケット】で参加しました。
演技は小学5年、学区のあるニュータウン的地域の歴史の劇をクラスで上演した時、「団地の居住権が当選して喜ぶ父親」役をやって以来のこと。
普段の生活や仕事でも、営業的文句を並べるとか感情を表に出すとかそういうことは全く得意ではなく、背伸びをして【登場人物チケット】を取りはしたものの「世界を壊さずに存在できるのか」という不安がずっと傍にありました。
開場前に外で待っている時間も緊張がすごかったのですが、時折通過する電車をぼんやり眺めながら(あそこの電車の通過音、優しくて好きです。劇中も絶妙なBGMになってくれていて)、
これまでの自分の生涯や、所属や、人間関係や、自分が今日まで連れて来たいろんなものをこのテラスに置いて、自分は何者にもなれる、今や自分は何者でもない、という感覚に少しずつなっていきました。緊張は相変わらずしているんですけど。
そうして役をもらって、裏の世界へ足を踏み入れて、番号の席に座って、パンフレットをそっと開く。
名前が入ってくる。
馴染みのない響きを少し転がして、なんとなく馴染んでくる。
名前を与えられるということ。
設定を読み込んで、ちょっと上滑りして、それを何度か繰り返して、閉じる。
目を上げると、薄暗いなか世界は静止していて、でも無関心な静止ではなくて、張り詰めた静止でもなくて、優しく待っている。
世界が、自分たちが来るのを待っている。
それからゆっくりと砂に沈んでいくように、それぞれのスピードで一人一人、丁寧に世界に入って行く。
裏の登場人物だけが味わえるのであろうこの静かな時間が、本当にすごくって、鳥肌が立って、吸い込む空気の温度が変わって、同時に、自分も一緒に世界に吸い込まれていくのを感じた。
世界が、世界全体が、自分が来るのを待ってくれているなんて、そんな体験できない。今思い出しても鳥肌がすごい。
あとはもう、とにかく世界の中で生きました。
裏側が普段暮らしている現実世界とはだいぶ異なる設定であることは、あまり関係がなかった。
どんな突飛な設定であろうと、世界の果てであろうと、目の前に人間がいさえするならば、同じように没入できるだろうと思いました。
ちゃんと存在できているか不安になる瞬間があっても、サラさんやKEIさんやエイトさんと目が合う度に、存在を肯定されているような気がして。目を合わせることは、互いの存在を肯定することなんだなあと、コロナ禍のイマーシブシアターでは特に感じています。
目が合う度に安心して、その度にさらに世界に沈み込んでいきました。
ヨギボーか、いやもう少しゆっくり、低反発のクッションか、というような、懐の広い心地良さ。
でもだからこそ、世界の時間が一時的に止まったり、歪みかけたりする瞬間は一気に不穏な気持ちになって、「現実」が違う世界に呑み込まれていくような、足場がゆらゆら揺れるような感覚になりました。
(本当の)現実世界を生きていても、時々どうしようもない不安が襲ってくる夜があったり、この世界で生きていることについて改めて混乱したりする朝があったり、目の前の人が急に遥か遠くに感じられるような瞬間があったりすると思うのですが、あのムーブメントの時間はあの「現実」世界にとってはそういう時間で、非現実的な演出や動きを超えて、一周回って怖いほどリアルなのです。
ずっと一緒にいたパートナーのリンさんとの関係も、とても温かいものでした。
世界が動き始めてすぐはお互いに半分リアルの「初対面」という関係を引きずっていたように思いますが、あの短時間でみるみる関係性が変わっていくのがわかりました。リンさんもそう思ってくれているといいなと思います。
IDの件では、リンさんにどうにかもらってもらえるよう、説得するための言葉を必死で「探して」いる自分がいました。
目の前のリンさんの顔を見ていたらなおさらそれが強まって、それはあの2時間弱の中で素の自分から一番遠ざかったかもしれない時間だったのだけれども、同時に探し当てた言葉はリアルの自分の人間関係と重ね合わせながら引き摺り出されたものでもあって、随分と不思議な感覚でした。
「あの人から貰う以外の方法はないのか」というリンさんから出てきた思いがけず冷静な提案には、ああこの人がパートナーで良かった、と思わされました。
違った温度で違った発想をするパートナーと一緒だから、二人でここまで逃げ延びて来られたんだよなあ…。
他の登場人物の方々も皆さん天才でした。
初演参加時も思ったけれど、参加者の年齢層が様々でなのもなんだか安心します。それほど話すわけではなくても、それぞれの味がしっかり出ていて。
ムケイチョウコクのイマーシブシアターに参加することと「普通の演劇を体験する」ことの違いが台本の有無以外にあるとしたら、この奇跡的な一期一会かもしれません。
それぞれの生活を生きる初対面の人たちが、この夜だけに集って、2時間だけ濃密な世界を共有することの尊さ。2時間が終わったら再びそれぞれの生活に戻っていく、もどかしいような寂しさ。
そして世界がつながる瞬間は、初演の時に「世界を行き来できる」傍観者として目撃した光景とはまた大きく違っていて、それはそれは大きな感動がありました。
向こう側の世界で生きていた、初めて見る顔たちが徐々に見えてくる瞬間。
違う世界の知らない人たちのはずなのに、ずっと近くにいたような、ずっと前から知っていたような。
自分たちが国を渡り歩いて探していたのは、もしかしたら本当はこの世界とこの人たちだったんじゃないか、とさえ思いました。
最初に世界に沈み込んでいった瞬間と、同じ種類の別の鳥肌が立ち、説明しようのない涙が流れました。
「反転」そのものが持つ巨大な力に圧倒されて、鼻水たらたら、情緒ぐちゃぐちゃになった自分にとどめを刺すかのように畳み掛けてきたのは、エンドロールの傍観者という存在です。
なんという美しい光景。と息を呑みました。
名前も知らない人たちが作り出す光景としてこれほど美しいものを、他に見たことがないかもしれません。
初演の感想で傍観者という存在を、私たちが知らず知らずに手を取り合って踊っている「世界の揺らぎ」と書きました。やっぱりそうなのです。
でもそうであると同時に、それはとても温かい揺らぎでした。
傍観者として生きた感覚を知っているからこそ、ずっと見ていたよ、君たちの存在を肯定しているよ、という無言のメッセージで空間が満ちているように感じて。
世界の登場人物として必死に生きた後に、あの最後の光景を椅子に座って目撃してしまったら、その感動は飽和した心ではとても抱えきれません。
傍観者でいたときには、登場人物たちを静かに信じ祝福していたけれど、登場人物側に傍観者がどう見えているのか、どういう気持ちで最後の傍観者を捉えているのか、まったくわからなかった。それがわかった。
それは「感謝」でした。
ひたすらに感謝の念が溢れて、言葉がありませんでした。
虚構と交じり合う現実の世界にも、同じように世界の揺らぎが存在しているならば、それはとても心強いことだなあと思いました。
ルウとリンという役は特に、常に根本的な存在の不安を抱えています。
ずっと落ち着ける居場所がなく、この国にも本来いてはならない人間で、名前や服装も周りと違っている。マイノリティの、周縁化された存在です。
その不安は、登場人物チケットで参加する素の自分自身の不安ともリンクしています。
だからこそなおさらに、酒場の人たちから肯定されていることが嬉しかった。世界の揺らぎから肯定されていると感じられることが嬉しかった。
だからあんなにも涙が出たのだと思います。
人を信じ存在を肯定すること、それがどれほど大切なことか、ルウとして生きて、身をもってわかりました。
それはこの物語がそうであると同時に、きっとムケイチョウコクという作り手が、深く人を信じ肯定してくれているから、作品や空間全体にそれが行き渡って満ちていることによるものです。
作品の作り手に対する信頼というのは、作品自体の面白さと同じくらい、受け手として個人的にとても大切にしていることなのですが、信じてもらえるからこそ信じられる。信じられるからこそ信じてもらえる。その往還を今回改めて感じました。
現実と虚構とが交じり合い、いつ反転するともしれない、不確かで不安定な世界の中で、物語の可能性はそこここにある。
私たちはこの物語を、何度だって書き換えていくことができる。
その希望の根底にあるのは、昨日流した涙の温かさなのだと思います。