「こうして孤独はたまに優しい」
両片思いのイブルイSS
数年後にルイ先輩が一匹で満月の夜の海を見に行く話
さく、さく、と砂を蹴る足元から音が鳴る。
迷いなく一歩ずつ進む両足は、行き先もないのに止まらずに動き続ける。まだ春先の夜の海岸は、誰の気配もなくただ静かだった。
ところどころに流れ着いた流木や空き瓶を見やりながら、満月の光だけを頼りに歩く。
通りかかった誰かが見たら入水でもしかねないと思われるかもな、と考えて足を止める。目の前に広がる濃紺の海は深夜にふさわしくおだやかに凪いでいて、いくつもの細かな波に黄金色の光を泳がせている。
冷えた両手をポケットに入れると車のキーが小さく音を立てた。
二十歳になってすぐ、車の免許を取った。
本当はもっと早くに取得するつもりでいたけれど、会社の新しい事業の立ち上げやらで時間が取れずにいたのだった。
免許を取ったといっても自分で運転することは日常生活ではほとんどない。ほんの諸用だと自分で運転して行こうとしても、わざわざ運転手付きで送迎を用意されてしまうのだ(右足のことに加えて、父様に起きたことを考えれば、まわりの気遣いを無碍にはできなかった)。
こうしてこっそり──草食獣が一匹で、しかもこんな深夜に──出てきたことも、きっとあとで古株の執事からこっぴどく叱られることになるに違いない。
もしかしたらエンジンの音でもうバレていて、探し回られているかもと心配しかけたが、キーの反対側に入れたスマートフォンは何の知らせも寄越さないので、いまのところは大丈夫だろう。
海面には見事に月の道があらわれている。波音に合わせて、反射する月の光が踊るように揺らめくのが綺麗だ。
小瓶の中に閉じ込めたそれが、ささやかに輝いてみせるのを思い出す。“遺された”というにはあまりに微かな、それでいて確かな証だった。それしかなかったけれど、それだけあれば十分な気もしてくるのだから不思議だった。
いつだかに車内でした会話を思い出す。
「そのうち免許を取る気はあるのか?」からはじまって、「運転の仕方はそいつの本性が出る」だとか、そんな他愛ない流れだったと思う。
フリーはスピード狂で困るだの、ほかの連中はこうだのと苦笑いする横顔に「お前の運転は、バカが付くくらい丁寧だな」と言ったはずだ。
ほんの一瞬、面食らった顔をしたかと思うと、「『シシ組のボスが交通事故で死んだ』なんてことになったら嫌でしょう」という返事を聞いたときには、いつもの余裕のある表情に戻っていた。
そのあと自分がなんと返したか思い出せない。きっと「そうだな」とか「気を付けろよ」とか、たいして意味のない返事をしたのだろう。
「『いつもはもっと適当に走らせてる』んだろう」と、すでに聞き知っていたことを言い返してやろうと思っていたのに。一瞬見えたその表情に、とっさに飲み込んでしまった言葉は行き場をなくして消えてしまった。
ざざ、と波の音がわずかに大きくなる。風が出てきたせいだった。
左足の指先に紛れ込んだ砂の感触がある。“右足”もおそらく砂まみれだろう、帰ったらすぐに手入れをしなくてはならない。ぼんやりと考えながら、波打ち際から足音を立てて一歩一歩遠ざかる。
あのとき。
あのとき、自分は本当は何を聞きたかったのだろう。どんな答えが返ってくることを望んでいたのだろう。
一瞬のためらいにも見えた表情は、鋭い牙の並ぶ口の奥にどんな言葉を隠したのだろう。
どうすることもできずに受け入れていた目に見えない線引きを、越えようとしていたら結末は違うものになっていたのだろうか。
もし、特別であったのなら、そしてその特別の意味するところを知り得ていたら。
自惚れではなかったと信じたい。ただお互いのあいだに、何かが起きてしまうことを恐れながら望みもし、同じくらいに避けてもいた。関係性の変質は必ずしもいい結果を連れてくるとは限らない。しかしもうそれを確認するすべもない。
後ろのポケットから封の切られていない小さな紙箱を取り出して、コンクリートの階段に座る。
箱から出した一本を口に挟んで、煙草と一緒に買った安物のライターで火をつける。
煙を飲むのは久しぶりだった。潮風にもてあそばれ夜空に吸い込まれるように流れてゆく白い煙を眺める。この匂いに包まれるのは、あの夜以来だった。
いま、もし隣にいたら何を話すだろう。ほのかに笑いながら煙を吐き出す仕草や、大きな手のひらや目線の上のほうにある山脈のような背中を思い描いてみる。
想像しているそれらが、きちんとあのときのまま同じ形を保てているかどうかもわからない。正解はもうこの世には用意されていない。
一度くらい、その両腕を欲しがってみせればよかった。抱きしめられたらどんな心地がするのかも、知らなかった。
いきなりそんな要求をされて、ためらいがちに見えない腕で必死に抱きしめてこようとする姿を想像したら、何だかおかしかった。あいつはそういう男だった。
流れてきた薄い雲に月の光が弱まる。
縮んだ煙草を消して元の箱に無理やり押し込み、軽く砂を払いながら立ち上がる。
水平線の向こう側へ誘う光の道はいつの間にか消えてしまっていた。「心配せずともあれを渡る気はないよ」と、心の中で返事をしてみる。
何度かそっと体を撫でていった風が、ほんのりと暖かかった気がした。
end.