『君たちはどう生きるか』のサギのあいつ、ネタ的に弄られるのもムリないとはいえ、個人的には宮崎駿の物語を締めくくるにふさわしい素晴らしいキャラクターだと思ってるし、その造形がマジで全然かわいくないことにもかなり痺れてしまった。
サギ男は作品の唯一のキービジュアルも務めた重要なキャラなわけだし、普通にビジネス的なことを考えたら当然あんな鼻がヤバいおっさんではなく、せめてもうちょっと可愛らしく/カッコよくて、ぬいぐるみやグッズにもしやすいようなキャラクターを造形していたことだろう。駿のセンスをもってすれば、そんなことは全然たやすかったと思う。
しかし宮崎駿は、その「当然」の判断を選ばなかった。結果として私たちに突きつけられたのは、リアルなアオサギと不気味なおっさんの間を行き来するように、時にはグロテスクに、時にはユーモラスに姿を変える異形のキャラクター「サギ男」だったのだ。
日本のアニメにしろ、ディズニーをはじめとする海外アニメにしろ、私たちは(主に商業的な理由で)可愛かったり美しかったりカッコよかったりするキャラクターにいつだって取り囲まれているから、そうした価値観や規範をグニャッとはみ出すようなサギ男のデザインに面食らってしまう。だがこの「面食らう」プロセスこそ、本作にとって必要なのだ。サギ男は理解を超えた異形のもの、本質的に異なる「他者」を象徴する存在でもある。「異質な他者」と口で言うのは簡単だが、商業主義的な「大人の事情」をブチ破るようなその圧倒的な「異形」を体現するビジュアルに、まさに度肝を抜かれてしまった。(この「異質な他者」のモチーフ生物として鳥がチョイスされたことも鳥好き的に凄く興味深いのだが、長いので別の機会に…)
サギ男に流れるデザイン思想に、過去の宮崎駿作品で最も近いキャラクターは『千と千尋の神隠し』のカオナシではないかと思う。(現在の私たちはすでにポップカルチャーのキャラクターとしてカオナシを見慣れてしまっているが)少なくとも映画公開の当初は全然かわいい・愛らしいキャラではなかったと思う。不気味で底知れなく、むき出しのドロッとした欲望を秘めており、同時に気持ち悪いほどの生命力を感じさせる「他者」…。
しかしカオナシ同様、そんなサギ男が、物語が進むに連れてだんだん愛おしい存在に思えてくるという過程こそ、『君たちはどう生きるか』という作品にとって大切なものなんだと思う。簡単なことではないはずだが、そこはさすが駿というべきか、(すでに別のfusetterに書いたように)細やかな演出やシーンを積み重ねることで、サギ男への愛着や感情移入を巧みに観客の心に生んでいる。
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終盤まで観ると明らかなのだが『君たちはどう生きるか』は、フィクションにまつわる物語でもある。でも「フィクションの力、最高〜!」という無邪気で全能的な「物語の物語」では全然ない。むしろ世界的な巨匠にしては、いや世界的な巨匠だからこそ、卑屈なほどに謙虚な「物語の物語」だと言える。この世の中の悲惨っぷりを見ていると、人生をかけて散々作ってきたフィクションとかアニメとか、結局ぜんぶ無力で無意味だったのかもしれないし(『風立ちぬ』にも直結する悲観っぷり)、単なる嘘の塊でしかない脆い世界はあっけなく崩壊して、忘れられるだけなのかもしれない…。そんな虚無感も、異世界で積み木を作る老人の言動をはじめ、隅々に見て取ることができる。(その「虚無」は悲壮感というよりは、人生の終盤を迎えた巨匠ならではの、どこか爽やかな諦念を感じさせるのだが。)
しかしそれでも、この無常で無形で掴みどころのない作品世界にひとつ、明るい星のように力強い輝きを放つ言葉がある。それは「友だち」という言葉だ。眞人とサギ男は、最初は異なる世界の両者として対立しているが、冒険を通じてお互いを知り、だんだん相棒のようになっていく。眞人はいつしかサギ男を「友だち」と呼び、映画の最後にはサギ男の方から「友だち」として別れを告げてくれる。
こんなあらゆる意味で全然かわいくないし性格も悪くてズルかったりもする不気味な「他者」であるサギ男とだって、物語世界を通じて「友だち」になれるんだとしたら、それは紛れもなくアニメやフィクションの凄い力であり、創作物に可能性や希望がまだ存在することの証なのではないか。もっと言えばサギ男は、駿やジブリや世の中のクリエイターが生み出し続けてきたフィクションそのものの寓意とも読める。
サギ男の台詞ではないが、結局フィクションなんてものは、この世界から出ていったら(≒映画が終わって映画館を出たら?)すぐに忘れてしまうような無力な存在にすぎないのかもしれない。それでも、作品やキャラクターがたとえ一時でも、観た人の「友だち」になれたんだとしたら、それは確かに良かった、この世界を作って良かったと思えるよ…という、宮崎駿から私たち観客に向けた、あまりにささやかな、しかし優しく力強いメッセージなのではないか…などと考えてしまうのだった。