
ということで。
https://skipturnreset.hatenablog.com/entry/2022/11/05/152311
映画『薔薇の名前』を久しぶりに観ていた。
なるほどなー、というか面白いなー、とか色々と。
諸々映画及び『栞と嘘の季節』の内容にも触れるので、詳細は↓のリンク先。
それはもう、その栞を密やかに挟むべき本として、これだけ相応しいものもなかなかないだろうと思わされる(と言い切るには小説版もまた読んでいかなくてはいけないけど。そちらはそちらで後日)。
なぜなら、『薔薇の名前』は重層的な意味で「毒」の本だから。
1:まず、作中において本そのものが直接的に死に至らしめる毒の罠であり。
2:更に、本の内容があるべき信仰を害する魂の毒である(と犯人は固く信じた)。
3:犯人が考えたその本の毒は「笑い」であり、「好奇心」であり「探求」だった。
だから、さらっと書いてある「僕は何となくその本に触れることをためらい」というくだりにも"それはそうだろう"と思わず笑ってしまいそうにもなるけど、実はその恐れはきっと、重層的に正しい。
なぜなら、
1:確かにその本には危険な毒が隠されてもいたのだし。
2:毒は「好奇心」や「探求」への戒め……どころでなく踏み入ることを断じて許さない絶対の否定のため用いられたのだから。
どんな本を手に取り読むか、どう読むか、どう本を扱うかが時に「人の心そのものを映し出」す以上、そして『薔薇の名前』なんてものはそれはもう多くを映す器にもなっているだろうからには、そこに「好奇心」から不用意に不躾に触れてしまうのをためらったのは、きっと正しいことだった。
それにしても、観た上で改めて振り返ると堀川次郎がこの映画について、
「人が感情を持つことにさえ理由と正統性が必要とされる世界を描いた、おそろしい映画だった」
の一言をもって感想としているのがやはり、なんともたまらなく面白い。
作品への感想というのも、たいへん興味深く"その人を語る"ものなのだという鮮やかな実例がまずここにある。
そして映画を観た上で二点、そこに感想を加えるなら。
1:映画の結末に明らかなように『薔薇の名前』の語り手は湧き上がる強い感情を自覚しながら、それを抱きそのために走り生きるまでの「理由と正統性」を見い出せず。
後に振り返り「後悔はしていない」などと語りつつもそんな言葉はあまりにも虚しい、大きな悔いを、互いに知ることも告げることもなかった「名前」に象徴される空白を人生に抱え続けた男だった。
一方でこの映画/小説に接した堀川次郎は、東谷図書委員長の人生はどうなっていくのだろう。そんなことも思わされる。
2:『薔薇の名前』の犯人が特に忌み嫌い、全てをなげうってでも否定しようと躍起になった感情はなにより「笑い」、とりわけ神の権威の否定としての「笑い」だった。
となると『栞と嘘の季節』において「笑い」、中でも特になんらかの権威や抑圧やある種のパターナリズムといったものを否定するように働く「笑い」はどのように描かれていたか。人が持つ感情とその表現の中でも、特にそこに改めて注目してみたいとも思わされる。
それは冒頭に『薔薇の名前』がこうした形で提示されることで、作品全体に及ぶ形で読者に投げかけられた影なのではないかとも思える。
それと作中で映画『薔薇の名前』を観たことがあるのは堀川次郎だけではない。
「「『薔薇の名前』か。すごいのを借りたやつがいるんだな」
「読んだのか」
「映画は見た」
友よ。
松倉は僕の手から『薔薇の名前』下巻を取って、ぱらぱらとページをめくり始める。無遠慮なめくり方に、思わず警告する。
「ミステリだから、あんまり先を読むなよ」
松倉は生返事を返す。
「わかってる」
そうしてさらに、本をめくっていく。その松倉の指の動きが不意に止まり、人差し指と中指が、何かを挟む。松倉は、少し笑った。
「調べてよかった。今日だけで三件だ」
その指の間に挟まれているのは、栞だった。きれいな花を使った栞だ。僕は言った。
「今日いちばん、本に挟まっているのにふさわしい忘れ物だな」
松倉が栞を、カウンターに置く」
(p18)
松倉詩門は映画『薔薇の名前』にどんな感想を抱いたのか。「すごいのを借りたやつがいるんだな」より踏み込んだ言葉を聞いてみたいものだとも思う。
ただ、作品への感想という形でなくても対照的に示されているものがはっきりある。
例えばここで堀川次郎は「僕は何となくその本に触れることをためらい」と接したものに「無遠慮なめくり方」で臨むのが松倉詩門なのだ、という。
なお、映画『薔薇の名前』で「無遠慮なめくり方」で問題の本に接した登場人物たちはどうなったっけ、と思いを巡らすのもなかなかに趣き深いものがある。
もしも、だいぶ性質の異なる相棒が今後も人生において肝心な時にその側にいてくれる、というありがたい助けを欠いてしまうようなことがあるならば。
きっと松倉詩門に待つのもそのような運命であるのかもしれない。