昨日観た「関心領域」の感想です。ごにょごにょしているけれども許しておくれ。
昨日「関心領域」を観ました。
ごく個人的な、そして卑俗な小市民としての感想としては、観ずに済ませられるなら観ないでいたかった映画ではあります。”The Zone of interest”というタイトルには、観ずに卑劣であることを選ぶか、観た上で卑劣であり続けるのかを迫るような、怜悧な誠実さを感じずにはいません。その意味で、邦題となった「関心領域」も実に巧みで考え抜かれたものであるように思います。
私がこの映画を観てすごく辛かったのは、これが私自身を含めた観客の小市民的態度を陰に表に非難するものであるからです。あるいは「小市民的態度」というのは精一杯の虚勢を張った欺瞞的な言葉であり、この映画の邦題タイトルに倣うなら、「他者に対する無関心」と言い換えるべきかもしれません。
あらかじめ一点だけ言っておきます。この映画を見て幸せになることはありません。義憤に駆られたとしたら、はたしてそれは欺瞞的な態度なのではないのかと、一度振り返ってみて欲しいです。その上で、これは優れた映画であると私は感じますし、多くの人に観てほしいと思います。
これは私のごく個人的な感想であり、映画に対する細かな批評や解説が欲しい場合、ぜひ私より幾段も優れた視点と実績を持つ人々が書かれたものを読まれることをおすすめします。とは言ってもこの映画の主題は極めて明確であり、それについて改めて語ることを野暮に感じるほどです。
大雑把にこの映画について言えば、これは「音」の映画です。音というのは面白いもので、物理的現象でありながらも質量を持たないため、人々は簡単にこれを無視することができます。映画冒頭、真っ白な映像の中で聞こえてくる鳥のさえずりが、この映画がこれから行おうとしていること、加えてこの映画の登場人物たちが(あるいは我々自身が)、聞いている「音」というものを示しています。
すでに予告を含めた事前の情報で明かされている通り、この映画はアウシュビッツ収容所から塀を一枚挟んだ邸宅で幸福に暮らす、ヘス一家を描いた物語です。そして恐ろしいことに、この物語は終始この一家の極めてドメスティックなレベルでの幸福の物語だけを描いています。
この映画におぞましい映像は一切出てきませんし、恐ろしい展開も起こりません。それらはすべて画面の外で起こり……スクリーンからは僅かな音が、まさしく物語の通奏低音として聞こえてくるだけです。わずかな想像力さえ働けば(そして歴史に関するわずかな知識さえ持っているなら)、スクリーンの向こう側で起こっていることを想像するのは、そう難しいことではないでしょう。
むろんそれは、映画で描かれるヘス一家に関しても同じです。けれど一家はその音を一顧だにせず、主要な登場人物であるルドルフと妻のヘートヴィヒの主な心配事は、彼の転属によって、それまでにアウシュビッツの地で、彼らが一から築いた邸宅と菜園、プール付きの庭園をすべて失ってかもしれないことです。この問題は、劇中まったく驚くべき切実さをもって語られます。実際、この物語がもし例えば「ダウントン・アビー」のような物語なのであれば、これは切実極まりない問題と言えるかもしれません。
劇中の細かな出来事について語ることはしませんが、この映画には、このヘス一家の幸福な生活に対して、2つの異なる立場を取った人物が登場します。一人はヘス家の妻ヘートヴィヒの母親である老婆、もう一人が名もなきポーランド人の少女です。
ヘス一家の世話になるためにアウシュビッツにやってきた老婆は、ユダヤ人に対する蔑視を顕にしているという点で一家と全く変わるところのない人物ですが、唯一違うのが、彼女はアウシュビッツの邸宅での生活を拒絶したことです。この邸宅でしばしの時間を過ごした彼女は、置き手紙を残してそこから去ります。
もう一人、ポーランド人の少女は、ヘス一家とは全く無関係の人物です。彼女は夜ごと野外の強制労働場所に忍び込んでは、収容されている人々のために僅かな食料を隠します。私も映画に関する記事を読んで知ったのですが、これにはモデルとなる実在の人物がいたそうです。
老婆は眼の前におぞましい事実に対して目を閉じ耳を塞ぎ、無関係の場所で生きることを決めました。少女は死を運命づけられた人々が、ほんのいっとき飢えを和らげるための手助けを行いました。この二人の人物は絶滅収容所を前に異なる行動を取りはしましたが、歴史的事象に対してなんの影響力をも持たなかったという点においては、ほとんど変わることがありません。
老婆と少女、二人の行動が世界に対してなんの差も産まなかった以上、違いはほとんどが内面の問題、自身の良心に対してどの程度のコストを支払うことができたのか、という点に尽きると、私は考えます。言うまでもなく、老婆のコストは軽く、少女のコストは重いものです。
私が最も辛く思うのはこの点で、私自身の態度は限りなくこの老婆のものに近いであろうという自覚があるからです。そして自分自身でも不愉快なことに、私自身は自分でこの立場と変えられるとも思っていないのです。それが極めて卑劣な態度であるという前提を認めた上で、私はこれ以上このことについて語れる言葉を持ちません。
我々は少女であるべきなのでしょう。自身と関係のない問題から単に離れることを選んだ老婆の態度は、彼女の品位をぎりぎりのところで救いましたが、その品位は少女であることを選べなかった卑劣な品位であるからです。
この映画は、歯に衣着せぬ現実を突きつける形で幕を下ろすのですが、できればぜひ劇場で見ていただきたいと思います。真っ暗なスクリーンに扉が空いたとき、我々が観ていたものは遠い世界の出来事なのではなく、自身の地平と地続きのものであったことを否応なく突きつけられることになるのです。
最後に、孫引きになってしまうのですが、「関心領域」に関する解説記事(https://moviewalker.jp/news/article/1199714/p3)から、本作のジョナサン・グレイザー監督がオスカー授賞式で行ったスピーチの一部を引用しておきたいと思います。
「私たち作り手の選択はすべて、“いま”を映しだし、対峙するためになされました。『あの時彼らがなにをしたのかを見ろ』と言うためではなく、『いま私たちがなにをしているのかを見ろ』と言うためのものです。
私たちの映画は、人間性の喪失が最悪の結果を生むことを示しています。それは私たちの過去と現在すべてをかたちづくってきました。
私たちは、ユダヤ人であることやホロコーストを奪い取り、罪のない多くの人々を巻き込む紛争、占領の正当化を拒む人間として、ここに立っています。
イスラエルの10月7日の犠牲者であれ、ガザへの進行中の攻撃であれ、この人間の喪失がもたらしたすべての犠牲者に対して、私たちはどのように抵抗するでしょうか。
アレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェック…この映画で輝いている少女のモデルとなった女性は、そうすることを選びました。私はこの賞を、彼女の記憶と抵抗に捧げます。ありがとうございます」