すずめの戸締まり2周目、雑多な感想です。もやもやしてた部分も少し見え方が変わってきて、描き方は賛否あるにせよ、監督が託したい想い、やりたかったことは伝わってきた感じがしました。そしてなぜか、まだこの映画と格闘が続いています。
あまり月曜の朝に読むような内容じゃないしクソ長いのでやめたほうがいいですよw
以下、個別ツイートですでにつぶやいた内容と被る部分もありますが、順不同に雑多に。思いついた順に書いてるだけなので全然まとまってないです(たぶんあとで整理する)。わりと自分メモとして書いているのでそこはご容赦下さい。
<参考>
1周目感想(『ほしのこえ』から一貫している「喪失とその先へ」について):https://fse.tw/9R7roU3Y
1周目感想(震災は「閉じ師」が防げなかったせいなのか):https://fse.tw/raZggH00
二次創作『今日と明日』を読んで思った幼いすずめの事:https://fse.tw/ZkxZUw4K
・神戸パートがやっぱり好きです。ルミさんの神戸弁の温かさ、はぁばぁの店内の港モチーフ。コミカルパートもキレッキレのテンポとネタで(ハッピーセットとか子守シーンとかポテサラに思わず驚きの声が出る草太とか)、とにかく楽しい。ジェットコースターや大観覧車での高低差があるアクションはスペクタクルとしてもめちゃくちゃ秀逸で(まさにジェットコースタームービー)、後半の戦いがわりと観念的で絵的に地味めな分、アクションとしての山場は随一だと思う。六甲・摩耶から見える100万ドルの夜景はなんとなく復興の象徴だと個人的に思ってるので、すずめが遊園地でみみずと戦う場面の背景に常に神戸の街全体の夜景が映ってるのを見ると本当に「あの街を守ってくれ、あの光を二度と消さないでくれ」という思いにさせられて、めちゃくちゃすずめを応援してしまう仕掛けになっている。あの廃墟の向こうに見えた一面の光の海、それがどこか神戸ルミナリエの光を思い出させて、そしてたぶんルミナリエから名前を取ったであろうルミさんのおおらかなあったかさに結びつく。ルミさんの年齢はわからないけど、1995年より前に生まれているかもしれない(あの廃遊園地に行っていたことも考えると)。災厄の「その先」を強くしなやかに生き抜いてきた神戸の人達への想い。「東日本大震災ばかり描いて阪神・淡路大震災を全然取り上げてない」という意見も見かけたんだけど、自分はものすごく神戸をちゃんと意識して、神戸に敬意を払った映画になっているなと感じました。自分自身は直接神戸で被災したわけではないので、それは部外者の勝手でおこがましい思い込みかもしれないけど、神戸の震災は決して他人事ではなかったと思っている人間の感想です。
・震災の描き方やタイミングに賛否が出るのは当然だと思う。12年を短いと思う人も、長いと思う人もいるし、エンタメと両立させるのは至難の業だ。ただこの作品は震災を単なるギミックや一要素ではなくど真ん中にあえて据えて、監督なりに真摯にそこに向き合った結果というのは伝わってきた。そして、初期作品からの一貫したテーマである「喪失とそこから先へ進んでいくこと」、特に「その先の世界を、幸せに、生きていくべきだ」という強いメッセージをあらためて感じている。
・センシティブなトピックを老若男女含めた多くの人に届けるためか、わりとこれまで「気持ち悪い」と言われがちだった表現を一切排して、ものすごく慎重に慎重に描いているという印象は受けました。もちろんたとえば脚に対するフェティシズムのようなものは健在ではあるのだけど男性側を「椅子」にすることで毒気を抜いて、いわゆる「男性向け青春映画」特有の文法を完全に捨ててきたなあという感じ(自分はかつての作風がむしろ結構好きではあるのだけど)。
・ダイジン、フェイクヴィランから実は……みたいな後半で株を上げる描き方(芹澤もだけど)巧いですね。幼い神様。結局誰かの犠牲は避けられないという現実でもある。わりと前半にひどいことをたくさんしてるので、それでプロット的にはバランスを取ってはいて、観客がストレスをためないようにはなってるんだけど。すずめは環さんの子になれたけど、ダイジンはすずめの子にはなれなかった…。そんな、登場人物の不幸をただ一人引き受ける存在としての要石。あとダイジン、気まぐれなところがちょっと『彼女と彼女の猫』(自主制作のほう)のチョビっぽさがあるけど(いや、むしろミミかな)、チョビの中身は草太に近い。チョビは可愛らしい見た目なのに中身が大人という、椅子バージョン草太のルーツのような気もする。
・羊朗のベッドの脇に骨壺みたいな風呂敷包みみたいな紫の物体があるの、あれは何なんだ……。たとえば草太の生みの親(育ての親が羊朗らしいので、死別している可能性がある)の骨壺なのだろうか。
・環さんのリアル。環さんとすずめが本心を言い合う場面、なんというか、どちらの言い分もすごくわかるのは、自分がもう若くないということなのだろう(知ってた)。特に「私の人生返してよ」(うろ覚え)……とても重い台詞なのだけど、まあ程度の差こそあれ、それなりの場数を踏んでくると「もしこうだったらきっと今頃別の人生が」みたいなことが見えてきてしまうところはある(特に彼女にとっての本来のIFは、「すずめを引き取ってなかったら」のように見えて実は「震災が起こっていなかったら」がその本質だろうから、余計にやるせない)。そして愛が重すぎて困る側の気持ちもわかるし、重くなってしまう側の気持ちもわかる。互いにとってある種の「家族の呪い」でもあって、ただ、それを直視しつつも「それだけじゃないんよ」というところに救いを見た気がした。自分自身も含めたぶん誰しも、家族によって縛られること、何らかの不自由は多かれ少なかれあって、時には恨み言を言ったり、不遇を家族のせいにすることもある。そんな負の感情を決して否定しない、抑圧しようとしないであえて直視する姿勢。でも「それだけじゃない」。そう思えるようでありたいなあと思った。あと稔はもっとがんばってアタックせんねーw
・「人生返してよ」は、家族に対してだけでなく、震災も含めてもう日本がゆっくりと手詰まりになっていっている状況、失われた○年(○に入る数字はただ増えていくばかりだ)に対するある世代の想いの総体のようにも聞こえた。
・芹澤はきっと「被災してない側」の代表で、だから高台から見た景色がきれいだと言った時の脳天気さ、すずめとの断絶の深さは永遠に自分にもついて回るのだろうなと思った。でも同時に芹澤のキャラクター性は、「被災してない側」、そして今後増えていく「歴史の教科書でしか知らない側」であっても、そこにたとえ断絶があっても共に支え合って生きていけるということを示してくれている気がした。こちら側の甘えかもしれないけど。「忘れないこと」ももちろん大事だけど、「その先の世界を生きていくこと」が本作のテーマなのだから。そしてまた芹澤はこの映画後半にとっての「救い」でもある。彼と彼のポンコツ車と彼の不器用なプレイリストがなかったら、後半の旅路はひたすら重苦しいものになっただろうから。それにしても芹澤と草太が同じ大学だとしたら、芹澤はともかく、神道系っぽい草太が立教大学だとしたらちょっと面白い(まあお茶の水から一本だし)。立大、立教学院も関東大震災でかなり被災してるみたいですね。
・自分はあまり人の心がないので草太とすずめの恋愛自体はあまり興味がないのだけど(すいません)、前作2つが明確に「恋愛映画」だったのに対して、今回主軸を恋愛ではないところに持ってきたなという気がした。前作2作は恋愛が至上命題であって、すべてはそのために配置されていた。でも本作では恋愛は手段であって目的ではない。すずめと草太、どちらも震災で大きな喪失を経験した者同士が「その後の世界」を生きていくにあたってのよりどころが、彼らにとっては恋愛(というかむしろ同志であり支えに近いような気もする)であったというだけだ。生も死も運次第と思っていた彼ら、要石になることもやむなしと思っていた彼らに「生きたい」という強烈な意思を持たせる力、「その後の世界」を幸せに生きていくのが生き残った者の責務であると思わせてくれる力。それは人によっては恋愛であり、あるいは友情、家族愛、人生の目標、趣味、日々のささやかな楽しみ、なんだっていいと思う。その描き方が、これまでの作品とは違うなと感じた。だから主人公二人以外の登場人物の幸せをも強く願いたくなる、そんな作品だ。
・鍵穴はその廃墟にかつてあったはずの声を思い浮かべることで浮き上がるというような説明があったけど、自分は昔からわりと「かつてそこにあった風景」を幻視したくなる傾向があって(まあ廃墟とかは怖いので全然行きませんがw あと「視える」とかそういうオカルト方面では全然なくて「脳内で勝手に想像している」だけです)、ちょっと刺さった。過去の新海監督作品から妄想するその手の要素の話を意味不明な文脈で書いたことがあって(
https://note.com/alltale2037/n/n7ea06974e50f
ただし、監督は一切そういう発言はされてないのでこれは完全に自分が勝手に抱いている妄想です)、たとえば自分は監督の故郷である小海町に行くと、そこに1200年前に突如噴火により出現した巨大な湖(実在した湖で、それが町名や周辺の地名の由来である。監督の本名である「新津」も当時の風景の名残なのだろうか)とその底に沈んだ町を、信州の山の中に現れた港町(新しい津)の暮らしを、どうしても夢想してしまう。糸守湖やアガルタ、『天気の子』の「東京のあの辺はさ、もともとは海だったんだよ」という言葉にそんな幻想を見いだしてしまう。ただそれは自分の妄想だと思っていた。それが今回、わりと直截的な形で似たようなイメージが提示されてちょっと混乱したというのが正直なところだ。湖云々は自分の妄想だろう。でもそこにかつての暮らしを夢想するというのは、そう的外れでもなかったのかもしれないなと思った。
・「閉じ師」が地震を防ぐ、というスキームに対するもやもやは、まだやはり残っている。特に実際の震災の陰に閉じ師という存在を前提としたくない気持ちは今でもある。ただ、自分は「震災は閉じ師が防げなかったから起きた」という因果関係をそこに仮定するのではなく、「地震は防ぐことはできない。これは人類にはどうしようもない。ただ、その日に備えて被害を最小限に食い止めようとする人類の不断の営みの総体の象徴が閉じ師である」、という解釈を行うことで、少しずつ消化しようとしている。これにはsshさん、イサイハクさん、takeさん、TMCさんとの議論や彼らの二次創作を経て色々考えさせられたところが大きい。ありがとうございます。災害を「起きなかったことにする」『君の名は。』も、すごく気持ちはわかるのだけれど、ようやくその先に踏み出す話という気がした。
・もう一つ、自分は新海監督作品は昔から好きなのだけど、時々出てくるオカルティック成分が本来はあまりタイプではなくて、そこはまだ少しもやもやしている(だから現実的な作品のほうが自分の中の評価が高い)。これは完全に好みの問題で、これまでの作品は完全にフィクション、ファンタジーとして楽しんでいたし、好みかそうでないかという話で済んでいたのだけど、今回現実の出来事に強くリンクする物語としてそこにオカルト成分が入ってきてしまうと、「現実」の受容の仕方として少し躊躇してしまう自分がいる。ただ、これはきっと現代の説話であり一種の心理療法のようなものであって、オカルティックな部分はあくまで比喩として解釈することで自分は何か救いのようなものを得られるのかなあという気はしている。たとえばみみずをプレートの歪みの比喩として、閉じ師を人類の地震に対する不断の営みの比喩として。別にもやもやしている作品を無理に好きになる必要はまったくないのはその通りなのだけど、それでも、この作品にもやもやしつつも同時に何か救われたような気がしたのは確かだからだ。
……っていう文章をグダグダ書いていたらほんとにそのタイミングでsshさんがまた(こっちが一言も発してないのに)アンサーのような発言をされて、いつもながらあんまり面白いから貼っておきますw 神かな。ありがとうございますw
https://twitter.com/ssh_hull/status/1594397219184029696
「——「物語」の話をしているのか「物語の受容」の話をしているのかは明確に区別しないといけない」
「——むしろ「物語」自体を否定するほうが簡単なんですが、あの作品にはそれをさせないだけの力があって」
ああ、なんかまたわかった気がしましたが、なぜ自分がもやもやしてるのかはこの物語の受容の仕方を試行錯誤してるのであって、もやもやしてもなおそこに向き合って受容したくさせる何かがこの物語にあるんだろうな。『君の名は。』『天気の子』のときは「やっぱり新海監督作品だから好きだけど、何かもやもやするなー」で済ませていたところを、何か済ませない力。それは「救われたい」ということなのかもしれない。物語を否定するのは確かに簡単だけど、本作ではそこに現実という文脈が入り込んでいるからこそ「見なかったこと」にはできないし、否定して自分なりの物語を紡ぎ出せるほど自分は強くはない。結局易きに流れるような形ではあるけれど、何とか自分の気持ちや経験と整合する形で、一人称としてこの物語を受容して、程度の差こそあれ救われたいのかなという気はした。救われるなんて何を大げさに、甘っちょろいことを言っているんだと、本当に大変な経験をされた方々に言われそうだけれど。その程度の話かもしれないけど。本当になんでこんなに悩んで、いまだ自分の中で大絶賛に至れていないこの作品と格闘してるんだって話だけど。
・そして、初見時に自分がすごく動揺したのも、このあたりにも何か秘密があるのかもしれない。この映画は一人称で体感させる力が強い。だからこそ、自分の行動原理や解釈と相容れない何かが提示されたときに、うまく同調できずに混乱したのかもしれない。
・オカルティック成分が苦手だからこそ、その部分の解釈は逃げがちな自分がいるなあと思う。みみずや閉じ師はまあ上記のような比喩的な解釈をしたけれど、じゃああの歩く椅子とか、鍵とか、扉や常世という概念とか、ダイジンの存在とか、まあ草太自身とか、もちろん民俗学的モチーフとして解釈することはできるのだろうけど、そういうのは得意な方にお任せすることにして(そういうのができる人すごいと思う)、自分の中ではまあ、なんか知らんけどそういう超自然的な何かがあるってことなんですね、以上、と完全に思考停止してしまっている。もちろん、無理やりSF的にロジカルな解釈を行うのも野暮だと思っている。だから逆に自分はこの映画のきわめて現実的な部分、たとえば環さんや芹澤や稔やルミさんの生活の手触りや日々の想い、彼らの生活する世界のディテール、あの世界の街並みや鉄道網やSNSやコンビニの解像度、そういった方向に意識が向きがちなのだなと再認識した。草太の活動は、理念としてはわかるし、比喩的なレイヤーでも理解できるようになってきたが、やはり個人の活動という粒度ではまだ納得いく形で解釈できていない。そこに新たな物語を生み出せればすっきりするのだろうけど、自分の貧弱な想像力ではそれはとても難しい芸当だ(だから二次創作の形で易々とそれをやってのけている方々が本当にうらやましい)。だからずっと自分の中で、草太の解像度は環さんや芹澤に比べて捉えどころのない人物として粗いままだ。この思考停止は『君の名は。』『天気の子』でも起こっていた現象で、自分はやっぱり『彼女と彼女の猫』や『秒速』のほうが好きかもしれない、と思う。
・それでも、2周目になっても、本当にたくさんの記憶や感情を思い出した。幸いにも大きな喪失を経験していない自分は本当にありがたいことだけど、それでも自分の人生では忘れられない体験だったのは確かだ。そしてあの日だけじゃなくて、日常のささやかな幸せや悲しみや楽しさやつらさが、東京の風景とともにフラッシュバックした。少なくともあの日の自分の感情や記憶を、この機会に書き留めておきたい、と思った。たとえばあの日パラパラと小雨が一瞬降ったこととか。公開するつもりはないし、自己満足でしかないけど、そういうプロセスが自分には必要なのかもな、と思った。実は毎年、書いておこうと思いつつ、結局そのままになっていた。背中を押してくれたこの映画の力はすごいと思う。
・この先はそんな記述のひとつだ。完全に震災の時の自分語りだし不快に思う方もいるだろうからスルーしてくれてかまわない。幼いすずめが、お母さんの居場所を「おねえさん」に必死に尋ねるところ。あの「噛み合わない」会話。繰り返される必死の訴え。あの場面で強烈に思い出したことがあった。地震の翌日、仕事で話をした見ず知らずのお客様に、何か(仕事関係で)ご質問はありますかとお聞きした際に返ってきたのが、その時に話していた内容とはまったく関係ない「質問」だった。それはすずめの問いにどこか似ていた。噛み合わない質問に頭の中が真っ白になって、その後何と答えたのか覚えていない。どうせ、しょうもないことしか言えなかったのだろうなと思う。なぜまったく脈絡もなくあの問いが、たまたま出会っただけの自分に投げかけられたのか、そして自分はどう答えれば良かったのか、今も答えは出ない。もしかするとその方も、ただ混乱していて、とにかく誰かに聞いて欲しくてたまたま会った自分に話をしただけなのかもしれない。ただ、もうちょっと何か気の利いた、少しでも安心させるようなことを言えなかったものだろうか、と思う。当時3大キャリアは不通だったし、情報も錯綜していた。だからその後きっと、杞憂であったことがわかって安心されたに違いない、そうであってほしい、とただそれだけを今でも思う。
そしてこういう心の底にずっと残っていた感情をすくい上げてくれたこの映画には感謝したいと思った。
・他にもいろいろ思い出したけどいちいちここには書かない。最後にひとつだけ明るい話題で締めたい。あの日、都心で夜を明かす帰宅難民の人達向けに神戸屋さんがパンを無料だか激安だかで配ってくれていたことは忘れないでいたい。神戸屋のパンは前から好きだったけど、一生神戸屋についていこうと思った。神戸屋めっちゃすごい。もうこの店舗は東京の風景からなくなってしまったけれど、ありがとうを言いたい。