双騎出陣の構成と挑戦の意味について。1部は全編にわたり「源氏の重宝兄弟が演じる曽我兄弟の物語」だったが、実は「曽我物語に仮託した源氏兄弟自身の物語」だったのではないかと思う。
1部冒頭。雨降りしきり、時折の稲光だけが照らすつごもりの夜(=新月)の闇の中。荒れ果てた屋敷跡に現れた謎の語り部(瞽女)は、曽我兄弟の亡骸とも人形とも見える姿に扮した源氏の重宝二振りを見つけて言う。
「おお、そこに居られたのですね 何年も、何百年も」「忘れてはおりませぬ 忘れてはおりませぬよ」「さあ語りましょう 歌いましょう そなたたちの物語を」「物が語る故、物語」「今宵語られる物語は日本三大仇討ちのひとつ 曽我物語」…「彼らの悲哀を、情念を、生きざまを 後の世もまた後の世まで 彼らと共に語り継ぐ それが私の役割でございます」…「語るべきはこのふたり 語り継ぐは曽我物語」
語り部は二振りが兄弟に所縁ある「もの」だとして、影のようなものたちと共に二振りを目覚めさせ、曽我物語を再現していく。
展開される物語は、確かにあらすじは曽我物語なのだが部分部分に今広く知られる曽我物語との相違が見られる。
何故その相違があるのか。もちろん長く複雑な物語を観る人に分かりやすく伝えるためのアレンジとも言えるかもしれない。しかしこの相違にこそ今回の物語の核があるのではと感じた。すなわち源氏兄弟が演じるにあたり、自身の物語と心情を曽我兄弟に投影し、更には理想を混ぜて描いたから生まれた違いではないだろうか。
まず、曽我兄弟の性格が逆転している。
曽我物語を読むと、仲の良い兄弟は九つと七つの時に二人で仇討ちを誓うが、兄一万はどちらかというと常識人的で穏健派。周囲の味方に調和や援助を求めようとするし、周りに隠したり偽ったりして仇討ちを成し遂げることに何度も後ろめたさを感じて苦悩する。
また幼少から、元服した後もずっと涙もろい。
一方弟の箱王は、一度仇討ちを誓ってからは一切の迷いはなくひたむきで、特に成長してからは兄と二人きりでの仇討ちに苛烈なまでの執着と情熱を見せる。箱根では宿願成就のために山へ入った直後から遊ぶことも忘れて一心に修行に励み、しかしいよいよ出家させられそうになったために行方を眩まし兄の元へ戻る(再会で話す内容は概ね公演通り)。
再会後は兄の周りへの情を見るにつけ、甘い、早く決心を固めろ、余計な者に話さず二人だけで遂げるべき、と常に叱咤する立場として描かれている。
ところが、源氏兄弟の演じた曽我兄弟は違う。兄が先に「泣いてはいられない」と仇討ちを心に決めて鍛練を始め、常に強く弟を導く立場にあり、泣き虫な弟がその背を見て立ち上がっていく。これは『三百年』のような成り代わりではなくあくまでも演じているだけなのだから、原典の通りの描き方でも何ら問題はないはずだというのに。
確かに本丸でのいつもの二振りとは違うが、この逆転には二振り自身の兄弟像とか関係性といったものが色濃く反映されているのではないか。つまり、曽我兄弟が胸中を歌う「いつか来るそのときのために」(『ひたむきな花』『ひたむきな志』)の一節には、髭切と膝丸自身の互いへの想いが現れているのではないか。
「悲しみに寄り添うのはもうやめよう 私が寄り添いたいのは…」「兄上はきっと知らないでしょう 私が追いかけたいのはあなたの背中 強くなりたい 追い付きたい」
「お前はきっと知らないだろう 私が凛としていられるのはお前の眼差し しゃんと立つ背中を見せたいのだ」「寄り添ってくれるのか この心に」
仲が良い兄弟は互いの存在を意識することで高め合っているが、互いにその本心が相手に伝わりきってはいないだろうと考える。それでも共にあるなら皆まで伝えずとも良いとも思っている。この関係性は、『つはもの』での髭切・膝丸兄弟の会話を彷彿とさせる。
次に大きな相違は曽我兄弟の最期。曽我物語では、兄弟は「二人で仇である工藤祐経を討ち果たし、『一所にて屍を曝さん』(同じ場所で共に果てよう)」と誓うものの、実際はそうはいかない。
屋形へ押し入ったとき祐経は酔い潰れており、味気ないほどあっさりと殺せてしまうのだが、その後二人は頼朝の重臣を殺めた謀反人として名乗りを上げ、居合わせた御家人たちと乱戦を繰り広げる。
1人ずつに引き離され戦ううちに、兄十郎祐成は深手を負い、見失った弟に向け大声で「五郎はいないか。祐成は新田四郎の手にかかって討たれた。お前がまだ傷を負っていないなら、鎌倉殿のもとへ見参してしっかりと拝謁を賜ってこい」と叫び息絶える。
聞こえた弟はその通り頼朝の近くまで乗り込んで捕らえられ、尋問を受けることになり、そこで初めて兄の首と形見に対面する。
兄弟の仇討ちの姿勢に感銘を受けた頼朝は、「本来ならこういう芯の通った者たちを召し抱えたかった、五郎だけでも助けたい」と嘆くが、家臣の諫言と五郎自身の強い希望により処刑を言い渡し、五郎も首を切られ兄を追った。
源氏兄弟によるこの場面は、御家人たちを軽々と蹴散らす曽我兄弟が、祐経と正面から死闘を繰り広げる。そして命を賭して共闘し本懐を遂げた後、同じ場所で二人きり、重なりあって静かに息絶えた。
これは曽我兄弟が仇討ちの前に思い描いた理想の最期と言えるが、やはりとりもなおさず髭切と膝丸が刀として、双剣として思い描く「納得のいくもしもの最期」のようにも見えた。
すなわち、二振りで雑魚を蹴散らして本陣へ乗り込み、相手にとって不足なしと思える強い敵大将と華々しく戦って倒し、笑い合い思い残すことはないと満足して、同じ時・同じ場所で果てる。
それが源氏の重宝であり、戦場にあってこその戦刀たる彼らの本望なのではないだろうか。
他には、頼朝との個人的な確執が描かれない、母に事前に仇討ちの決心を伝える、それと連動して勘当と赦しのタイミングがずれる(原典では五郎が箱根から出て勝手に元服したときに彼のみ勘当され、仇討ちに向かう直前そうとは伝えずに兄十郎の懇願で赦され、二人でこっそりと母への遺言を部屋に書き残して去る)などがある。いずれも筋書きから原典に見られる複雑多様な要素や登場人物のぶれが削ぎ落とされ、整理されている。
これらを単純化することで浮き彫りになる今回の主題は、曽我兄弟が二人で手を取り合い、本懐を遂げ、果てること。最初から最後まで繰り返される兄弟の象徴的な「あの雁が音」は、二人が揃ったときにだけ聞こえる。まさしく「二人が共にあること」が最重要視されているのだ。
さて、描かれきった兄弟の物語が幕を下ろし、うって変わって2部。装いも華やかに歌い踊って登場した兄弟は、私たちが知るいつもの髭切と膝丸に戻っていて、「驚いた?」とドッキリ大成功さながらに笑い、あれは自分たちが演じたものだと種明かししてくれる。
全く別物のような1部と2部だが、私にはこれが、実は普段の刀ミュ本公演以上に関連づけられていて、もっと言うと完全にひと続きのものに思われた。
歌われた曲は新曲『クロニクル』、新曲『Surrender』、『just time』 、新曲『不安定なFantasy』、『Kizuna』、『獣』、『双つの軌跡』、『刀剣乱舞』。獣までのそれぞれの曲想・曲調、時には歌詞までもが、この順番で歌われるとまるで1部の展開をなぞっているように聞こえないだろうか。
どこか妖しくも荘厳に幕を開け、ポップな曲調とテンポは幼い兄弟、二人で共に切磋琢磨し、互いを信じて励む。
しかし引き離されたことを嘆き再会を願い(Kizunaでは「二人だけの約束を 覚えているかな」「届かない」「会えなくても」の歌詞とともに立ち位置やステージ上ですれ違うところが『あやなす音』の幕に重なる)、再び手を取り合うと勇猛果敢に共闘し「いっそこの身捨ててやる」と覚悟を見せる…というように。
そして、満を持して彼ら本来の戦装束で顕れ、歌い上げた『双つの軌跡』は追加と変更がされた完全版になっていた。
「分かれた道 何度別れても 引き寄せられて交わる、集う 時が訪れた」
この冒頭、1部の別離の間に曽我兄弟として歌った「今は…時を待とう」と呼応している。
続いて
「弥久をさまよい辿り着いたのは『あなた』のとなり」
と変わり、サビの前にも
「対なるもの 幾度巡れば出逢える 満ちては欠ける片割れ 月の光と闇」「分かれた道何度別れても 引き寄せられて交わる、集う 時は今」
と挿入されている。
源氏の重宝・髭切と膝丸は二振一具、一対の双剣であり、別たれてもまた揃う運命。二振りが対で揃うことに意味があると強調される。これにより「埋めたいのは時が生み出したこの空隙」「解きたいのは時が絡ませた絆」が、より切実な響きを持つ。
更にこうして二振りが揃うと何が起こるのかが、続く『刀剣乱舞』で歌われる。
「悠久の時を越えて 交わる刃 放つは煌めき」
「我が使命果たすがために磨き上げるこの技」「万古不易の剣 活殺自在さ さあ行くよ」
背中合わせに次々と敵を圧倒し、度々互いを確かめるように刃を打ち鳴らす二振りの姿は、刀剣男士としてようやく対で戦場に立った双剣が、惜しみ無くその真価を発揮するさまだ。
ここに、この双騎出陣での二振りの物語が完結する。
1部ではひたすら曽我兄弟として生き抜き、私たちにどうしようもなく(髭切と膝丸じゃないのか?彼らはいつ登場するのか?)と戸惑わせた二振り。
だがこうして見ると、実は一貫して二振りが自身の物語を曽我兄弟に仮託することで自らの関係性、理想を垣間見せてくれ、二振りが双剣として本丸で揃う意味と喜びを伝えてくれたように思える。
1部と2部は切り離されたものではなく、同じ時、場所、まさに今私たちの目の前で彼らが見せてくれた1つの演目だったのではないだろうか。
語り部や祐経、影のような者たちもまた源氏兄弟と共に私たちに向けて「演じて」いたと考えると自然に思える。
冒頭の通り、語り部らの役割は「源氏兄弟と共に曽我物語を語り継ぐこと」。彼らは普段の本公演2部や、乱舞祭で男士たちを支え、華を添える仲間であるダンサーたち…言うなれば、刀ミュ本丸の男士たちの「現代の戦い方」のための刀装兵、頼れる精鋭兵たちが、役に扮した姿ではないだろうか。
髭切と膝丸と兵たちが、2019年への双騎出陣で、まさに「これまでと全く違う、この二振りにしかできない度肝を抜く舞台」を作ることが、今回の驚くべき「任務」の内容だった。
そう捉えれば、1部で読経していた箱根別当が急に「えらいやっちゃーえらいやっちゃーよいよいよいよい ヤーレンソーラン~」と始めても、それで箱王が乗せられて踊りだしても合点がいくだろう。彼らはどちらも本丸にいて、乱舞祭2018の祭合戦を知っているからだ。1部と2部が途切れず続いて1つの兄弟の物語、1つの舞台を完成させている。
元々曽我物語は、鎌倉時代初期に武家社会を震撼させた曽我兄弟の仇討ち事件が、室町以降に兄弟の気高く美しい生きざまに魅せられた人々がこぞって曽我物を描いたことで広く流布したもの。
その際、平家物語や太平記などを下敷きとして、特に弟五郎に同じく源氏の世の悲劇の代表、義経を重ねるような語り口が成立した。実際幼い頃に父を殺され、家族と引き離されて山に入れられるも抜け出して出家せず、兄弟とともに仇を討つが同士である親類とのいさかいで非業の最期を遂げる(仇の工藤祐経も曾我兄弟の親戚)、という生い立ちや生き様は共通項が多い。
そこで義経と五郎を直接的に深く結びつける要素として、箱根別当から授かる義経奉納の太刀(≒薄緑/膝丸)が登場する。
しかし今回はそれだけではなく、五郎は膝丸自身に重ねられ、その兄として髭切を十郎に当てた。すると、実は常に共にいた兄弟が不本意に引き離されるも最後はまた巡りあい揃う、という剣巻で語られる源氏の重宝の物語とも、共通項が多いことに気付かされる。
よってこの双騎出陣は、平家物語を下敷きに成立した曽我物語を更に下敷きにして、後に平家物語の一部として別に成立した剣巻、他でもない源氏の重宝の物語を描くという挑戦だった、と考えられるのだ。
今回遡行軍が一切現れないのは、これが過去の曽我兄弟の仇討ち事件そのものへの介入ではなく、今私たちの目の前で新しく源氏兄弟が描いた物語だから。
今日、『平家物語』や『義経記』などと比べると昔ほど「誰もが知っている」訳ではない曽我物語。あの荒れ果て崩れかけた舞台と人形は、この物語が人々に忘れられかけたまま眠っている今の姿だ。しかしこの物語は、源氏の双剣が最初の別離から再会を果たす切っ掛けとなる重要な物語。それを源氏兄弟は自ら描いて見せ、そこに自身らの在り方というメッセージを込めて伝えてくれた。
言わば、自身を形成する物語を私たちの記憶に印象付けつつ、大筋に響かない部分には自らを投影することでこれは我々の物語なのだ、と首尾一貫した主題を浮かび上がらせる任務。
また、私たちを楽しませてくれると同時に、刀剣男士として真価を発揮するため、自分たちの拠り所となる物語を広めてより足場(存在)を強固なものとする意味があったのではないだろうか。
けれどそこにはきっと、それだけではない想いも込められている。
曽我兄弟がそうと願って果たせなかった理想像を演じきって見せることには、かつて一時縁を結んだ儚くも気高い人の子の兄弟への、彼らなりの手向けの気持ちが込められていたのではないか。演じた二振りの心に思いを馳せずにはいられない。
…はい。長々とお付き合い頂きありがとうございました。5日夜と6日昼を観劇して丸2日近く悶々と考え、観劇済みのフォロワーさんに協力頂いて議論を重ねた末の私の個人的な着地点がこうなりました。違うなって思われるところも多々あるかと思います、あくまでも1つの可能性です。ご容赦を。そして歌詞や台詞はライビュ含め計三回では記憶と聞き取りの限界なので、今後分かったところから修正していこうと思います。
曽我物語と現代語訳等は小学館の『新編日本古典文学全集53』(校注・訳:梶原正昭ほか、2002年)を参考にしています(本文の底本は「大石寺本」曽我物語)。鞄重かったけどホテルに持参して観劇直前まで読み返してた甲斐がありましたね…。
確かに度肝を抜かれて初見でぽかんとしてしまったけれど、私がずっとずっと見たかった彼らの互いへの気持ち、関係性、人への気持ち、などといったものが、様々な要素がちりばめられ融合した重厚な本気の舞台から垣間見えて感謝と感激しかないです。
構成についてのあれこれは、初見から何となく兄弟の重ね合わせを感じて考えていたところ、2度目に双つの軌跡~刀剣乱舞を観ていたときにカチリと鍵が合ったような衝撃とともに全てが繋がって、鳥肌が立つのを覚えました…。
本当に髭切と膝丸、そして三浦くんと高野くんと、茅野さん御笠ノさん浅井さん他全ての製作陣がいらっしゃったからこそ出来上がった最高の意欲作品だと思います。源氏を、刀みゅ本丸を、キャストの二人を推しててよかった。。
そして加納さんの力が際立ってましたね。なんてすごい方が存在するんだろう。語り部と母役との切り替え、クラシックに合わせて舞う、などなど圧倒的な演技で鮮やかに型破りまで織り混ぜて魅せてくださるのに目が離せませんでした。
本当に皆様お疲れ様でした。
正直今すぐ円盤と戯曲とアルバムと歌詞カードが欲しいです。本当にありがとう源氏ばんざい…!
そして!再演おめでとうございます!!!!