パライソ鶴丸の原城の歌、この城は大劇場 始めようか大演奏 轟かせよ三万七千の鼓動 歴史に残るライブをしようぜって、まさか刀ミュ最大会場のさいたまスーパーアリーナのキャパがちょうど三万七千人だったのと掛けてませんか。なんて皮肉
思えばパライソの任務中の鶴丸の歌の台詞回しって最初からなんか少し妙で、「マイネームイズ四郎」の時点からやたらと横文字、というか英語やカタカナ語が乱舞してるんですよね。
最初はテーマがパライソでキリスト教だから若干洋テイストを混ぜてきたのかな?と思ったんですけど、だとしてもこの時代のキリシタンが使う言葉って英語じゃなくて、宣教師の言葉であるポルトガル語が語源のはず。実際山田右衛門作の歌詞は「ゼズス様」なり「ガラサ」なりちゃんと考証されているのに、鶴丸の歌詞のこの浮きっぷりはなんだろうなーと不思議になったんですよね。今までの公演から考えても、刀ミュの一部曲の歌詞ってすごく「その時代・地域にあるべき言葉」に厳密に作ってあるので、そのルールに反するようなことをあえてするだろうか、と。
まず理由のひとつとして考えられるのは、鶴丸のスタンスとして「この時代の人間と言葉を交わす気がない」ということ。彼はあくまでこの物語を後世から俯瞰する存在で、神のように超然とした存在として己を演じていて、脈絡なく後世の言葉である英語を引用してもそんなに違和感はない。その時代の人間を理解する必要も理解される必要もないので共通言語を使う必要がない。例外的に右衛門作と会話を成立させる時は、必ず彼の言葉である「おろろんばい」が挟み込まれている。
そしてもう一つ、刀ミュには刀剣男士がルール無用で英語やカタカナ語の歌詞を使いまくれる「二部」っていう文化があるんですよね。なぜならそれが現代という時代の言葉だから。今回の鶴丸の歌を聴いてると、なんだか二部のノリが一部に逆輸入されてるような感があって、原城の歌ではとうとうそのものずばりの「ライブ」なんて言葉まで出てきてしまった。まさかその悪趣味は確信的にやっているのか。楽しいカウンセリングの二部ライブと惨劇の舞台である原城の熱狂をなんか故意に重ね合わせようとしてないか?
ところで三万七千人のライブの規模ってどのくらいなんだろうか。TDCホールのキャパはせいぜい三千人くらいしかいなかったはずだからこの十倍以上、それならもっと大劇場なら……大会場……(ググる)……あれっ過去に人数が完全一致する会場があるんですが? 待って嘘ですよね??(ここで冒頭に戻る
さいたまスーパーアリーナって2019の歌合で使われてますから、あの鶴丸ってメタ的には「三万七千人のライブ」を知ってる鶴丸ってことになるんですよね。一人一人違う声を持ち、違う色のペンライトを振る群衆の熱狂ってものを肌で知っている。鶴丸の目から見ればライブに熱狂するファンと原城の群衆は何も違わないものに見えたのかもしれない。それにしても趣味が悪いが。
そして私たちもまた知っている。一人一人抱く思いは違いながらも、同じ熱狂に飲み込まれる群衆の一人となることを。見渡す限りのペンライトの光の海を、轟くような歓声を、感覚を伴った実感として知っているということ。
「三万七千人、ただの数字じゃないんだ、それぞれ命があったんだ、生きていたんだ」という鶴丸の言葉が、いきなり物理的な空気感と圧力をもって感じられてしまったんですよね。実際の体験とリンクさせられたせいで。あの大会場を隙間なく埋め尽くすだけの人間が集い、そして皆殺しにされたのだという事実のその恐ろしさ、おぞましさ。積み上げられた死体の山の高さと流された血の途方もなさが。
最近の刀ミュカンパニーの方針として、心覚の頃から明らかに一部と二部の境界線を取り払おうとしてるなあと思う。
「歴史に残った存在だけが歴史を作ったのではない、語られなかったものも確かにそこにあり、同じように守られるべき歴史なのだ」というテーマを、「現代を生きる私たちもまた守られるべき歴史である」という慈しみとして届けてくれたのが東京心覚であったように、「残酷な歴史の中に数字としてしか残されなかったものは、一人一人命があり、現代を生きる私たちと本質的には何も変わらないものだったのかもしれない」と目を逸らしてはならない現実として突きつけてくるのがパライソなのだと思いますね。