119話感想と進撃における死について。巨人展のバレ有。
私は、エレンは死んでしまったと思っています。1番の理由は、期待してこれ以上落ち込みたくないから。それに尽きます。根拠はない。推しの命を諦めたくはないけれど、やっぱり私は私の気持ちが大切で、これ以上ショックを受けたら本当に、人生規模で立ち直れない。だから、私は今回エレンは死に、誰かが捕食し、エレンの思いややりたかったことは捕食した誰かが語るんじゃないかなあと思っています。あの状態で捕食して継承出来るのかは謎ですが。
ライナーが見せた意識の集中やこねこね少女など可能性はあるけれど、期待したくないのできっと起こらないだろうと思っています。特にこねこね少女に関しては、進撃にしては珍しくパワープレーだな、なんて思いました。あれが起こるのであれば、今まで死んでいった方々はなんだったのか…。これは必ず回収してほしい。でないと、あまりにやるせない。
それと、私は弱い人間なので、ガビが本当に許せない。「彼女も可哀想」という意見も分かってはいるのだけど、おそらく出てきた頃からずっと苦手で、サシャを撃ったときには嫌いだなあと思い、今回憎いに変わりました。器の小さな人間だということは分かっています。ごめんなさい。
あとエレリ的観点で言うと、一番恐れていた死に方でした。エレンも兵長も離れ離れで、お互いの死を認識することさえ出来ない。この6年「これだけはやらないでくれ」と願っていた事態が発生し動悸と息切れが止まらない。
「待て」って言ったシーンやジークに駆け寄っていくシーンのエレンはなんだか15歳の頃の面影が残っている気がして、少し嬉しくなったりしたんだけどなあ。まあ本当、束の間のよろこびだったんですが…。
進撃における"死"について
今まで進撃を読んできて何となく物語を一貫して流れているのは、「死」は"平等で凄惨でどうしようもない搾取である"ということだと思っています。石原吉郎と似ていますね。彼は"死は、〈人間の側からは〉、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからざるものであり、絶対に起ってはならないものである"と表現していたけど、同じようなことを諌山先生は死生観として持っているんじゃないかなと勝手に思っていました。巨人になれる人間も、そうでない人間も、王様も貴族も平民も、兵士も一般人も、大人も子供も、強大な死という理不尽を避けることは出来ない。綺麗に最後を迎えたり、誰かに何かを言い残して死ねるなんて万に一つもない。だからきっと主人公であるエレンだって同じ。盛大に、綺麗に、尊厳を持って死を迎えられる保障はどこにもない。
それでも…"首が飛ぶ"という死に方はあまりに凄惨で残酷で尊厳のない死だと思います。(進撃の中で尊厳のある死を迎えた方は非常に少ないですが…)頭がなければ多くの人はそれが誰なのかわからない。人の身体は顔がなければ肉塊になってしまい、個人としての象徴を失う。マルコの死を前にジャンが、誰の骨ともわからない灰を手にし決意するシーンがありましたが、あれは人間の死として許されるものではない。石原氏の言葉を借りれば死は"単独な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、はじめて成立"する。だから、エレンがエレンと切り離されてしまう"首が飛ぶ"という死に方も許されていいはずがない。
エレンはこれまでたくさん傷ついてきました。仲間の死、先輩の死、名もない兵士の死。誰かが死ぬたびに自分の無力さを憎み、その度に何度も自分を奮い立たせ戦ってきた。父親の記憶を見て、始祖の力の使い方がわかってからはきっと一人で戦ってたんでしょう。齢19歳の少年が。幼い頃から羨望していた景色を見ても喜べなくなってしまった彼の苦しみは計り知れない。彼は死に急ぎ野郎と呼ばれていたけれど、今の方がよっぽど死に急いでいるように見えて、きっと周りは何も言えなかったんじゃないかと思います。誰かエレンに「大丈夫だよ」と言って抱きしめてあげることは出来なかったんだろうか。
私はエレンにいつか「生きたい」「死にたくない」と思ってほしいな、と漠然と願ってきました。エレンの命には限りがあって、そう思ってしまうこともある意味残酷だけれど、でもやっぱり生まれてきたからには生への執着を見せて欲しかった。外に自由はなくても、生きて生きて、何かを手に入れたい、生きたいと口にして欲しかった。
石原氏ばかり引き合いに出して申し訳ないのですが、彼は、死は"符号"であってはなはないとも言っています。進撃の巨人は完全に多くの人の死が"符号"になっている作品です。ウォールマリア奪還作戦のときに散っていった名もない兵士の過去は語られず、一人一人の名前が知らされることもない。きっとあの世界でも位牌に名前が刻まれて終わり。それでも彼らには一人一人の物語と言葉があって、誰かに愛され、誰かを憎み、誰かに祝福された過去がある。エレンが死に、この空白の4年の物語は継承した誰かが話すとしたら。それはエレンの口から紡がれるものでない以上、他人の解釈になってしまう。エレンの人生の終着点は、エレン自身の口から語って欲しかった。
なんて、こんなことを書いていますが、昨日からぴーぴー泣きながら人様の感想をちょこちょこのぞいている私は、きっとエレンが生きてると期待したいんでしょうね。でも期待するの怖いなあ。本当に怖い。
幸いなことに、私は今まで推しの死を経験したことがありません。来月どっちに転んでも、推しが死ぬのは虚無だということわかったので、それもそれでよい収穫だったと思います。いや、全然よくない。よくないぞ。
諌山先生、巨人展のインタビューで「読者を傷つけたい」とおっしゃっていましたね。まんまと傷つきました。お手上げです。傷ついただけでなく無力感、虚無感、喪失感まで味わえています。流石です。
来月はエレンの首が飛んだところから始まるのか。ちょっと読めるか自信がない。そもそもこの先読み続けられるかも自信はないけれど、とりあえず来月までにまた自分の気持ちを整理したいなと思います。