「ゴールデンカムイという物語にとってアイヌ文化/アイヌ民族とは、代替え可能な舞台装置/背景に過ぎない」と言われて悔しかったので、反証する。
ゴールデンカムイの主題はアイヌ民族ではなく、「背景」に過ぎないという言葉を見かけてあまりにも悔しかったので、反証いたします。ネットは自由に言論を吐く場所ではあります。が、これは野田サトルの名誉を守るためにもこれは、さすがに反証せねばならないとオタクは思った。なぜならこの種の言説に、ふらふら独り歩きされると不用意にアイヌ文化およびゴールデンカムイに関わる人間を傷つけるからです。
私は、『ゴールデンカムイ』という創作が文化盗用的と批判されてしまう原因に作者及び出版社の態度の問題があることを認識している一方で、作品の世界観の中でアイヌ文化/アイヌ民族は最低限の敬意を持って描かれていたと感じています。そしてこの物語は、北海道で、アイヌモシリで描かれねばならぬ物語であったと考えています。
そのため、オタクは立ち上がった。必ず、かの邪智暴虐の言説を反証せねばならぬと決意した。オタクには政治が分からぬ、だが、物語の構造とそれを作り出す人間社会の構造に関してはわかる。(中略、注:Web上の参考を多数ひいているので、半目で読んで欲しい。)
まず、アイヌ文化及びアイヌ民族が『ゴールデンカムイ』の背景に過ぎず、ゴールドラッシュに沸くアメリカでも良かったというような主張の根拠とされていた*1のは、「杉元佐一が戦争のトラウマを癒す物語」であること、「全体を貫く哲学が西洋的であること」の二点であった。物語には定型がある、人間が納得し、心を共感させる物語にはある種の類型がある、それは否定しない。しかし、その型を理由に、「なんでもよかった」としてしまえば、その物語に必然性はなくなり、ちんけなよくある話となるだろう。どこかで見たことのあるような三文ドラマとかのそれ、想像の付く展開、人物の行動、ご都合主義的な結末、そういったモノ。物語の類型を踏襲しまくった結果の糞詰まらんドラマの紹介などここでしていても仕方ないので、手っ取り早く『ゴールデンカムイ』が北海道で、アイヌモシリで、アイヌ文化と共に展開される必然性を以下に示したい。
①杉元佐一が生きる場所としての「北海道」という必然性
多くの方はご存じだろうが、杉元佐一とは、野田サトルの曾祖父の名である。日露を生き抜いた屯田兵。しかし、漫画の中の杉元佐一は屯田兵ではなく、東京第一師団の一等卒(強制除隊)であり、金塊探しのために北海道に訪れていた。作者自身も漫画の登場人物である杉元佐一について、その名前を付けただけで、別の人物として描いていると発言している[野田サトルのブログ「スギモトサイチのこと」]。
しかし、別の人物になぜその名前を付けたのか。実際に野田サトルはスギモトサイチのことを思って、杉元佐一が使う三十年式を担ぎ、「この鉄砲、重てえなぁ」と思うわけである。屯田兵であり、第七師団、歩兵27連隊乗馬隊に所属し、日露を生き抜いたスギモトサイチ、彼の名を冠した男が活躍する冒険奇譚の舞台がアメリカであったら? 不可能とは言わないが、全く筋が通らない。アメリカである理由は見当たらない。スギモトサイチは北海道に生きた男であって、その名前を冠する杉元佐一が北海道に生きることに意味があるのである。
そして何よりも、北海道に生まれた野田サトルが描いた物語として、彼の役目として、杉元佐一の役目として、アシㇼパの役目として、「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない(カント オㇿ ワ ヤク サㇰ ノ アランケプ シネㇷ゚ カ イサㇺ」、そういう必然性があって描かれた物語なのだとしたら、やはり、『ゴールデンカムイ』の舞台は、北海道であり、アイヌモシリであり、それは、必然的に、そこに生きた屯田兵とアイヌの物語になるのである。それは、屯田兵の末裔が描く、アイヌと和人の物語なのである。
②「西洋的」という言葉が指し示す宗教観、哲学があるという指摘について
もうこれは、本気でやると本当にただの揚げ足取りと思われかねないので、マイルドにやる。が、そもそも「西洋」と一口に言っても、旧約聖書から続くキリスト教(プロテスタント、カトリック、聖公会等々)、ハロウィンなど現在も残るアイルランド系の信仰、それ以前のギリシャ・ローマ神話系の世界観が混在している。『ゴールデンカムイ』を貫く世界観が「西洋的/西洋哲学的」であり、「アイヌ文化」ではないという主張は、そもそも論拠が不明な上に、歴史的な文化、宗教間の交流を一切考慮していないことに、まず大きな問題がある。
つまり、知里幸恵がクリスチャンであったように、当時北海道にはすでにキリスト教宣教師がいたし、野田サトルが参照したと思われる資料上でアイヌ文化とキリスト教的な世界観が融合している可能性すらある。和人の文化にしたって、地域によっては色々な多様性が見られ、世界観の融合が見られ、緩やかに影響し合っている。孤立無縁、「純粋無垢」な、固有の文化というものを想定することは非常に難しく、日本語で言えば、漢字表記は中国経由で大陸から入ってきたものであるし、馬小屋で生まれた聖徳太子(厩戸王(うまやどおう)という存在の持つ、馬小屋で生まれたエピソードはキリスト教の誕生を模した*2のではないか、とか、その逆で、厩戸王の下地があったから、聖書の「家畜小屋」が「馬小屋」と訳されてしまったのではないかとも言われたりしている。
その論争の正誤はさておき、ゴールデンカムイの中でも「馬小屋」が重要な場所となっていたことは非常に興味深い。ゴールデンカムイには、聖書をモチーフにした西洋宗教画のオマージュが溢れており、少なくとも、野田サトルはキリスト教が好きなんだなぁという印象は受ける。だが、キリスト教がこれだけ広まっている昨今の世界状況で、それを理由に「西洋的」と断定するのはあまりにも早計と指摘せざるを得ない。世界一のベストセラーは『聖書』である。多少その片鱗が見えたらからと、「アイヌ文化ではない」と切り捨てるというのも、早計が過ぎる。キリスト教徒になったら、西洋人になるわけでもないのに、である。ちなみに、北海道の宣教師といえば、ジョンバチェラー氏などが有名だが、それ以上踏み込むと何も収集がつかなくなるので、興味がある人はぜひ調べてみて下さい。
『ゴールデンカムイ』を貫く「西洋哲学」については、どの年代の誰のことを言ってるのか全く分からず反証する手がかりすらないので、仕方なく、考察主題になっていた「魂」について考えてみます。「西洋哲学」的な「魂」の在り方の物語である、というのが、大まかに主張されていたことだったと記憶しているので。
西洋哲学の「魂」って何なんだろうと思ったのですけど、素人すぎて、全く見当がつかなかったので、言語的な概念の方から、ここで言われている「魂」的な概念にそぐう「西洋」の言語を探して分析してみます。語源が西洋文化圏に起因するであろう英語から、その世界観を探ります。
これは、おそらく言語分析と言われる類の手法です。言語分析とは、「その問いの問い方,すなわち言語のあり方を問うことにより,無意味な問いや立場の対立 (たとえば「物は存在する」と「物は存在しない」) を,問いを有意味にしている言語的前提を分析することによって解消していく」手法です[コトバンク「言語分析とは」]。
【魂】を意味する英語
①soul
魂, ソウル, 精神, 霊魂, 霊, 真髄
②spirit
精神, 魂, 精霊, 元気, 気, 真髄
③ghost
ゴースト, 幽霊, 亡霊, 霊, 妖怪, 魂
④anima
アニマ, 魂, 魂魄, 気迫
①Soulというのは、「体に魂が入る(The soul informs the body.)」のような言い回しが可能であり、おそらく最も、「魂」という言葉のニュアンスに近いのではないかと思うのであるが、語源を調べていくと、ゲルマン祖語のsaiwalo(魂、霊魂、生命力)、さらに、可能性としてsaiwizという「海、大洋、波」を意味する単語にたどり着く。
この語源をみると、Soulという単語が現す「魂」は、私たちがイメージする「玉」、「御霊(みたま)」とは少しことなる、流動的な観念が見出せることが分かる。それは、inform(与える/満たす)という動詞によって、身体に満たされるものである。余談だが、「魂」の語源、漢字の成り立ちを調べていたら、「云」には「雲」が立ち上る象形と出てきて、「魂」の観念でも、たどり着く先は、空と海、という、全く違うが、どこか近しい自然につながる概念であること知って非常に興味深かった。
②Spiritは息をする、生きているという意味合いの強い言葉である。語源はラテン語のspiro-tus(息をする+こと)。
③ghostは、怒りや憤怒という意味合いがあるようで(ゲルマン祖語gaistaz→古ノルド語geisa説:論拠不明*3)、どちらにせよ、「死霊」「亡霊」という意味合いが強く、魂というより怨念である。
④animaの語源はラテン語の生命や息、霊魂を意味する言葉で、古代ギリシャ語のプシュケーを訳す際に当てはめた言葉でもあるようだ。時代によって解釈の変遷があるものの、人格的な意味合いを含む。Animismとはモノに人格を見出す信仰一般をさすが、そのような意味合いである。Animal(動物)の語源もAnima(anima+AL:息をするもの)ちなみに、アニメーターは「生気を与える人」という意味でもある。まさに、息を吹き込むひと。
ちなみにプシュケー(Ψυχή)も、元々「息、呼吸」を意味するため、Spirit, Animaに近い観念である。プシュケーとは、霊肉二元論にそぐわず、身体と一体になった霊魂(霊性?)であるため、「ひと」と訳されることがある。
さて、古代ギリシャにまでさかのぼってようやく僕が主張したいことが出てきたのであるが、それは、「霊肉二元論」とはそもそも「西洋」の「伝統」ではない、という可能性の指摘である。息を吹き込むことによって、ソレが息をし始める、という観念において、「生きる」ということとその状態は、魂が込められたというよりも、一番最初の一吹きが身体を満たし、馴染むことによって「身体を使って息をし始める」状態として、「生きる」と認識されうるのではないだろうか。まさに「spiro-tus(息をする+こと)」という状態である。そこに霊肉二元論の「魂」を想定することは難しい、と、筆者は指摘したいのである。
「魂」という日本語の意味には最重要なものとして、「1.生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま。」という説明がある。説明の通り、日本語でいう「魂」は、「霊肉二元論」を基盤にした観念であることが分かる。
その次に、「2 心の活力。精神。気力。」があり、これはspiritやsoulに近しい。そして、「3.それなしではそのものがありえないくらい大事なもの。」には、1.の霊肉二元論による死生観を強く反映しているように思える。それがなければ、生きられないのである。
生きていないモノに息を吹き込み、身体が息をし始める動態を「生きる」とする、「西洋的」死生観と、身体に魂を宿らせて生きる「和人的」世界観の差が、ここに見出せるだろう。
とすれば、物語上の「魂」の在り方を論じたところで、それを「西洋的」なものとすることは難しい。「魂」を預ける、手放すという言葉で、「魂」あり方が考察されていたが、そもそも観念として「魂」が手渡されるとか、預けられるという、認知が「西洋」には見いだせないのでは? 西洋の認知しうる「魂」「生命」、それは動態である。「身体を使って息をすること」である。
では、その手放すとか、預けるという発想は、どこから来たのか? おそらくそれは「和人」の霊肉二元論による発想であろう。そして、むしろ、霊肉二元論の基に「魂」を認識しうる世界観、そこに見出せるのは、カムィを神送りすることによって、「魂」が離れて行った後に、その身体を贈り物として受け取るアイヌの世界観であり、アイヌの文化との共通点ではなかろうか。
とすれば、「魂」を救うための『ゴールデンカムイ』という物語が、アイヌと和人による物語である必然性を、見出すことは容易であろう。それは、どんなに傷ついても身体から抜けきらない魂を、「役目を持って降ろされた魂」を、生き抜く物語なのである。
(了)
謝辞:
この論考を作成するきっかけとなったつぶやきは、その結論に賛同しかねるものの、非常に興味深い着眼点を持っていたことは間違いない。筆者の考察も「和人」「アイヌ」「西洋」という大枠で、その死生観を考察し、『ゴールデンカムイ』の中に落とし込まれている宗教観を明らかにしようとする試みを踏襲している。課題を提供してくれたツイ主に、感謝する。
そしてこのような付け焼き刃論考をここまで読んでくれたあなたにも感謝する。批判、事実関係の誤認などの指摘は歓迎である。
参考(掲載順):
野田サトルのブログ「スギモトサイチのこと」https://723000451898910026.weebly.com/125021252512464/4
現代ビジネス「聖徳太子が歴史から消える日」https://gendai.media/articles/-/48884
東洋経済オンライン「あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ」https://toyokeizai.net/articles/-/118796
帝国書院「「聖徳太子」は、なぜ「聖徳太子(厩戸王)」と表記されるようになったのですか。」https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/940/
コトバンク「言語分析とは」https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%88%86%E6%9E%90-60485#:~:text=%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%92%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%B6%E3%82%93,linguistic%20analysis&text=%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84,%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
Wbilio英和「魂」https://ejje.weblio.jp/content/%E9%AD%82
語源英和辞典「saiwiz」https://gogen-ejd.info/saiwiz/
語源英和辞典「spirit」https://gogen-ejd.info/spirit/
国語研の窓「「魂」の偏と旁について」https://kotobaken.jp/mado/29/29-06/
小学館『プログレッシブ英和中辞典(第四版)』
*1: 個人的なツイートであろうと思うので、ここでは敢えて参照しない。元ツイートは、非常に興味深い発想であったが、指摘しうる事柄が多数あると感じて、こうして指摘することにした。「『ゴールデンカムイ』にとってのアイヌ文化は所詮舞台装置」という言説に主張に独り歩きされたら悲しいから。
*2:「キリストの降誕」は、『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』に記述があり、そのうち『ルカによる福音書』では、宿に泊まれずにマリアが「家畜小屋」の飼い葉の上で幼子イエスを出産する。日本語訳では「馬小屋」とされるが、その場に馬はおらず、ロバと羊がいる。『ルカによる福音書』の成立は1~2世紀、三世紀に書かれたパピルス史料が残る。「厩戸王(574~622)」が誕生するのはその後である。
*3: TANTANの雑学と哲学の小部屋「ゴーストの語源とは何か?ゲルマン祖語と古ノルド語における大本の語源と、北欧神話における死と憤怒の神オーディン」https://information-station.xyz/8266.html
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質問箱へ頂いたコメントと応答
【長文返答】
「作者のインタビューを全部読んでないから、作品を擁護できるのでは? だから、「そうした人」と話がかみ合わない。」
https://fusetter.com/tw/M5IgSLzo
「アイヌが置かれる現実と歴史的な問題は、作者が想定していたよりもはるかに重かった。それが露呈したのは、一部の読者を除く、作者とファンにとっては想定外だった。私はその加害性と向き合わねばならない」
https://fusetter.com/tw/LgNegm3v
【短文返答】
「物語の展開を見てもやはり文化装置に過ぎなかったと思う」
https://peing.net/ja/q/139b6b01-0720-42d7-a185-15721d177c41
→上記コメントへの返答「『文化装置』と断じた言い方は、問題であったと理解したので、謝罪したい」
https://peing.net/ja/q/943dfc97-2e7b-410c-b76f-6b0505e471fb
「インタビューを読んでもやはり舞台装置に過ぎなかったと感じる」
https://peing.net/ja/q/eb00e8cb-8a5b-4847-aabd-159bcb002c9e
→上記コメントへの返答「『ゴールデンカムイ』という物語がある世界において私たちは何を考えるべきか」
https://peing.net/ja/q/a954a444-2ddb-40f8-9100-0fc5922e3a9b