アジェンダ283について。2:改めて考えたこと。
◇冬優子の役回りについて
冬優子が、SDGsを海外セレブのアピールと言ったことについて、改めて考えていた。これは明らかに、夏葉がSDGsの説明をしたことの対比として置かれている。で、その冬優子の役回りについていま思うのは、(1)コミュそのものが相対化を必要としたこと、(2)冬優子はおそらくSDGsの意味を知らないこと、(3)だがそもそも相対化の視線は必要なのかということ。
(1)コミュそのものが相対化を必要とした
コミュの最後で、真乃がごみ拾いをみんなでやることについて心配していたという話をプロデューサーとする。ここで言われているのは、ごみ拾いは正しいことなので断りにくいということは確かだということ、しかしそれでもみんなそれぞれのやり方でそれを楽しんだり向き合ったりするんだということ、この2つが話される。このコミュ自体の大きな2つのポイントは、そのままコミュの一部である環境問題の話にも落とし込まれるものだろうと思う。
環境問題に向き合わなければならない、おそらくこれは絶対的に正しいとされていることだろうと思う。ごみ拾いの参加を断りにくいように、環境問題は問題じゃないというのもそれなりにやりにくいことだろう。このコミュは、そんな絶対的に正しそうなものについて、さまざまな向き合い方があることを示している。ならば環境問題に対しても同様になるだろう。
そこで夏葉の話の後で、SDGsは海外セレブによるアピールである、という話が挿入される。冬優子の話は、SDGsのことをやや揶揄したようなものになっているが、しかしSDGsはどうでもいいとは言っていない。SDGsに向き合っているということは対外的に良いアピールになると思っている。ごみ拾いに対してさまざまな向き合い方があるのと同じだ。
SDGsはアピールに使われるという冬優子の話は、完全な間違いというわけでもない。SDGsは商業化されていて、それを考えていますということが企業イメージを向上させ、利益に繋がることが期待されている面もある。企業利益になる限りでSDGsやLGBTが利用されるということもあるだろう。またさらに、SDGsのことを詳しく知らないで、アピールに使っている人も実在するかもしれない。冬優子の話はそういう企業や人に命中する。
(2)冬優子はおそらくSDGsの意味を知らない
あさひにSDGsが何の略か尋ねられ、冬優子は答えられなかった。おそらくSDGsの意味も知らないのではないかと思われる。SDGsはアピールに使われる言葉であるという話は、夏葉の話を相対化しつつ、しかし冬優子がその言葉を説明できないことで、冬優子の相対化自体が相対化されていると言える。冬優子の揶揄はSDGsの中身にまで届いていない。
加えて夏葉の口からSDGsの内容を説明できているというという点で、コミュ自体はSDGsと環境問題に対して向き合う態度を示しているとも読めるなと改めて考え直して思った。
ここにバランス感覚が見られるという話がある。これは確かにその通りだと思う。
ただ少し気になるのは、この冬優子の役回りは損な役回りではないかということだ。絶対的に正しいとされる話を相対化する役割を担わされており、しかもSDGsの意味を知らないということにされている。
SDGsのことは分かってて、でも冬優子的にはそれが対外的なアピールに使えることの方を重視する、みたいにもできたはずだ。なぜそうしなかったんだろう。
冬優子が対外的なアピールを重視しており、SDGsをそれに利用する、というのは確かに冬優子らしさを感じる。でもそこで、SDGsを揶揄するような言い方をするとか、SDGsの意味を知らないという描写まで必要だったのだろうか。SDGsの意味を知らないというのは、確かにリアリティはあるけれども、知識はその程度という冬優子の浅はかさも描かれることになってしまう。それで良かったんだろうか。それが必要だったんだろうか。
(3)そもそも相対化は必要だったのか
環境問題に向き合わなければならない、ということはやはり正しいことであると思う。確かにごみ拾いは正しいことで、それに参加するのは断りにくいということはあるけれど、環境問題の問題性はそういうのとは違ってそもそも相対化が必要なのか、と思わないでもない。というのは私が環境問題のことを重要な問題で解決しなければならない問題だと考えているからなのかもしれないけれども。
冬優子による相対化は、あくまで「SDGs」に対してであって、環境問題そのものに対してではない、という風に読めなくもない。けれどもやはりSDGsが掲げる17の目標はどれも重要なことであって、これを揶揄したり相対化することは必要なのかとも思わなくもない。
こういう正しいことに対して相対化を行うと、その相対化自体が別の政治的態度を示すことになりうる。たとえば、両論併記してますよ、中立ですよ、という態度を取っていたとしても、人種差別的な主張を片方の主張として聞こうとすれば、それ自体が人種差別を助長することになる。人種差別を相手に議論のテーブルに付くことそのものが、人種差別の言説に一つの主張としての立場を与えることになってしまうからである。人種差別にそのような立場を与えることはできない。
このように、ある種の問題に対しては「中立である」という態度を取ること自体が、中立性を伴わない場合がある。環境問題にもそういうところがあるような気がする。
環境問題が問題であると私が思う理由の一つは、国や地域ごとに格差や不均衡があって、その格差や不均衡に乗っかって立場の弱い国や地域にその環境の問題の皺寄せが行っているような現状があるからだ。
たとえば気候変動で森林火災が発生したり、甚大な雨や台風の災害が発生したり、海水面が上昇したりしているが、この影響を一番受けるのは誰なのかを考える必要がある。エネルギーを使うことで気候変動に先進国も加担しているが、その影響はみんなで受けるのではなく特定の地域や社会階層の人のもとに皺寄せが行っている。
あるいはプラスチックごみはコミュの中でも問題として出てきたが、日本はこのプラスチックごみの一部をを海外に輸出して、その処理を押し付けている現状がある。確かにプラスチックの使用をいますぐゼロにするのは余りにも困難だ。けれどプラスチックを使用している今の日本の生活は、こうした搾取の構造の上に成り立っている。
エネルギーにせよプラスチックにせよ、格差や不均衡が国や地域ごとにある中で、立場の弱い方へと皺寄せが行っている現状がある。こうした現状を野放しにすることが良いことだとは思えない……
これはしかし、やはり私がこうした問題を重要な問題だとみなしているから、相対化は必要なのかと見えるだけなのかもしれないけれども……