芹澤の本のコロナの描写ですが、読んだ時、映画本編で日記帳の具体的な日付を見た時とまったく同じ気持ちになりました。おお、ここまで描くんだ…っていう。
監督がスペースで語っておられたようですが、あの描写はこの作品世界が僕らの世界と地続きである感覚を与えることを目的としているのかなと。そうしたいという意図はよくわかるし、現実世界と地続き感のあるフィクションは元々好きなほうなので、そのチャレンジはすごいと思います。実際、新幹線の車内でマスクをしている描写は自分は評価してます。ただやはり現在進行形の話であって自分自身も社会全体もいまだに折り合いをつけられていないので、ものすごく慎重にやらないと「コロナの扱いが雑なんだよ」になる危険があり、こういう限定の掌編で扱うのが限界かなあという気はしました。影響を受けた人の多さ、各人のスタンスの違いとかまで考え出すと震災を遥かに凌駕する規模と複雑さを持った事象なので…。というか時事ネタ一般(特に、正解がないトピック)をフィクションで扱う際の難しさでもあるんですかね…。
五輪の描き方とかコロナ以外でもやや思想を感じるところはあって、自分の五輪のイメージはわりとこの小説に近かったので個人的には全然いいんですが、これは映画でそのまま描けないだろうなあ……とか思ったり。
で、コロナがミミズのせいである、という受け取り方は自分はしませんでした。いくらあの世界設定でもそれはありえないだろう、という変な先入観によるものかもですが……。
高熱を出した芹澤に「夏風邪だ」「俺には分かる」と言い切った草太の思わせぶりな描写も、別に閉じ師の能力で陽性判定できるとかそういうわけでは一切なくて、単に瀕死の芹澤をとにかく安心させるための草太の気遣いであったり、また親しい人間が病気になった時の「こいつがコロナなんかにかかるわけがない」「すぐに良くなる」と根拠なくそう信じたくなる気持ちであったり、そういった感情の発露なんじゃないかなと勝手に思いました。すぐに熱が引いたのも草太に症状が出なかったのも「たまたま」であってミミズや閉じ師との因果関係はなく(教育実習生はワクチン接種が強く求められるだろうから芹澤も草太も無症状や軽症ということは十分にありうる)、でも芹澤がそこに魔法のようなものを感じてしまうのは何にでも物語を見いだそうとする人間の性かもしれないし、彼がそう感じるのはそれはそれで良いと思ってます。そもそも芹澤が実際のところコロナだったのか夏風邪だったのかも不明です。ただ、そうだとすると草太のやってることが危なすぎるのですが、逆に自分はそれが草太の危険を顧みない友情を表すエピソードなのだろうと受け取りました。
監督の意図の本当のところはわかりません。裏設定があるのかもしれない(だとしたら個人的にはちょっと嫌かも)。ただ自分としては、そこには一切の魔法も因果関係もなく、ただの発熱したひとりの大学生とそれを看病したクラスメイト、そして科学的には何の根拠もないけどだからこそ彼らの厚い友誼と信頼関係を感じさせるような会話がそこにあった、そういう方向で解釈しました。
(結局閉じ師という存在をまだうまく解釈できてない話の続きのような気もする)
大学や飲食店や夜のお店や医療機関におけるコロナの描写については、自分はあまりに「現状」を知りません。想像力も足りていません。だからあの掌編の描写を見ても、そういうものなのか、と思ってわかった気になってしまいかねない程度の浅はかな知識しかな持ててない(描写自体にちょっとある種の色がついていたというのもあるけど)。もし当事者の方々の認識との間に決して埋まらない断絶があるのだとしたら、それこそがまさに高台の景色を「綺麗」と称した芹澤と鈴芽の間にある断絶と同じものなのだろうと思います。ことさらこういう話題に関しては、常に「自分が芹澤の側である」ことを意識して、想像力を働かせていったり、少しでも現状を知ろうと努力するしかないのだろうな。何であれ無知はいけない。
あと「寂しい時なんてない」という言葉に込められた意味を、芹澤に教えられるまで自分は気づかなかった。自分だったらきっとまったく同様にただ「すげえ」と思って、そして寝落ちしてブロックされるだろう。いや、それ以前にマッチングアプリからそんな会話に辿り着くことすら無理だろう。そういう、自分の人生では絶対に起こりえないタイプの気づきを与えてくれたこの掌編に大変感謝しています……