おやこ
「おとうさま」
耳につく高い声がその音を発した時、何を意図しているのか理解が遅れた。
「……私のことか?」
「はい」
地べたを這いずり回って、転がって泣いていた生き物が、2本足で立ち、自分の足くらいの背丈にいつの間にかなっていた小さい人。日本人離れした色の、藤色の瞳が真っ直ぐ見上げて来た。
声が届く範囲にいるのは私だけだった。当然、私に向けられたもので間違いようがない状況ではあった。確認したのは聞き間違いを考えたからだ。
「その言葉は誰から教わった?」
「本で読みました」
「……よく世話しているのはケンだろう。深山や佐藤も。他にもたくさん。試しに呼ぶなら」
「一家の主人をそう呼ぶと、書いてありました。ならば黒田さまが『おとうさま』です」
「……」
「そう、思ったから……わたくし、間違えてましたか?」
不安になったのかどんどん尻すぼみになる言葉を最後まで言って、小さい人は俯いてしまった。
「……間違えてはいませんよ」
「……! 良かったです。では、そう呼んでも良いでしょうか?」
「……好きにしなさい。お前が私をどう呼ぼうと、特に制限するつもりはない」
「はい! では、これからはおとうさまとお呼びします」
なぜか嬉しそうに笑う小さい人は、口元に手をやって笑みを隠した。
「おとうさま、お聞きしたいことがあります」
「何でしょう」
「わたくしのお名前はどうして『早苗』なのですか?」
「そう呼ばれていたので」
小さい人、早苗は首を傾けた。分からなくて当然の言い方だったのは、こちらの落ち度だ。時々、相手に理解を求めていない、自分だけが理解できる言葉を返すのが、自分についた癖だった。
「お前を産んだ『おかあさま』ですよ」
おかあさまと早苗は口で繰り返す。それそのものに、存外彼女は興味を示さなかった。
「では、おかあさまはなぜわたくしを『早苗』とつけたのですか?」
『わたくしを恨んでいますか、おにいさま』
か細い声で、死人の如き顔が見つめて、そう尋ねてきたのを思い出した。
「……早苗の名前の意味はいくつかあります」
「はい」
『あなたは誰のことだって、恨みもしないのでしょうね』
呆れたような、諦めたようなその物言いに込められた感情を、意味を、正確には把握してなかった。
「苗植えの時期に生まれたから。苗のように成長してほしいから。若々しく元気でいてほしいから。それから」
『早苗とつけました。神に捧げる稲、と』
『どういった意味かはお好きに考えてください』
『わたくしたちの罪の証か、呪いか、あるいは』
『神の如きに成ったあなたへの、贈り物か』
「おとうさま?」
「……ああ、それと、収穫をお祝いするお祭りに使う稲を『さなえ』と呼ぶんだ。『さ』は山の神様、その神様に捧げるから『さなえ』。おめでたい意味ですよ」
「いっぱいありますね」
「他にもあるから、興味があったら調べてみないさい」
「はい、調べてみます。ありがとうございました」
「それでは」
用事が済んだと思い、話の場を離れようとすると、早苗が慌てた様子で、所在なく手を伸ばす。
「あの、おとうさま」
「はい」
「いいえ、やっぱりなんでもありません」
「そうですか」
「……」
「……言わないと分かりません」
「またお話ししたいです」
「……好きにしなさい」
「……! はい。それではおとうさま、お稽古に行って参ります」
「はい、いってらっしゃい」
少し小走りで稽古場に向かう早苗はなぜか浮き足立っていた様子だった。
『あなたのその目、最初は怖かった。見たことがなくて、何を考えているか全然分からないんですもの。でも、綺麗だなと、今はそう思います』
早苗とよく似た「異母妹」は、健やかに寝息を立てる赤ん坊を見て、そう言って事切れた。
「……よく分からないな」
誰に訊かせるでもない言葉をポツリと呟いた。