「海へ出るつもりじゃなかったし」の「ピース・オブ・エイト」についてちょっと考えてみる。
ノクチルのイベントシナリオ「海へ出るつもりじゃなかったし」に登場するオウムが言う言葉「ピース・オブ・エイト」は何だったのか、ということについて一つ思い付いたことがあるのでそれを記録しておきます。次のサイトが参考になりました。
「スペイン銀貨」世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-065.html
オウムが「ピース・オブ・エイト」というのは「宝島」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」に登場するようなのですが、どちらも私は知らないので、的外れな話になってしまうかもしれませんが、お許しください。
「ピース・オブ・エイト」について考えるにあたって、ポイントになるかなと思うのは次の3点です。(1)海賊に関するものであること、(2)通貨であるということ、(3)オウムが言う言葉であるということ。この3点です。
(1)海賊に関するものであること
海賊は船に乗って海を渡る人たちです。他の船を襲撃したりするなど、どちらかといえば悪の方に分類され、取り締まりの対象になる存在です。ノクチルが海賊であるかどうか、ははっきりとしないと思います。アイドルやテレビの文脈からすれば、そこからはみ出す存在であるノクチルは海賊に類する存在だと思われるかもしれません。が、シナリオの中で、円香が自分たちに似ていると言ったある本の登場人物たちは、海賊と戦う(と思っている)者たちでした。
問題は、ノクチルが海賊であるかどうかではなく、船に乗って海を渡るものであるというイメージだと思います。イベントシナリオでノクチルは1つの船に乗るクルーにたとえられているからです。
で、「ピース・オブ・エイト」とは何か、ということを、透は思い出しています。それは「世界を手にする者たちの言葉」だということです。これが重要です。
ではなぜ「ピース・オブ・エイト」は「世界を手にする者たち」の「言葉」なのでしょうか。一つは、それが海賊に関する言葉であるからだと言えると思います。海賊は海を渡り、財宝などを始めとしていろんなものをその手中に収めます。
ですがそれだけではないのではないか、という気がしています。というのも、「ピース・オブ・エイト」は通貨の名前でもあるからです。「世界を手にする」というのも、「ピース・オブ・エイト」が通貨であるということに基づいているのではないか、という気がしてくるのです。
(2)通貨であるということ
「ピース・オブ・エイト」というのは、大航海時代に通過として広く使用されたスペイン銀貨の通称であったようです(上記のサイトを参照)。
ここでちょっと考えたいのは、通貨、というか貨幣とは何か、ということです(cf. 中野昌宏『貨幣と精神』ナカニシヤ出版;入不二基義「ものさしの恍惚と不安」『足の裏に影はあるか? ないか?』朝日出版社)。
議論をかなりはしょりますが、貨幣はいろんなものと交換することができる物です。机もおにぎりも本も建物も、貨幣を集めてきて渡すことで、それと交換することができます。貨幣がたくさんあればいろんなものを手に入れることができるわけです。おそらく「世界」も。
で、もう1点、さらに重要だと思われるのは、貨幣は特別な商品であるということです。どう特別かというと、商品の価値の単位となるもので、その単位である貨幣の価値を示すさらに別の単位(メタ単位)はない、というような商品だということです。「1円っていくら?」という問いには、「1円」としか答えられません(もし1円の価値をドルで答えるのだとしたら「1ドルっていくら?」と聞いてもいいです)。パリに実在するというメートル原器の長さを問うてみるようなものです。貨幣が特別であるのは、商品の価値の体系をピン留めするピンの役割を果たすからです。
「1円っていくら?」(「1ドルっていくら?」)という問いに1円=1円(1ドル=1ドル)としか答えられないわけですから、貨幣の価値を考えるとそこが行き止まりになってしまいます。メタ価値、メタ貨幣はありません。1円って一体いくら? 1円です。そう答えるほかありません。だからその行き止まりになった1円=1円の1円は、いわば中身がない剥き出しの記号のようなものです。空虚なシニフィアンとか、浮遊するシニフィアンとか、そういうやつになっています。
まとめると、1.いろんなものと交換可能である、2.価値の体系をピン留めするピンの役割をする、3.それ自体は中身を持たない空虚な記号である、というのが貨幣の特徴であると言えそうです。
「ピース・オブ・エイト」によって「世界を手にする」ことができるのは、それがいろんなものと交換することができる貨幣であるというだけでなく、それが世界通貨として流通することで、さまざまな商品の価値の体系のピン留めするピンの役割を果たすからということも言えるのではないかと思います。
で、3つ目の特徴である、中身を持たない空虚な記号であるという点が、第3のポイントであるオウムと関わってくるところです。
(3)オウムが言う言葉であるということ
イベントシナリオの中で、「ピース・オブ・エイト」はオウムが言う言葉です。オウムは人間の言葉を覚えて、それを真似して言うことができる鳥ですが、その言葉は人間が言うのとはちょっと異なるはずです。オウムはただ言葉の音を真似て言っているだけで、人間が言うようにそこに意味を持たせているのとは違うと思われるからです。ここでは実際にオウムが
何らかの意味を込めて言葉を言っているのかどうかはともかくとして、「オウム返し」という言葉に見られるようにただ音を真似て言っているだけであると仮定して話を進めます。
オウムが覚えて言う言葉は、ただ人間の言葉を音のレベルで真似ただけです。そこに意味はありません。だからオウムの言葉は中身がない、空虚な記号です。
そして、オウムがそのように意味をすっ飛ばして音のレベルで言葉を取り出すというのは、浅倉透の言語感覚を暗示するものでもあります。(詳しくは次の文章をご参照ください。)
「どこにもつながっていないものの輝き――「海へ出るつもりじゃなかったし」について」
https://fusetter.com/tw/SohQ01xi#all
オウムが人間の言葉を音のレベルで真似るだけであるということは、浅倉透の言語感覚を暗示し、さらにはノクチルの「アイドルごっこ」としてのアイドル活動を示すものであると考えられます。アイドルとは何か、アイドルとはどうあるべきか、アイドルとして自分たちはどうありたいのか、といった意味の水準をすっ飛ばして、ノクチルはアイドルであるという行為を実行してしまうわけです。
こう考えたとき、ノクチルというアイドルグループ自体が、中身を欠いた空虚な記号の系列に加わるもののように思えてきます。つまり、貨幣―オウムの言葉―アイドルとしてのノクチルという系列です。
中身を欠いているとか空虚とか言うとネガティブな印象を抱いてしまいますが、そうではないと思います。というのは、貨幣が中身を持たない空虚な記号であるというのは、いろんなものと交換できるということ、商品の価値の体系をピン留めできるということと不可分だからです。ノクチルというアイドルは、オウムの言葉を経由して、貨幣のような存在でありうるのではないか、と考えたくなるのです。つまり「ピース・オブ・エイト」というのはノクチルそのもののことであるのではないか。
「天塵」において、円香はアイドルである自分たちを「商品」と言いました。ネット番組で事件を起こした後、ノクチルを売り込むプロデューサーに対して、ある番組プロデューサーもまたアイドルを「商品」だと言いました。プロデューサーは、アイドルが「商品」であるということを否定していますが、(少なくともシャニマス世界の)業界には、アイドルは「商品」であるという認識があるようです。ネット番組であのような事件を起こしたノクチルは「商品」としては信用ならないものとなってしまったようです。
ノクチルに関するこのような認識は、「アジェンダ283」における暗示ともつながっています。イベントSSRのイラストに描かれたガラスのゴミの色が、ノクチルの4人のカラーと合致するという指摘があります。この指摘から、「アジェンダ283」の段階ではノクチルはアイドルとしてゴミのような存在になってしまっている、と読むことができるのです。「商品」にならないものです。逆に言えば、既存の業界の価値観では、ノクチルというアイドルの価値を計ることができない、ということでもあります。
上に貼った「海へ出るつもりじゃなかったし」の感想で、私はノクチルを「どこにもつながっていないもの」として読みました。ノクチルはアイドルやテレビの論理をすり抜け、どこにもつながっていないのです。いわば、アイドルやテレビの業界の商品の価値の体系からはじき出された存在になっているわけです。だからアイドルとしてカメラに映ることを優先しないし、放送もノクチルを映した映像を使わない。
それではノクチルはこれからどうしていくのか。たぶんノクチルは、既存の業界の商品の価値の体系に適応するようなことは目指さないのではないかという風に思います。ではノクチルはその体系の外側にいたままでいるのでしょうか。この点に関して、「ピース・オブ・エイト」がヒントになってくるのではないかという風に思っています。ノクチルは、アイドル大航海時代の「ピース・オブ・エイト」になりうるのではないか。つまり新たなアイドルの価値の体系をピン留めする通貨に、ノクチルはなりうるのではないか、ということです。アイドルの価値体系の再編が起こりうる、ということを感じさせるのです。
シャニマスの作中で、ノクチルがそんな風になる所が描かれる、とは思いません。そもそもそんな風に業界の価値観の再編が起こるということ自体、夢想的であるように思います。ですが、既存の業界の価値体系の中で価値を計測することができないノクチルには、そんな大それた存在になりうるポテンシャルがあるような気がしています。「ピース・オブ・エイト」という言葉がオウムによって発せられたということ、そしてその言葉が「世界を手にする者の言葉」であるということは、ノクチルのこのポテンシャルを示しているという風に思えてならないのです。