土日を溶鉱炉に投じて劇場版スタァライトの感想書きました。なぜか1万5千字くらいある(暇なのか?)
#劇場版スタァライトネタバレ
そもそも自分が最初に少女歌劇レヴュースタァライトという作品を見たのは、放送からから少し遅れた2年ほど前の正月に、他のアニメと一緒に一気見した形だった。なので、リアルタイムでの作品の盛り上がりや考察といったものには触れておらず、作品に対する理解も非常に浅かった。
そのためか、作品の脇を固めるキャラクター達、具体的には露崎まひるの野球回であったり、双葉香子のレヴューの私物化であったり、大場ななのクソデカ執着であったり、星見純那のがむしゃらさであったり、天堂真矢のthis isだったり(?)、西條クロディーヌの巨大感情だったりと、そういった脇を固める魅力的なメインキャラクター達をうんまいうんまいと咀嚼していた。その一方で、メインキャラクターである愛城華恋と神楽ひかり、その二人のメイン軸となる、戯曲スタァライト周りの話は、面白くはあるものの、他の分かりやすいキャラクター達の関係性に比べると少しだけインパクトに劣る気がしていた。もちろん8話のリクリエイトを流した格好いい戦闘シーンだったりは非常にいいのだが、その辺りも正直意識が大場ななに集中してしまっており、本筋に集中しきれていなかった部分がある。
…あと、最終話の一番盛り上がるシーンでキリンがいきなり話しかけてきたせいで没入感をそがれ、そのせいで最終話はあんまり見返してないものあるかもしれない(何の話?)(いや実際女の子二人の物語に没入してたらいきなりいい声のキリンががっつり話しかけてきてお前は俺だしてくるの、泣いちゃうんだよな)
ともかくとして、アニメ版レヴュースタァライトはキャラクター達に対して非常に愛着を持ちつつも、一方でメインストーリーに関してはそもそものオーディションが分かるといえば分かるがとはいえよく分からない&終盤辺りの展開がその前の展開に比べると若干パワー不足に感じたことから、作品としては好きだが踏み込んで解釈等をしたりするほど入れ込むわけでもない、というぐらいの立ち位置の作品に自分の中でなっていた。
もちろん、アニメをリアルタイムで視聴し、TLのオタク共の考察や自分自身もワイワイと盛り上がったりしていればまた違ったかもしれないし、休みが取れる時に一気に視聴し、そのまま日常に戻るというまとまった休みの時に視聴したのもいけなかったかもしれない。実際、劇場版を鑑賞したことから作品熱に火が付き、再履修する過程で終盤の展開もパワーあるな~となったし、当時はほーんくらいだった愛情華恋に関しても、今では一番好きなキャラクターとなった(これは嘘。トップクラスに好きになったは事実だが、それはそれとして大場ななと星見純那に魂が囚われている)
ただ、やはり愛情華恋に対する「動機も役割も分かりやすいが、それ故にキャラクターに厚みがない」といった印象、「終盤に流石にキリン喋りすぎちゃうか?」といった感触、また細かい点で言えば、演劇がテーマではあるが、とはいえオーディションはやはりバトルシーンであり、そのために演劇ものとして見た場合は演技をする、舞台に立つという部分が雰囲気になっているなど、いくらか気になる点があったのも事実だ。
…ここで、なんで劇場版の感想を見に来たのにアニメ版の気に入らなかった点を指摘されないといけないんだよ、と感じる方もいるだろう。それは分かる。ただ、自分も単に作品の気になったところを擦るのが好き、というだけの男ではない(そういう部分があるのは否定しねーのかよ)。ここでわざわざアニメ版の気になった点を挙げたのには理由がある。それは、今回公開された劇場版において、これらの気になっていた点が見事に解消されており、むしろ作品のストロングポイントと言ってもよいほどに強化されていたからである。それに加え、アニメ版時代からの武器であるレヴューシーンの演出に素晴らしい楽曲の数々、熱い関係性が織りなすキャラクターの魅力、それらはそのまま劇場版スケールにパワーアップしていた。
その結果、劇場版少女歌劇レヴュースタァライトという作品は、圧倒的な映像とそれに組み合わさった音楽に乗せて繰り出される女女巨大感情パンチという極めて分かりやすいエンタメ部分がある一方で、主人公を取り巻く物語を丁寧に整理し、その上で演じること、舞台に立つということの意味を鮮やかに描き出した演劇物語としてのエモさを有し、その上でとある小道具を活用することで、没入感を損ねない、喋り過ぎない形で観客を物語の中に参加させることにすら成功した、怪物的な面白さを持つ大演劇青春作品として、アニメ版からの見事な再生産を果たしていたのだった。
さて、というわけで劇場版について語っていく。と、その前にチェックしておきたのがこちらのインタビュー記事、その第3回だ。
https://cinema.revuestarlight.com/news/800/
このインタビューは劇場版スタァライトに関しての古川監督のインタビューで、そこでは映画におけるテーマ、各レヴューの演出意図や制作時のエピソード、そもそもスタァライトという作品はヤンキー漫画であるというざっくばらんな、しかし分かりやすい解説など、非常に情報量が多い。だが、ここで引用したいのは第3回インタビューの次のような部分だ。
『――最後のレヴューシーンは「華恋×ひかり」です。これはバトルではなく、異色の構成ですね。
古川 今回の映画ではレヴューのアクション以上に、愛城華恋というキャラクターを丁寧に描いてあげたかったんです。そもそも完全新作を作るにあたって、最初に考えたのがそこでした。というのも、TVアニメの華恋ちゃんは完全無欠なスーパーヒーローすぎて、それゆえに共感できる人が少なかったんですよ
――たしかにTVアニメではポジティブな面が強調されていて、深い内面までは描写されませんでしたね。
古川 そうなんです。それは僕を含めたスタッフ全員が感じていたことですし、なにより華恋役の小山百代さん自身もそう考えていました。TVアニメの制作中も「私は少しネガティブに考えてしまうこともあるので、華恋ちゃんのことをちゃんと分かっていあげられないかもしれない」と悩んでいて。小山さんの気持ちになって考えると、自分が演じるキャラクターのことをよく理解できないまま舞台でもアニメ演じ続けるって、これはものすごく怖いことだろうなと思ったんです。しかも、それが主人公で、舞台においては座長を務めるわけですから、その恐怖はなおさらですよね。その「不安と揺らぎ」が劇場版での愛城華恋のキャラクターそのものになりました。この華恋の気持ちの先を描くのは、僕らスタッフやお客さんの望みとも一致するだろうなと思いました。
――本作では序盤から華恋の内面をたっぷりと描写して、最後まで舞台少女としての「覚悟」が持てない、臆病で繊細なキャラクターとして演出していますね。
古川 TVアニメの華恋と比べて人格が変化しているわけではないのですが、幼いころからのエピソードを積み重ねたことで、奥行きが生まれたような気がします。』引用終わり。
さて、このインタビューで触れられている通り、本作における愛城華恋のキャラクター性はアニメ本編の運命を捻じ曲げて幽閉された神楽ひかりを救い出す王子様のそれではなく、あくまで年相応の一人の少女として悩み、葛藤する愛城華恋として描かれている。その描写は映画冒頭の別れの舞台において、本編で二人の約束を叶えてしまったからこそ、そこから先に道を見いだせない姿から始まり、そこから作中で繰り返し描かれる回想シーン、キリンが言うところ役作りにおいても、幼少期の内向的な性格や自身が決めた約束を元に見ない、聞かないと自分を抑え込む姿、そして最後のレヴューにおいて舞台の恐怖に耐えられずに命を失うと、徹底して弱弱しい姿が描かれている。その上で、復活して名乗り口上を上げた後にさえもあっさり剣が折れてしまうのだから、その描写の堂に入りっぷりは徹底している。
では、そうした華恋を立ち直らせるために必要なのは何かといえば、インタビュー①でも触れられている舞台に立つ覚悟である。だが、覚悟と言ったところでそれが簡単に出せれば苦労はしない。というわけで、本作においては舞台少女が舞台に立つための覚悟、それを取り戻すために必要なものとは?というのが繰り返す描かれる。そのため、他のメインキャラクターの面々もまた、舞台に立つ覚悟を失った存在としてワイルドスクリーンバロックに参加し、ケリをつける。つまり、この映画におけるレヴューシーンは、それ自体が独立して楽しめるシーンとして機能し、キャラクター達の関係性を清算する舞台として観客を引き込みつつ、その中で繰り返し描かれるテーマや、共通した演出が、ラストレヴューとなる「最後のセリフ」に繋がる布石として機能している。だからこそ、これらのレヴューは通し番号が振られており、「最後のセリフ」はワイルドスクリーンバロックの終幕となっているのだ。
つまりこの作品は、レヴューシーンは当然として途中の進路指導や遥かなるエルドラド、決起集会なども含めた、全てのシーンがラストレヴュー、最後のセリフの一言に繋がるために構成されていると言ってもよい。その美しい大団円構成こそ、個人的にはこの映画の最大のストロングポイントだと感じている。
では具体的に、その共通してレヴューで描かれる行為とは何か?それは、まとめるなら「不釣り合いな関係を対等なライバルに戻す」「舞台の破壊と落下」「別れと再会」といったものだ。怨みのレヴューにおいては、香子に世話を焼き続けた双葉が別れを告げるために香子と対峙し、デコトラによって清水の舞台を破壊、そのまま飛び降り、そこで別れを告げる。しかしそれは香子の傍にいられる存在となるための別れだった。狩りのレヴューにおいては、大場ななによる過剰な執着を受けていた純那が彼女の用意した舞台を次々に切り捨て、照明となり二人を照らしていた逆さのスタァライトの塔は落下し、聖翔音楽学院を模した舞台は滅茶苦茶に破壊され、その中で落下しながら純那は大場ななの上掛けを落とす。そして二人はポジションゼロに導かれ別々に道へと歩んでいくが、それは永遠の別れではないことが示唆される。魂のレヴューもまた、天堂真矢の二番手に甘んじていたクロディーヌが自身の姿を見惚れさせることで関係性を対等なライバルへと戻し、がらんどうの鳥を切り捨て巨大な聖廟のように変貌した天堂真矢の舞台を破壊、そして燃え盛る十字架の下で二人は「ともに落ちていく炎」として、遠く離れた地であっても、何度でも戦うライバルとしてお互いの関係を確かめ合う。
と、ここまで書くとそれっぽいが、ここで「皆殺しのレヴューと共演のレヴューは?」という声が上がるかもしれない。確かに競演のレヴューにおいて、ひかりとまひるの二人は不釣り合いの関係から対等なライバルへ、と言うと違和感があるほどに二人に力の差があるし、舞台はせいぜいまひるが傷つけたくらいで競技場は無事なままだ。唯一ひかりが高所から落下するものの、別れと再会もまた別に強調されるわけでもない。まして、皆殺しのレヴューに至っては勝手に大場ななが大暴れしただけであり、いずれの要素にも該当しない。では、二つも例外がある以上は先ほど挙げた共通点は単なるこじつけなのだろうか?
だが、この場合考えるべきはこの二つのレヴュー、皆殺しと競演は、恨み、狩り、誇りのレビューとは異なる目的のレヴューである、ということだ。先ほどに書いたように、後者のレヴューは既存の関係性のスクラップ&ビルド、再生産が主題となっており、その過程で関係性において不釣り合いに低い方、赤い二つ星で言えば小さな方に当たるアンダードッグが、格上の側が用意した舞台、キャバクラ京都に学園に鳥バード2021を破壊して喰らう、アップセットである。
一方、皆殺しのレヴュー、競演のレヴューは、支配的な側として舞台に現れた方が最後まで格下を倒し切り、支配側が用意した舞台が破壊されることもない。まひるの用意した競技場はいわずもがな、地下鉄での移動シーンの広告に大量に描かれる「発行部数777万部」「幸運を導く7の法則」や扉の7の文字など、頻出する「なな」という数字からも、あの電車のステージが大場ななの用意した舞台、その支配的な場であることは明白だ(つーか刀持ってくるし血を噴出させるのも全部大場ななに都合いいしね)
そして、これはもう説明はいらないだろうが、皆殺しのレヴューの目的が腑抜けている舞台少女達に死を自覚させ、舞台に立つ気力を与えるために一度「死」を与える(ただし、天堂真矢は唯一上掛けを落とされていない)ためのレヴューだったならば、当然にそれと同じくまひる側が最後まで舞台を掌握した競演のレヴューもまた、腑抜けた舞台少女を一度殺し、再生させるための荒療治だったと言える。当然、その対象は皆殺しのレヴューに参加していない神楽ひかりである。
競演のレヴューでは早々に上掛けを落とされ、にもかかわらずに演技をするように迫られた神楽ひかりは必死に舞台袖を逃げ回り、ついには追い詰められて舞台より突き落とされ、死ぬ。そして落下した先にて、自身が華恋の元を去ったのは華恋が怖かったからだったと告白する。しかし、その言葉を聞いたまひるもまた、自分も舞台が怖かった、と告白する。そうして舞台の恐怖を分かち合ったひかりは、まひるによって与えらえた金メダル、新たな上掛けを纏い、ライバルキャラクターであるミスタ―ホワイトとスズダルキャットが持つゴールテープを切って、ポジションゼロを超えて進んでいく。こうして神楽ひかりはまひるによって殺され、蘇るという過程を経て再生産し、進んでいく。
「怖いよね眩し過ぎて」
「だけど今は一人舞台じゃない」
「心をさらけ出したら もっと素直に演じられるの」
「私たち舞台少女 舞台裏で流した涙も その訳も教えて欲しい」
「ライバルだから 分かち合えるの」
また、このシーンにおいてひかりがまひるのことを舞台少女ではなく「舞台女優」と呼ぶのも非常に示唆的だろう。舞台少女は、成長を繰り返し、やがては果実の時を終えて少女から女優へと変わる。舞台の恐怖に耐え、舞台で生きていくと心に決め、同じく恐怖に震える舞台少女にきらめきを与える。まひるがひかりを再生産させる役として選ばれたのは、彼女が既に少女から大人へと成長する覚悟を決めていたからに他ならなかったのだ。(なんだか強いお酒を飲んだみたい)(は?私たちはまだ未成年なのだが?酒とか飲めないのだが?)(プシャアッッッッッ)
さて、こうして「舞台に立つ恐怖」もまた舞台少女が乗り越えるべきものとして提示されたわけだが、同じく舞台にまつわる恐怖を明確に示すシーンがある。それは決起集会における眞井霧子が、拡声器によって行ったパフォーマンス。「あぁ~~~~~!!!!怖いなぁーーーーーーー!!!!」という叫びである。そもそも決起集会は大場ななの進路指導のシーンの際に「明日の決起集会までには~」という雨宮詩音の台詞があり、そのことからスタァライト序盤の時系列的は進路指導→翌日に皆殺しのレヴュー→その日の夜に決起集会、というタイムスケジュールになる。そのため、このシーンに参加するオーディション組は大場ななによってぶち殺された後であり、唯一殺されなかった天堂真矢以外は一様に沈んだ顔をしている。しかし、この決起集会にて雨宮の脚本は間に合わず、そのことを指して眞井は自分たちも先輩たちも、卒業の舞台なんて初めてだったし、だからこそその恐怖は当然にある。しかし、だからこそ最高の舞台にした、、互いに励まし合い、乗り越えられる、と叫ぶ。それに呼応するように、99期生、オーディションメンバーではない生徒たちがこのセリフをやりたい、演じたいと次々に名乗りを上げる。当然、ここでの舞台は戯曲スタァライトであり、ならば女神役の最有力候補はメインメンバーたるオーディション組である。しかし、普段作中でスポットライトが当たらない彼女たちもまた、舞台に立つものとして全力で主役を奪おうとキラめき、決起集会の終わりをまたずしてあちこちで練習を始める。その姿を見て、ようやく沈んでいたオーディション組も自分たちが狙われる立場だったことを思い出し、まるで女神役を演じるのは当然といった調子で浮き足立っていたことに気づかされる。
また、このシーンにおいて読み上げられる第101回のスタァライト、その脚本にあるセリフもまた、本作において繰り返し引用されるセリフだ。
「囚われ変わらない者は、やがて朽ち果て死んでいく」
「だから、生まれ変われ。古い肉体を壊し、新しい血を吹き込んで」
「今いる場所を、明日には超えて」
「今こそ、塔を降りる時」
「たどり着いた頂に、背を向けて」
「私たちはもう、舞台の上」
これらのセリフは、冒頭シーンにおける神楽ひかりを皮切りに、作中において繰り返し使用される。その意味は、この決起集会を見れば明白である。舞台少女とは塔の頂上を目指して再生産を繰りかえしながら進み、常に進み続ける存在だ。故に、たどり着いた頂きに満足し、そこで歩みを止めたものは死んでいく。血を吹き込み、上り詰め、手に入れた塔の果ての憧れの舞台でさえも、すぐにそれに背を向けて、新しい舞台を目指し歩いいく。それこそが舞台少女の本能なのだ。その大原則は、裏方として塔を起き上らせ、支える大場ななのセリフによって補強される。
「おやつの時間はもうおしまい。飢えて乾き、新しい舞台を求めて。それが舞台少女。じゃあ、みんなは?」
皆殺しのレヴューにおいてオーディション組を切り伏せ、「私たち、もう死んでるよ」と言って去っていった大場なな。しかし、この決起集会における気づきによって、切り伏せられた舞台少女達は蘇る。そして西條クロディーヌは、皆殺しのレヴューの際に唯一上掛けを落とされなかった天堂真矢だけが大場ななの問い、「列車はかならず次の舞台へ、では私たちは?」という質問に「舞台と観客が望むなら、私たちはもう舞台の上」と返せた理由に気づく。
「私はもう、舞台の上……。だから、あいつだけが…」
そうして約束タワー→舞台少女心得という最強コンボと共にメインメンバーが覚悟を決めるわけだが、そこで突然画面を占有するのはサイケデリックな音楽と、全身を果実に変えたキリンである。そして、私たちはもう舞台の上、という言葉とともに、覚悟を決めたオーディション組は自身の死体を見つめ、一斉にトマトにかじりつく。そうして、激しいワイルドスクリーンバロックの本番が始まるわけだが、ここでなぜトマトを食す演出があるのだろうか?という点に付いても考察する。
まひるとの競演のレヴューで激励を受けた神楽ひかりは、そのまま駆け抜け、舞台の終点、約束のタワーにたどり着く。しかしそこに華恋の姿はなく、代わりに待っていたのは観客の化身であるキリンだった。まだ華恋は役作りの最中であると告げたキリンは、その姿を決起集会の直後と同じく野菜の集合体、アルチンボルドの絵画のような姿に変え、舞台少女に近づきすぎたことから炎上しながら落ちていく。舞台に火を灯すという役割を果たし退場したバイオ燃料キリンだったが、そのもとにはトマトが残されており、それを受け取ったひかりはそのトマトを齧って口から赤い汁を零しながら、華恋との最後のレヴューに臨むのである。
このように、トマトは荒野を進む舞台少女の腹を満たし、渇きを癒す燃料として扱われているわけだが、ではなぜトマトなのか?一つ上げるとするならば、やはりその果汁が血のように見えるから、というのがあるだろう。実際、口からトマト汁をこぼすひかりは吐血しているかのように見えたし、皆殺しのレヴューにおいて噴出した舞台装置の血が口に入った香子は「甘い」という言葉を発しており、これもまたトマト汁、あるいはトマトジュースだったのではないかと考えられる(もっとも、実際の血のりも甘いそうなので、それと自身の甘さにかけた言葉なのかもしれないが)(というか発音が重いとも取れるし、このシーンはマジで難しい)。つまり、柔らかい果肉と血のような果汁を持つトマトは、飢えて乾く舞台少女に吹き込まれる肉であり血ととして扱われ、観客はその熱量によって舞台少女たちを癒すこともでき、舞台少女もまた観客の熱量を食らって進むという関係性が示されることで、アニメ版における罪の要因としての観客だけでなく、むしろともに罪を犯して進んでいくという、共犯的な関係が築かれている。
なお、このトマトは舞台少女同士が投げ渡すシーンもあり、また冒頭の熟れて弾けるトマトは華恋自身の潰れた情熱、あるいは死そのものを示唆していると考えると、トマトを生み出せるのは観客だけでなく、舞台少女も可能であり、言ってみれば舞台少女は互いが互いを貪り食い、それによって互いの熱を増しながら進んでいくことも可能だと考えられる。実際、レヴューによって対等な関係となった者達は、そのようなことも可能だろう。特に天堂真矢と西條クロディーヌは、ともに燃えながら落ちていくという点において、非常に強い強度を持っている。
さて、こうして作中におけるシーンを整理すると、舞台少女の再生に必要なものが分かってくる。まず、決起集会を参照するに、舞台少女は例え舞台の中心に立ったとしても、そこからまた飢えて乾き歩ていく存在だ。そして、その飢えを満たすのは、観客であったり、あるいは同じ舞台少女が産み出すトマトを食らうことである。そして、舞台に立ち演じるということの恐怖、それを分かち合えるのは同じ舞台に立つライバルであり、そしてライバルを超えたい、舞台の中心に立ちたいという熱意こそが舞台少女を舞台少女たらしめるものなのだ。
では、愛城華恋はそれらの舞台に立つためのすべを持っているのだろうか?
約束のタワー、その舞台の上で、愛情華恋と神楽ひかりは対峙する。これまでひかりだけを見つめてが故に舞台の恐怖を知らない華恋は、ここで初めて観客の存在を意識し、舞台の恐怖を知る。そして、華恋がつぶやくセリフは「スタァライトを演じきったら、私には何もなくなってしまう」という、今も塔に囚われた台詞である。それに対してひかりは「それはあなたのセリフ?それとも本心?」と突き放すが、舞台の恐怖に耐えられずに華恋のトマト、すなわち情熱は弾け、華恋は死を迎える。
華恋の死体に取り乱すひかりだが、それでもまひるによって「演技」をすることを思い出させられ、観客から熱量を受けとっていた彼女は、土壇場で過剰なまでの演技によって、華恋の死を舞台の演出に取り込む。ピエタ像を思わせる悲劇の演出と、再生の懇願。そして、幼少期に送った手紙、それの再生産。どんな奇跡でも起きる場所、すなわち舞台の上で、ひかりは演技という武器によって、命を絶った華恋を蘇えらせようと試みる。
そして、その演技によって華恋はポジションゼロに姿を変え、再びレールの上を走り出す。そして流れ出すBGM、それはアニメにおける華恋の登場バンクシーンによって使用されたBGM「再生産」をアレンジしたロック調の音楽だ。そして、華恋の原点へ戻る旅の演出はーーーーなぜか、マッドマックス怒りのデスロードにおいて、車の上に磔にされたマックスのシーンのオマージュである。その理由はいくつかあるだろうが、一つには文字通りこの旅が行きて帰りし物語、舞台少女としての原点を探す旅だから、というのが大きいだろう。列車の車内にて、華恋は幼い日の自分と対面する。それは、舞台少女となる前の自分自身の姿だった。
さて、アニメ版において華恋の過去回想で触れられた範囲は、ひかりとの運命の交換をするシーンのみであり、そこから時間は一足飛びに飛び、二人の再開から物語は始まる。しかし、劇場版において物語の進行と共に開示されていった過去回想シーンは、神楽ひかりと出会ってから戯曲スタァライトを見る前の、互いに仲良くなっていった期間に触れられているし、またひかりと別れた後に、運命の舞台を目指し、不安に苛まれながらも努力する姿も描かれた。
幼少期にひかりと出会った華恋は、キラミラという女児用のおもちゃで遊ぶ内向的な子供であった。しかし、ひかりと触れ合うことで明るさを取り戻す彼女は、元気に遊び始める。しかし、ここで重要なのは彼女がひかりによって救われたという部分よりも、華恋には幼少期、キラミラを通してひかり以外にも友人がいた、という部分だ。ひかりはキラミラを持っておらず、それ故に友人である華恋が他の友達と仲良くしていることに寂しさを覚え、そこから自身が持つ「舞台」という特別性によって華恋に自慢しようとする。そうして訪れた舞台で、あまりにも眩しいキラめきによってひかりは心が折られ、舞台少女としてのひかりは死ぬが、そこで同じく舞台に魅了された華恋はひかりの手を取り、ここで二人の「輝くスタァに二人で」という運命が生まれたことから、ひかりは再生産される。
そして、ひかりと別れ劇団で舞台少女として修行する華恋。劇団アネモネで主役の座を掴む華恋だったが、それでも満足せずに上を目指し、叔母の勧めに従って国内最高峰の聖翔を目指すことになる。そして、同じ舞台を目指して頑張っているひかりに関しては「見ない、聞かない」というルールに従って耳を塞ぎ、運命を信じて舞台で待っている、と信じる。
中学生時代、放課後のファストフード店。放課後の楽しいひととき、新製品のドーナツのポスターとして東京タワーとドーナツが被ったポスターが示すように、おやつの時間、モラトリアムなのだが、そこでも彼女はその場を後にし、舞台に立つためにそれを捨てる。既に未来を考えていて偉い、という同級生の言葉に対して、突然生えてきた後方彼氏面メガネが「愛城にも不安はあるんじゃないか?(名推理)」と言う言葉を発する。その言葉が示すように、このシーンはテーブルの上に東京タワー以外にもさまざまなタワーのミニチュアがいくつも置かれ、また進路を決めていない同級生はコーヒーフレッシュを積み重ねてタワーを作り、それを崩すという演出が行われ、東京タワーという運命の舞台、そこ以外にもいくらでも道があったということが示される。しかし、華恋は舞台をという言葉を検索し、心の迷いを見せながらも、舞台へ向かう電車に乗り込むことでそれを押し殺す。
そして、再会するひかりと華恋。運命に従い約束を果たした二人の再会であり、アニメ版でも描かれたシーンだが、劇場版ではその時の華恋の心境が新たなに描かれる。それは、「見ない、聞かない」というルールを破り、ひかりが世界一入学が難しい王立音楽学校に合格した、という情報を調べてしまっていたことに対する謝罪。そして、約束を信じてくれていたことに対する感謝の気持ち。
アニメ版においては描かれなかった華恋の不安と揺らぎ、幼い日にかわした約束に従い、10年以上に渡り舞台少女として自らを燃やし続ける、そのような不確かな行為に対して、華恋は当然に迷い、不安を感じていた。そして、彼女には舞台少女としての運命しか存在しなかったわけではない。
幼い日に遊んだ、友人たちと思い出のキラミラ。家族と過ごす、大切な時間。放課後に友人たちとファストフード店でくだらない冗談をかわして過ごす、楽しい時間。それらが次々に華恋の前に示される。それらは、選ばなかった過去たちだ。
「選ばなかった過去たちへ 静かに注ぐ讃美歌を」
「あの日の私の続き 未来は笑えてていますか?」
「あまりに不確かな可能性を 追いかけてあの子は 何を燃やしてーー生まれ分かる」
https://www.youtube.com/watch?v=NKS8UccJp_I
再生産総集編劇場版、ロンド・ロンド・ロンドの主題歌である再生讃美曲の歌詞であり、その劇中ラスト、新作劇場版へとつながるシーンにおいて引用される「選ばなかった過去たち」。
その過去が渡すトマトを受け取り、舞台で約束のチケットを燃やし続けてきた華恋は最後に舞台に立つために、まだ残っていた文字通り彼女の全てを燃やす。劇中に描かれた回想シーンの舞台セットである華恋の家や部屋、そこの配置された品々は次々に燃やされ、ひかりとの想い出、運命の舞台へと誘った手紙もまた燃やされる。手を振り別れを告げる過去達もまた、トマトと共にエンジンの燃料として燃やされ、そうして推進力を得た華恋の列車は砂嵐を超え、半分に切られ横たわる約束タワー、約束マスドライバーを駆け上がり、一気に舞台へと戻ってくる。
なお、このシーンにおけるマッドマックスのパロディに関してはこのパートが行きて帰りし物語であること、マックスがキリストになぞらえられている磔刑のシーンであることに加え、この時のマックスが「輸血袋」であることも重要なのではないだろうか。マッドマックスにおいて、汚染された荒野で生きるためにウォーボーイであるニュークスは常に輸血しなければ生きられない。そのニュークスに血液を提供するマックスは、ある意味でトマト的と言えなくもないし、また作中で当初は捕虜という立場から徐々に対等な立場となり、死後にウォーロードに行くという、ずっと信じてきた運命を見失って思い悩むも、やがて新たな道を見つけて輝くニュークスは、今回の映画における常に血を欲し再生産していく舞台少女の姿に重ねられる。…本当か?????
そうして列車に乗って舞台へ戻ってきた華恋は、ここでようやく観客の前に姿を現し、舞台少女として力強い名乗りを上げる。
「星屑落ちて華は散っても、キラめく舞台に生まれて変わる」
「新たな私は未知なる運命、新たな私はまだ見ぬ戯曲」
「愛城華恋は舞台に一人…愛城華恋は次の舞台へ!」
これまで二人でのスタァライトの舞台に固執し、戯曲スタァライトという運命に囚われていた華恋は、過去の全てを燃やし尽くして過去を清算し、舞台に立つ。彼女は舞台にたった一人であり、それ故に彼女はようやく新たな戯曲、未知なる運命たる、次の舞台へ進むことに耐えられるようになる。しかし、彼女は他の舞台少女で言えば、皆殺しのレヴューや競演のレヴューにおける再生産を行った状態にすぎない。彼女はまだ、ケリをつけなければいけない。他の舞台少女のように、不釣り合いな関係を是正、舞台を破壊するために。
なお、愛城華恋が復活するシーンで流れるノリノリなBGMなのだが、これには明確に元ネタがあり、ジーザス・クライスト=スーパースターという、イエスキリストをテーマにしたロックミュージカルにおける、「スーパースター」という曲が使用されている。このミュージカルの特徴として、イエスキリストが主題でありながらその存在を超越的な宗教指導者ではなく、悩み、苦しむ人間としてのキリストの姿を描いた舞台である。
https://youtu.be/TeVQaIofHOE?t=66
マッドマックスにおける磔刑シーンの引用、また華恋を抱えるひかりのシーンは磔刑から降ろされたイエスを抱えるピエタ像を連想させるなど、この辺りの一連のシーンはキリスト教的なモチーフが多い。そもそも死と再生、というテーマの時点でキリスト的な要素が入るのは自然だが、そうして華恋をキリスト的存在として定義した上で、復活のシーンに引用するのがジーザス・クライスト=スーパースターという「人間としてのキリスト」を描いた作品である、という、まさしく「テレビ版における完全無欠のスーパースターから、悩み苦しむ一人の人間・愛城華恋へ」というこの一連のシーンは、テレビ版における愛城華恋に欠けていたバックボーンを補完し、人間性を付与するとともに、ともすれば荘厳で真面目になってしまいそうなキリスト教的要素を、ロックミュージックによる軽快な音楽&よりによってマッドマックスパロディ、というぶっとんだ要素によって強引にテンションを上げ、そのままクライマックスの名乗りへと繋げている。作品に宗教的モチーフを配置し、文脈から物語の強度を高めるというオタクが大好きなやつをやりつつ、しかし大前提としてアニメーション作品としての気持ちよさ、観客の盛り上がりも成立させる、本作のストロングスタイルな作劇を感じさせ、この映画全体におけるクライマックスとして、感嘆してしまう。
そうして華恋が舞台に立ったのと呼応し、ひかりもまたスポットライトを奪い取り、バチバチの照明演出効果とともに名乗りを上げる。
「私を照らせ、全てのライト! 私に見とれろ、全ての角度で!」
「今の私が一番ワガママ、今の私が一番キレイ。」
「舞台の上にスタァはひとり、神楽ひかり…私がスタァだ!!」
舞台の上を照らすスポットライトの下で、二人でスタァに。それを正面から否定するように全てのスポットライトを独占し、舞台の上でもっとも輝く、たった一人のスターとしての存在をアピールする。愛城華恋と神楽ひかり、二人のスタァが並び立ったなら、舞台の上に立つ「主役」はどちらか片方しかありえない。かくして、スーパースタァスペクタクル、「最後のセリフ」が始まる。
舞台の上で輝くひかり、その圧倒的なキラめきを華恋は見惚れ、同時に怖いとも感じる。ひかりが放つキラめきは華恋を貫き、復活したばかりのその剣を折る。復活した華恋はアニメ版のような強大なスーパースターではない。そして、ひかりの剣に貫かれ、冒頭部分でも投げかけられた「貫いてみなさいよ、アンタのキラめきで!」というセリフがひかりから投げかけられる。
ひかりのキラめきに圧倒され、そのキラめきに貫かれながら、それでも華恋は舞台で演じようとし、「最後のセリフ」を演じようとする。
それは、舞台少女に必要なもの。石動双葉と花柳香子が、大場ななと星見純那が、天堂真矢と西條クロディーヌが、舞台の上での対話を通して至った関係。露崎まひるが、神楽ひかりに舞台の恐怖を分かち合える存在として歌い上げた関係。互いに互いのトマトを差し出しあい、荒野の果てにある舞台、ここではないどこかに向かって走る彼女たちが、互いを高めあうことができる関係。舞台少女が、今よりも前へと進もうと足掻き、努力し続けることができる理由。それは――――
「私も―――“ひかり”に負けたくない――――」
「ライバル」。ひかり“ちゃん”との二人のスタァライトと言う運命から、華恋とひかりの関係性を新たに対等に定義しなおす、その最後のセリフを発した瞬間、華恋の胸の傷から無数の血に染まったポジションゼロがあふれ出し、ワイルドスクリーンバロックは終幕を迎える。
ポジションゼロ、それは舞台の中心。そして舞台の上に立つ主役は、たった一人しかいない。しかし、舞台の数は一つではなく、故に舞台の数だけ主役も存在する。愛城華恋が前に進む限り、彼女が立つかもしれない舞台の中心、無数の可能性は天を埋め尽くす星々のごとく、キラめきとなって夜空を満たす。
そして、二人の約束の象徴である東京タワーもまた、その可能性を噴出しながら分離し、互いに対等な高さとして地面へと降りる。たどり着いた頂きに背を向け、今日ではない明日に向かうために、今こそ塔を降りる時。そうして塔そのものが破壊され、その先端は舞台の中心、ポジションゼロに突き刺さり、レヴューの終わりを示す。大地に残されたタワーの土台部分は華恋の髪飾りである王冠の形を逆さまに示し、上から見た二つのタワーの断面は二つのひし形の星を形象し、運命のチケット、少女たちの髪留めが外されたことを示す。
そして、舞台少女たちは自ら上掛けを脱ぎ捨て、空へと放る。上掛けを落とすことを競い合い、舞台の主役を求めて戦った「少女歌劇 レヴュースタァライト」という物語そのものが、終わったことが示される。
「演じ切っちゃった…レヴュー…スタァライトを…。私、今、世界で一番空っぽだよ」
タワーから大地に降り立った華恋。約束のタワーから、新たに続いていく線路を見つけ出した彼女は、その道を歩き出す。その華恋を、ひかりは見送る。舞台少女の燃料、トマトを投げ渡して。
「じゃあ、探しに行きなさいよ。次の舞台を。」
「ーーーうん。」
かくして愛城華恋はレヴュースタァライトという舞台を演じ切り、そして次の舞台へ歩み始める。
舞台は終われど、人生は続く。舞台少女という衣装を脱ぎ捨てた彼女たちの舞台は、続いていく。
果てなき空 星を目指せ
恐れずに、進め
リズムに合わせて手を叩こう
踊るように歩こう、軽やかに
本能のままに ホップステップジャンプ
ステージは、続くーーーーーー
https://www.youtube.com/watch?v=Boch3W3r6Us
エンドロール、ゴスペル調で前を進むことを歌い上げる主題歌とともに、99期生たちの進路が示される。それとともに、二つに分かれた赤い東京タワーの土台と、ポジションゼロに突き刺さった先端部は画面の右上と左上に配置されている。このシーンの東京タワーの土台は、特に逆さまの王冠のアイコンのように見える。
そして、エンドロールが進む中で、その二つのタワーは星へと姿を変える。そして、やがてエンドロールの最後に二つの星は、大小の二つの赤い星ではなく、対等な同じ大きさの星として再び寄り添う。
関係性をライバルへと再定義し、運命の舞台を破壊し、少女は塔を降り、そして新たな道へ向かって別れを告げる。しかし、他のライバルたちが再開を約束したように、エンドロールの最後にて寄り添う二つの星は、いつかどこかの舞台で、二人が再び巡り合うことを示す。
エンドロールの終了後、新たな舞台のオーディション、そのポジションゼロに立つ華恋。
演じ切り、燃やし尽くした舞台も、彼女を形作る大切な要素として残る。それは、髪から外された王冠が今も彼女の鞄に残っているように。ノンノンだよ!というアニメ版において彼女が発していたセリフが、実際は幼少期に劇団で演じた役柄のセリフだったように。
彼女は演じ切ったレヴュースタァライトという舞台におけるセリフ、彼女の人生に刻み込まれた、キラめきを意味するワードを口にする。それは、愛城華恋のセリフではなく、言葉。
「1番、愛城華恋。みんなを――――スタァライトしちゃいます!!」
私たちはもう、舞台の上。
というわけで。最初に書いたようにアニメ版スタァライトにおいて、愛情華恋は約束の舞台を目指すためのスーパーヒーローとしてのキャラクター性が強かった。しかし、本作においてはそうした愛情華恋の人間的な弱さが改めて付与され、それによって彼女のキャラクター性と、ひいてはアニメ版における彼女が「レヴュースタァライトという作品の主役を演じる愛城華恋だった」という肉付けがされる。そして、迷い悩む愛城華恋と同様、他の舞台少女たちも迷い、悩む存在として描き、その上で舞台に立つことの意味、演じるための覚悟というテーマが執拗なまでに描かれ、その過程で観客としてスクリーンをのぞき、作品の熱量に当てられてワイワイと騒ぎ、2万字くらいあるクソ長い感想を書くような熱に当てられた観客たちの熱意もまた、作品を構成する要素として作中に改めてはめ込まれる。
その結果、劇場版レヴュースタァライトという作品は、きわめてシンプルなテーマを2時間の尺を使って補強し続け、そのパワーをもって映画のラストでぶん殴る、きわめて高い強度を持つ作品になったのだ。