シャザムの吹替版観てきました。「上等な料理に蜂蜜をブチまけるがごとき行為」とまではいかなくとも「上等な料理に蜂が混入してた」くらいになってしまっていた。リンク先でネタバレ込みでまとめてます
字幕なし原音版>字幕版>吹替版と映画「シャザム!」を3回鑑賞した上で、吹替版についての感想を述べます。ふせったーを使っている以上、ネタバレ満載です
映画そのものについては大変満足しているけど、吹替版の演出について色々と聞いたので自分の目と耳で確かめるべく鑑賞してきました。
ストレートに言うと、これが作品を尊重している吹替と言われたら失笑するレベルの演出でしたが、翻訳・吹替演出・吹替演出補、そして演者のそれぞれの仕事が組み合わさった結果だろうから、誰がどう悪いという話はしません。
また吹替版と字幕版の比較していると思われるのも困る。字幕版には字幕版の問題があるけど、あくまで原音と吹替の比較で記述します。
とりあえず特におかしいと思ったのが、原音に無い余計なガヤ。
・ビリーがマリリンからはぐれる回想シーンで、「離れるな」「わかんなくなっちゃうよ」という原音に無い声が入ってる。
・フレディが食堂で飛行能力と透明化能力の話をするシーン、「なにあいつ一人で喚いてるんだ」という声が入ってる
上記の二つ、特に前者はシリアスな雰囲気を台無しにするもので、画面左下にひな壇タレントの顔が映るかと思った。というより、そういうTVのVTRの感覚で入れたとしか思えない。
同じく原音に無い演出だと、シャザムキッズが見ているニュースで「あの髪型がなぜ乱れないのでしょうか」という余計なギャグが入ってる。スーパーヒーローものへのツッコミとしてはあまりに浅く、寒い。例えばキャプテンアメリカに同じこと言えるかという話だ。
レイチェル・バットソンを訪問したビリーが去る時の「しつれーしましたー」という言い方。原音の”sorry to bother you”はあんな言い方じゃないだろう。吹替版の言い方ではギャグを収める時あるいは照れ隠しの言い方だ。家の中から出てきたレイチェルの人種が違ったのは確かに笑うところだが、ビリーの立場からしたら冗談では無い。
グローバーさんがビリーに対して原音に無い「親に捨てられた」と二回も強調するところ。確かにビリーの状況は不自然だが、後半の重要などんでん返しをここで言及してどうする。
バスケス家に着き、ペドロとすれ違ったビリーの呟く「あれで筋肉オタク?」は原音に無い。口が見えないところだからペドロの体型いじりを入れたんだろうけど、いわゆるfatophobia(肥満嫌悪・蔑視)はそろそろ人類が卒業すべき問題だ。俺の友人には難病の薬の副作用で体重がかなり増えてしまった人がいる。貧困と肥満の関係も指摘されてる時代に、「肥満は自己管理ができてない証拠」という昭和の感覚に基づくギャグを入れるのはどういうつもりなのか。吹替製作陣の誰かはわからないが、差別感情が露呈してる。
魔術師シャザムのセリフ、「ホームレスじゃないぞ!」「ダサくない!」「とにかく最強だ!」のあたり、原音でそういうこと言ってない。真面目なシーンでなにかこうふざけないといけないとでも思ったのか。魔法なりヒーローなりに真剣に向き合ってないのがわかる。
ビールを飲んで吹き出した後のシーン、「なんでビール飲んだことないのに飲んでみようと思ったんだろう」。ビールを飲むことに憧れてたからに決まってる。アメリカの子供の典型的な悪さで、大人を雇ってビールを買わせるという習慣があるという背景が分からなくても、大人の習慣への憧れぐらい日米共通でわかるだろう。これは吹替製作陣がメタツッコミを入れたいという意図なのか。
このシーンでもっと問題だと思ったのは、一連のギャグとして繋げようと「名前は、子供の味覚のままマンです」としたところ。原音ではCaptain Sparkle Fingerだけど、吹替版はここだけ見れば完成してるように見える。
だが後半、ロック・オブ・エタニティでフレディたちがシヴァナからビリー/シャザムを救うシーン。”His name is...Captain Sparkle Finger!”と言ってるところを「そいつの名前は、キャプテン電力会社だ!」に変えている。
原音で繰り返していた名前を、なぜここで繰り返さないのか? 前者のシーンがビリーとフレディのbondingの一環で、後者の救出シーンでそれを思い出させることで、一度は悪化した二人の関係の復活を印象付ける意味があるのに。
サンタクロースの吹替版のセリフ「トナカイ! トナカイ! 」、劇場で全く誰も笑わなかったので逆に凄かった。
まとめると、
・観客をバカにしている
・作品に(底の浅い)ツッコミを入れたい
というのが透けて見える出来上がりと言わざるを得ない。
https://filmschoolrejects.com/shazam-reconstructive-superhero-film/
上記はシャザムのレビューで非常に興味深かったもの。超人の存在が社会に与える厄災と影響に取り組もうとしたザック・スナイダーのアメコミ映画を「スーパーヒーローの脱構築」の例に挙げている。
(実際スナイダーは「超人たちが実際に戦ったら大破壊はまぬがれない」という趣旨の発言をしていたはず)。だが、「脱構築」の後では、ヒーローの価値を再確認させるための「再構築」が必要であるとも。
この記事では映画シャザム!の世界はすでにスーパーヒーローが世界の一部になっているという点でポストモダン的視点を内包していると示唆し、シャザムの前半の悪ふざけはヒーロー/超人の価値にいったん疑問を投げかけているとしている。
その上で、クライマックスでビリーはヒーローとしての責任に目覚め、シャザムはその価値を示すことになる。
そうした視点から考えれば、映画シャザム!はヒーローや魔法の価値、真剣さに対するツッコミなど最初から内包し超克してる以上、ヒーローや魔法をギャグとして扱い、そこにツッコミを入れる吹替版演出は蛇足以外の何物でも無いと感じた。