私なりのVtuberについての考え方のようなものです
あくまでこんな考えもあるのだと言う程度に捉えてくだされば幸いでございます
とある二人のVtuberが、このツイートを綴ろうと思ったきっかけであると記しておきます
前置きとして、私はバーチャルユーチューバーというコンテンツが大好きです
今までにはなかなか無かったようなコンテンツで、私としては気がつけばかなり深くハマっていたというところでした。でしたというと過去形のようですが、これは言葉の綾というもので今も楽しく拝見させていただいております
であらばなぜ、このような所謂「お気持ち」なツイートを綴っているのか
ただ単に「自分はこう思っている」ということを発信したいと思ったのも確かにございますが、ツイートの◯部分の通り、大きな理由として”とある二人のバーチャルユーチューバー”の存在があります。それがどうしても、私の中で蟠りとなって離れないのです
私にとってバーチャルユーチューバーとは、心としてはわかっていれど、しかし◯◯という名の個人であるという認識があります。虚構と現実の区別が付いていないとでも言われてしまいそうなことではありますが、しかし過去から現在に至るまで人々は娯楽にのめり込み、その中の物語という娯楽の登場人物をまるで存在するかのように愛してきたではありませんか。それは決して大昔の話でもなく、例えばボクシング漫画の登場人物の葬儀が開かれたことすらあるのですから
であるならば、バーチャルユーチューバーにもそのような考えを抱くことを私は間違いではないと考えます。どうであれ、〇〇というバーチャルユーチューバーはどこまでいっても〇〇であると、そういうふうに考えているのが私なりの考えの基本のところにあります
華々しい界隈ではありますが、悲しいことに明るいことばかりではありません。常に明るい界隈ならばと何度も何度も思ったものです
とある四人が、大きな問題に巻き込まれたことがありました。私は少し遠巻きに、しかし彼ら彼女らを好いた身として心配しながら見ていました。結果として、なんとも歪な形に収まってしまったその問題は、これもまた私の中の蟠りを構成するものであると言えるでしょう
けれど、そうして離れていってしまった四人がとある場所で声を発した事がありました。そのときのTwitterの盛り上がりようは今でも覚えています。その盛り上がりで、うまく状況が飲み込めていなかった私もどういう事が起こっているかの理解が出来るほどです
しかし、果たして私がそれを納得できたかと言えば否です。私の中の彼ら彼女らは”彼ら彼女ら”でしかなかったから、「おかえり」というように迎え入れることに違和感を拭いきれなかったのです
悲しいことは身近にでも起こりました。とても応援していた二人が、離れていってしまったことがあります。まだ私の記憶の中に鮮明に残るそれは、消し去りたくても消し去れない出来事です
どう受け止めよう。どうこれから過ごしていこう。大袈裟なようですが、しかしそう深く考えてしまうほどには衝撃的な出来事で、私はしばらく不安な日々を過ごしていました。同じファンの方々も落ち着かないようで、あのときはまるで針の筵に座っているかのような気分だったと、恐らく私以外にも思う者はいるでしょう
けれどそれからそこまで日も立たず、私にとって聞き覚えのある声をした”とある二人”がこの界隈に現れました。私のよく知る二人と同じことが好きで、私のよく知る二人が言っていたことを言うような”とある二人”が
その二人は、私のよく知る二人のうち片方が以前関わったところで行われたイベントに招かれるのだと大々的に宣伝をしていました。イベントの主催や彼女ら二人のツイートには、「ありがとう」や「おかえり」という文がいくつもいくつもありました。「はじめまして。どこかで会ったような気がします」などと、白々しい言葉もありました
あまり使いたくない表現ではありますが、”骸を弄ぶ”というのがこれほどに似合うこともないでしょう。離れていってしまった二人のことをそのまま自分のこととして語り、それを肯定する者たちで自らを固め、去る者など知ったことでもないように。そうして古巣には後ろ足で砂をかけ、果たしてこれを歓迎する者を素直な目で見ることができないのは私がおかしいだけなのでしょうか?
”私のよく知る二人”が先に挙げたように〇〇という個人ならば、”とある二人”も個人であり認めるべきだ。と言う考えも、確かに間違いではないのでしょう
けれど私が、私達が応援しているのはバーチャルユーチューバーなのです。決して声優ではない
故にこそ、この行為はまるで過去を殺しているように私の目に映ってしまうのです
少々傲慢な物言いではありますが、しかし”私のよく知る二人”は決して二人だけでそこに立っていたのではなく、多くの人たちと共にそこにいたのです。そうして築き上げてきたものを、いけしゃあしゃあとすべて自らの実力であるとでも言うように振る舞った行為は、この物言い以上に傲慢であり欺瞞だと思えてなりません
そうして、離れていってしまったのは”二人”だけではないのです
私のよく知る二人を応援していた多くのファンのうち、これらについていけず界隈そのものから離れてしまうような者さえいました。可愛らしい絵を描く方も、素敵な文章をしたためる方も、素晴らしい動画を作りあげる方も
”二人”やそれを追う者たちにとっては、それは些細な数字の変化にしか過ぎないのかもしれません。実際、そうであると言われれば否定することは感情論に他ならない。けれど、そんなことがまかり通る様など私は見たくありません。なにより、私達が愛したバーチャルユーチューバーという文化が、このようなロンダリングじみたことの許される世界になってほしくないのです。スケールの大きな話と笑う者もいるでしょう。しかし、前例が生まれればそれに則ってしまう者は必ず存在するのです。存在してしまうのです
けれど何故でしょう、私は二人を憎めど、しかし過去も確かに存在したのだと、そうして完全に恨みきれていないのです。むしろ、こんな歪な状態がすべて解消されてふたたび……と、そう思ってしまうときだってあります
自分でも、矛盾に満ちて都合の良い思考であるとは思います。けれど、けれどそうして考えるほどに『存在した』のです。仮想という世界の中に、しかし確実に存在し、そうしてここまで夢中になってしまっているのです
理想論と言われればそこまでですが、それでも叶ってほしい自分がいます
でなければ、離れていってしまった人たちだって救われないような気がするじゃありませんか。憎んで憎んで憎み続けて、そうして眼中にすら置きたくないと今まですら捨て去ってしまったら、まるで過去にも嘘を付くようではありませんか
バーチャルユーチューバー〇〇とは、即ち〇〇という個人である。要約すれば、これが私のバーチャルユーチューバーへの考え方です。賛同するものがいるかどうかなどわかりません。認められないと言う者だって少なくないでしょう。けれどどうか、もしこの文章を読んでくださった方がいたのなら、そしてあなたがバーチャルユーチューバーという始まったばかりの文化を少しでも好きでいるのなら、ほんの機会だと思ってこの文化について考えてみてください
ここまで読んでくださった方、貴重な時間をこの文章を読むことに使っていただきありがとうございました
離れていってしまった人たちと再び出会えることを祈りつつ、この文章を締めくくらせていただきます