閃光星 flare star ※つるみか
第二話 加州清光
同人誌にする予定の話 バックアップ兼サンプルとして
感じた事の無い心地良さに包まれて、鶴丸は眠っていた。
甘い香りが近づいてきて、鶴丸の頰に優しく触れた。誰かに触れられている。
髪に触れ、唇に何か柔らかい物が触れる。
静かにしばらく続いたそれは、鶴丸の目覚めと共に終わった。
◇◆◇
鶴丸が目を開けると、見た事の無い天井と三日月が見えた。
「……! 気が付いたか」
「……う……」
鶴丸は呻いたが、体はどこも痛くない。しばらく呼吸を繰り返すと、声が出せそうだと思った。
「おぬしは五日も寝ていたのだ。具合はどうだ、傷は治っているか」
「……っ、ここは」
鶴丸は手を伸ばして自分の額に触れた。その後、はっとして自分の手を見た。足を動かすと――足がある事に驚いた。何か喋ろうとして鶴丸は咳き込んだ。
「ここは加州達の本丸だ。招かれたので滞在している。水を飲むか?」
三日月が水差しを持って言った。鶴丸は頷いた。
水を注ぐ音がして、水が差し出された。
「起き上がれそうか」
三日月が尋ねてきたので、鶴丸は体を起こした。背中がきしんだが起き上がる事ができた。途中で三日月が鶴丸の体を支えて起こした。三日月は口元に湯飲みを持って来て傾けた。鶴丸も手を動かして湯飲みに触れた。数口。これほど美味い物は初めて飲む。鶴丸は湯飲みを受け取って、残りを飲み干して口元を拭った。咳払いをしてしばらく呼吸を整えると、意識がはっきりしてきた。
「……生きてるのか……あれからどうなったんだ」
鶴丸は記憶を辿った。
……斬られながら加州達に刺さった黒い刀を抜いた。背後から叩かれ昏倒して、その後気が付いたらおかしな儀式の生け贄となりかけていた。
おかしな刀を胸に突き立てられて、白かった刀が――黒く染まっていって――。
鶴丸は身震いをした。
「加州は無事か? ほかの二人は駄目か?」
加州はまだ息があったように思うが、他の短刀、前田と秋田は気を失っていた。刀も真っ黒でもはや手遅れに思えた。
すると三日月が悲しげに微笑んだ。
「安心しろ。おぬしのおかげで助かった。大手柄だ」
「! 助かったのか……?」
「ああ、だが……俺がいけなかったのだ。行かせるのではなかった……」
三日月が項垂れて、鶴丸にすがりついてきた。
「折れてしまったら、戻せない。鶴丸、頼む、もう、無理は止せ……」
鶴丸にすがりつく三日月は震えていて、鶴丸は苦しくなった。
「分かった。気を付ける。こんな事はこれきりにする」
背中をさすってなだめても、三日月の震えは収まらなかった。
「約束だ……」
三日月の声は小さい。鶴丸は頷いた。
「ああ。約束だ」
苦しくて、胸が痛くて仕方がない。三日月も気持ち同じだろう。もうこんな思いはさせないと、この痛みを心に刻んだ。
「そういえばきみは? 風邪はいいのか」
すると三日月が首を傾げて、頷いた。
「――ああ。もう治っている」
「そいつは良かった。それでこれからどうする? いつまでここにいる?」
すると三日月が笑った。
「そうだなぁ、あと一日、いや三日は居よう。そうだ。転送装置を都合してもらえた。ここには馬が無いようだから、どこかで盗もう」
三日月の言葉に鶴丸は口の端を上げた。
「またそれか。いいぜ、そうしよう。俺は着替えて歩きたいんだが、いいか?」
三日月は頷いた。
「では審神者殿に会いに行こう。着替えを手伝おうか?」
「いや――」
鶴丸は断ろうとして、服を脱いだことが無い事に気が付いた。
顕現してからを思い出しても着の身着のままで、用を足すとき帯を解いたくらいだ。
今は白い浴衣を着ている。
三日月を見るとこちらは藍色の浴衣を着て、紺色の帯を締めていた。三日月の着こなしは上手く、襟も整っている。
「そういえば知らないな。手伝ってくれ」
それから鶴丸は浴衣の仕組みに感心しながら脱ぎ、自分の衣装をどうすれば良いか悩みながら着た。確か下駄と、足を覆う布のようなもの、手袋を身につけて居たと思うし、それは一式揃っていた。
下駄は室内なので脱ぐとして、色々やって一応形になったが、帯の結び方は本当に分からなかった。そもそも元の形を記憶していない。三日月に聞いたが、鶴丸の帯の結びまでは覚えていないという。
「それは自分で着たのか?」
「いやこれは着せて貰った。お洒落は苦手でな」
「まあいい、適当に結んでどこかの鶴丸に聞くさ」
鶴丸は手を振った。蝶結びが頭に浮かんだが、よくよく考えれば結び方を知らない。仕方無く、鶴丸は帯の端を巻いた帯に入れて固定した。
「蝶結びってのはどうやるんだ?」
「蝶結びか。それならできる」
三日月が微笑んで、帯の先を引っ張って、不格好な蝶結びをつくった。
「おお、きみは凄いな! これが蝶結びか。今どうやった?」
「中々、難しいぞ」
蝶結びの練習をしていると、部屋の前に複数の刀剣がやってきた。
「三日月様、よろしいでしょうか」
この声は前田だ。
「どうした」
三日月がおっとりと答えた。
「お食事の準備が整いました。鶴丸様のご容態はいかがでしょうか」
「うん。目を覚ました。今行こう、入って良いぞ」
すると障子が開いて、前田、秋田、あと一振、髪の長い女の短刀がいた。
「女?」
鶴丸が言うと、その短刀はあっ、という顔をした。
「ううん。僕も男だよ。乱藤四郎と言います。前田と秋田がお世話になりました。加州さんも皆もありがとうって、お怪我はもう大丈夫……ですか?」
乱藤四郎はおずおずと、話しにくそうに喋った。
鶴丸は苦笑した。
「ああ、かしこまらなくていい。大して役に立ってないからな。飯が貰えるのか」
鶴丸が言うと、もちろん、と返事があった。
「そいつは有り難い! 三日月、行こう」
鶴丸は三日月と連れ立って部屋を出た。
三日月と鶴丸は離れに居たらしい。
渡り廊下を歩きながら三日月が説明した。
この本丸は、始まってまだ間もなく刀剣男士は十振しかいない。
五日前――金堂を立ち去った三日月を呼び止めたのは小夜左文字だった。
「へえ、小夜が」
「ああ。追ってこられてな。ひとまず甘える事にしたのだ」
乱、前田、秋田は口を挟まなかったが、話しかける機会を窺っているようだ。
「そうかい。そりゃあいい。二人とも元気そうで良かった。加州はどうだ?」
鶴丸は尋ねた。
「加州さんはまだ。ですがそろそろ目覚めると思います! 本当にありがとうございました!」
前田が言った。
前田と秋田は三日で起きたが、加州は未だ目覚めていないという。
「僕も! ありがとうございます! 後でもっといっぱいお礼します!」
秋田が意気込むので、鶴丸は笑った。
「気にするな。飯が貰えるならそれでいい」
「ははは。加州は初期刀だったらしい」
「初期刀?」
「審神者が初めて貰う刀だ。その辺りは後で話そう」
三日月が言い終わった時、大部屋についた。
二十畳はあろうかという畳時期の大部屋があって、二十畳の先は長いふすまで区切られていた。廊下が向こうに続いているから、二十畳の先も二十畳かもしれない。廊下は硝子戸がついていて、外の景色は春だった。周囲は明るい。
二十畳の手前に足の短い机が二つ。同じものが奥に二つ並べてあって、手前の列に刀剣達が並んで座っている。
机の上には見た事の無い黄色い食べ物が置いてあって、部屋全体に香ばしい匂いが漂っている。
一番入り口に近い机の上座に、洋装の審神者がいた。顔を布で覆っていて人相は分からないが、髪は黒く短い。まだ若いようだ。
審神者は三日月と鶴丸を見て、さっと立ち上がった。
「お二人とも、こちらへどうぞ。鶴丸様、御体は? もう大丈夫ですか?」
「こちらにどうぞ」
前田、秋田が二人の手を引いて、座った途端に湯飲みに水が注がれる。
「ああ、おかげですっかり治った」
「おお、カレーライスか」
三日月が目を輝かせた。
「かれーらいす?」
「そう、カレーです!」
言ったのは黒髪短髪の、青い目の刀剣だった。その刀剣が飯を皿に盛ってから、鍋にたっぷりある黄色い汁をかける。出来た物を前田と秋田が二人の前に運んで来た。
「この食べ物のことだ。うまそうだなぁ」
「僕が作りました。あっ堀川国広です。福神漬けもありますよ」
飯をよそった刀剣が言って、すると他の刀剣達が待ちきれないとばかりに並んだ。
鶴丸は目の前の食べ物を見た。皿に載っていて、米に野菜の混ざった黄色い汁がかけてある。湯気が立っていて見るからに美味そうだ。
箸を探したが、近くにあるのは匙一本だ。
「箸が……これは何で食べるんだ?」
「このスプーンで掬って食べるんです」
言ったのは秋田だ。審神者に一番近い場所、廊下を背に三日月が座り、その隣に鶴丸、鶴丸の隣に秋田が陣取っている。前田は秋田の隣で鶴丸の様子を覗いている。
「こいつか。へえ。使うのは初めてだ。簡単そうだな」
要は匙だ。掬えば良いのだろう。
「――みんな、座ったか。じゃあとりあえず食べましょう」
審神者が言って、刀剣達が返事をする。
手を合わせて、と審神者に言われたので、鶴丸は真似をした。
「いただきます」
復唱の後、八振りが一斉に食べ始めた。
「加州は?」
鶴丸は飯なのに勿体ないと思い、三日月に尋ねた。
すると審神者が反応した。
審神者が自分の背後、ふすまを振り返る。
「ああ、こっちの、隣に寝ています。近侍部屋なんですよ。歌仙が見てます――さ、どうぞどうぞ。食べて下さい」
「ああ、いただきます……」
鶴丸が見ると三日月は既に食べ始めている。真似して口へ運ぶと、非常に美味かった。
「こいつは……!! 美味い! なんだこれは!?」
鶴丸は驚きに目を見張って、もう一口、もう一口、うまい、凄い、と言いながらあっと言う間に食べ終わった。
「なんだこれは……こんなに美味い物は初めてだ! なあ、三日月!」
「ああ。とても美味い。やはりカレーはいいものだ。堀川は料理が上手だなあ」
すると堀川が照れた様に笑った。
「歌仙さんに教わってるんです。主さんも教えてくれて。おかわりいりますか?」
「もらおう」
三日月が言うので、鶴丸も貰おうかと思ったが、腹は膨れているようだ。
「俺は腹一杯だ。きみは二杯食べるのか?」
「ああ。カレーは飲み物だという」
「へえ。そうなのか? おっと、水が」
水が無くなったので見ると、「どうぞ!」と秋田が直ぐに注いだ。
「デザートにプリンがあります! 持って来ます!」
そう言って立ち上がったのは前田だ。
「前田、転ぶなよ」
審神者が苦笑した。審神者を見て鶴丸はあれ、と思った。布を取っている。
中身は普通の男性だった。どうもぱっとしないが、割合整っている方だろう。年は二十代半ばに見える。
「すいません、騒がしくて。うちはこの通りまだ始まったばかりでして。こんな所ですが、好きなだけいて下さい。刀剣達を紹介します。そっちから順に名前を言ってくれ」
審神者に言われて三日月の向かいから順に名乗っていく。
「俺は愛染国俊」
一番初めに名乗ったのは愛染で、簡単な来歴も説明してくれる。
愛染国俊、大和守安定、小夜左文字、堀川国広、五虎退、乱藤四郎、秋田藤四郎、前田藤四郎。それに隣にいると言う歌仙兼定、加州清光。
鶴丸はプリンを食べながら聞いた。
「うまいなこれ……」
思わず途中で呟くと、秋田が「もう一つあります! 良ければ僕の分もどうぞ」と言って二つ差し出した。
「きみは気前が良すぎるな。きみの分はいいが、もう一つは貰って良いか?」
鶴丸が苦笑すると、秋田がはにかんだ。
鶴丸は秋田に貰った握り飯を思いだした。
「そういえば、あの握り飯は美味かったなぁ。誰が作ったんだ?」
「歌仙さんです」
「そうか。また礼を言うか」
三日月の方を見ると、三日月はプリンを三つ食べていた。
「きみ、結構食い意地が張ってるな」
鶴丸はさすがに呆れた。
「久々の食事で、食欲が止まらん」
「まだあるから好きなだけどうぞ」
言ったのは堀川だ。言葉通り、盆には沢山のプリンが並んでいる。一つ一つはさほど大きくないが……。
「ではあと二つ」
「三日月、それで終いにしておけ」
言わないと延々に食べそうだったので、鶴丸は止めた。代わりに自分がもう一つ貰う事にした。いつの間にか皿は片付いている。
三日月が最後の一つに匙を入れたとき、左手のふすまが少し開いた。
「皆、もう食べちゃった?」
「加州さん!」
刀剣達の声が重なった。
「あっ、いい、ごめん、後で食べる」
そう言って直ぐに閉められた。
すると隣の部屋から廊下を通って誰か来た。紫色の髪で――これが歌仙だろう。
「主、加州君が起きたよ。支度をしてから来ると思う」
「ああ、良かった……。分かった」
審神者がなで下ろした。
「じゃあ今から温めますね」
堀川が言って立ち上がった。
「すまないね。どこが空いてるかな」
「はじっこです。あっ、ここにどうぞ」
秋田が立ち上がって歌仙に席を譲った。前田も立ち上がり、彼は向かいの板の引き戸に消えた。その先に調理場があるのだろう。
歌仙は座布団に座る前に一旦膝をついた。
「初めまして。鶴丸様。歌仙兼定と申します。三日月様も、この度はありがとうございました」
「うん、気にするな」
三日月が苦笑した。
「そんなにかしこまらないでもいい」
鶴丸は着席を促した。三日月の様子をみると自分が目覚めるまでも、ずっとこんな調子だったのだろう。
「皆、その鶴丸様ってのはやめてくれないか? 三日月、鶴丸でいい。俺は何もしてないからな」
すると三日月が顔を上げた。
「そうだ鶴丸、結局何があったのだ。短刀達から聞いたが、おぬしの話も聞きたい」
「聞いたら吃驚するぜ。本当に何もしてないからな――」
鶴丸はそう前置きをして語った。
加州達の事が気になり後を追ったこと、村で小夜左文字に出会ったこと。小夜が三日月を呼びに行き、鶴丸は寺に行ったこと。様子が変だったので寺に入って、加州達を見つけて、黒い刀を抜いたものの――練度が低かった。
「と言う訳で、あっさり気絶して気が付いたらここだった」
鶴丸としては気にするな、と明るく言ったのだが、どうも周囲が辛気臭い。審神者や歌仙は感じ入った様子だし、堀川や五虎退は涙ぐんでいた。小夜は小さく震えていた。
「……と?」
鶴丸は三日月を見た。すると三日月が曖昧に微笑んだ。
「おぬしの怪我は酷かった。それで皆、心配しているのだ。まあ、覚えていなければ良い。皆が無事で良かった。加州も目を覚ました事だし、審神者よ。俺達はあと三日ここに居ても良いだろうか」
すると審神者が、戸惑った様子を見せた。
「三日ですか? 三日月様、傷がもう少し癒えてからの方が……」
「傷だって?」
鶴丸は聞き返した。三日月を見る。怪我らしい所は無いが……思い至って、三日月の左手を掴んだ。袖をめくると、三日月の内側、手首の中ほどに包帯が巻かれていた。蝶結びしたとき、やたら不器用だったのはこのせいだ。
鶴丸は怪我を見ようとすると、三日月が袖で包帯を隠した。三日月はどうも体に触れられるのが嫌いらしい。鶴丸は手を離した。
「きみ、怪我したのか? ならもう少し居た方がいい。深いのか」
「いや、浅い。これなら半月もすれば治る」
「なら半月は居よう。飯代がかかりそうだが、構わないか?」
「え、ええ! 勿論! ぜひ居て下さい」
審神者が頷いた。鶴丸はほっとした。そして首を傾げた。
「――きみ、手入れは……、……ああ、ずっと、俺にかまけてたのか……?」
鶴丸には『手入れ』というのがどういう物なのかよく分からないが、刀剣の手入れは審神者がするという。そして三日月は刀剣だが審神者だ。となると不都合があるのかもしれない。三日月がこの本丸で何をどれくらい話したか分からないので、はっきり言う事はできなかった。
三日月はまた苦笑している。そして口を開いた。
「鶴丸。ここで世話になる以上、皆に全てを話した。俺達の事は秘密にしてくれるそうだ。ひとまずこんのすけもそう言った。俺は自分の手入れもできるが、少し難しくてな。怪我はなるべくしないようにしている」
全て話したと聞いて鶴丸は驚いたが、正しい判断だと思った。
「そうか。分かった。それなら、礼を言うのは俺達の方だ。しばらく厄介になる」
鶴丸は頭を下げた。
鶴丸の言葉に、皆が驚いたような顔をしている。特に歌仙ははっとして鶴丸を見た。
自分達の状況は奇妙すぎておそらく本丸からしたら厄介でしかない。だが三日月が今後も放浪するつもりなら『刀剣男士らしさ』を学ぶ絶好の機会だ。
鶴丸は今の状況を前向きにとらえる事にした。
「俺は顕現したばかりで、まともに何もしたことが無い。しばらくここで、刀剣男士らしい振る舞いってのを覚えたいんだが。誰か、教えてくれるか?」
「――それなら俺が教えるよ。っていうか、今、俺の方が教わったかも」
そう言ってふすまを開けたのは加州だ。加州は赤色の着物と海老茶色の袴を身につけて、更にたすき掛けをしていた。予想以上に身なりが整っているので驚いた。
加州が微笑む。
「俺達はまだ練度も高くないし、本丸も始まったばかりだけど、逆に丁度良いかもね。よろしくお願いします。主、俺にも事情を教えてよ」
◇◆◇
昼食の後、加州、前田、秋田、小夜以外の刀剣は出陣をして行った。
醍醐寺に出陣した四振りは手入れの後と言う事でしばらく非番となっているらしい。
聞けばこの本丸は始まって二ヶ月しか経っていない、全くの初期の本丸だった。
――三日月、鶴丸、加州達と審神者は近侍部屋に集まった。
鶴丸はそこでこんのすけという管狐に出会った。
「初めまして。三日月様、鶴丸様。三日月様にはお話ししましたが、鶴丸様にも説明させて頂きます――」
こんのすけは、今回の遠征がどういう物だったか、何が起きていたのか説明した。
醍醐寺への遠征は通常ならば、ごく普通の祈祷が行われているだけのはずだった。
そもそもあの時代の醍醐寺の祈祷というのは良い祈祷では無く『呪詛』に近い物で、醍醐寺の寺領の農民が一揆を起こしたため、その農民を呪うため祈祷を行い――そして偶然か必然か、寺領で疫病が流行った。という経緯だったらしい。
だから醍醐寺で呪詛が行われているのは当然なのだが、今回そこではじめて遡行軍の儀式が確認された。
「何の儀式だったのかは調査中ですが、おそらく遡行軍を作るための儀式と思われます」
こんのすけが続ける。
「遡行軍に関しては、以前より発生は謎とされていましたが、今回の事ではっきりしました。遡行軍は、不慮の事故で死ぬはずだった人間を助け、また、死んだ者の遺族を誑かし、それを自軍の軍勢としているようです。儀式については刀剣男士の霊力を利用しようと企んだのか……単純に供物にしようとしたのか、現在調査中とのことです」
話の途中で、鶴丸はこんのすけの毛並みが気になって手を伸ばした。
ふわりとした感触に鶴丸は眉を上げた。
頭を撫でるとこんのすけの耳が倒れる。
「政府は此度の報奨金……いいえ、見舞い金、兼、口止め料として、我が本丸と、加州様達の救助に協力した他の本丸と、三日月様の審神者口座に各、五千両を支給致しました。支払いは即日で既に振り込まれております」
鶴丸はもう一度、もう二度、もう三度と撫でる。我関せずと言った様子でこんのすけは続けた。
「口止めの内容は、三点。儀式そのものについて、遡行軍になっているのが民衆である事、最後に三日月様のお力についてです。あの場所で見聞きしたことは調査の上で他の審神者様に周知となりますので、それまでは他の本丸の方に話さないようにお願いいたします」
「こいつは驚いた! 狐が喋るとは!」
鶴丸はこんのすけを両手で持ち上げた。
裏返しても引っ張ってもどう見ても狐のような生き物だが、これで式神らしい。
「ひっぱらないでください!」
「ああ。悪い。痛かったか?」
「撫でないで下さい! 私の話をちゃんと聞いていましたか? ――以上、後は主様や三日月様から聞いて下さい」
こんのすけはプイと横を向いてしまった。鶴丸は悪い悪い、と謝った。
「三日月、報酬の五千両ってのは多いのか?」
鶴丸は尋ねた。
「ふむ。多くは無いが、少なくも無い。まあまあの金額だな」
三日月が答えた。まあまあの金額と言われて鶴丸は首を傾げた。
加州が引き継いだ。
「うちにとっては大金だよ。五千両って言ったら、通行手形十五個も買える。あでも、慣れた本丸ならすぐなくなっちゃう?」
加州は審神者を見た。
審神者はしきりに端末を叩いていた。
「ああでも、通行手形に使うとあっと言う間だけど、日用品なら何でも買える金額かな。審神者就任祝いが二千両だったから……確か一両が千円の計算だったよな? だからえっと、五百万円貰ったのか……口止め料ってことだけど、三日月様にも報酬があるというのは不思議……いや、不思議では無いけれど」
審神者が答えた。
するとこんのすけが耳を立てた。
「これは三日月様を支援する、政府の計らいかもしれません。政府は三日月様を失いたく無いようですから」
こんのすけが言って、振り返って端末を覗き込もうとした。
審神者は全員に見える様に端末を座布団の上に置いて見せた。
何やら文字が書いてある。
鶴丸は初めて見る板に驚きつつも、中身を読もうとしたが……細かい数字が並んでいてよく分からない。上の方に口座残高、とか差引等あるので金に関する事だろうか。
審神者が鶴丸に説明した。
「この本丸の財政状況です、ここが報酬、この初めの二千両が就任祝いで、今回の報酬はこの五千で、この辺りが通常の日課による報酬です。こちらには資材の状況と、ここから戦績も見られます。この、まあ『端末』って言うんですが、これが帳面、帳簿の代わりになります。撤退の指示を出したりとか、部隊との通信もこの端末から可能です――霊力でなんとかする事もできるんですが、うちではとりあえず非常時だけにしています」
「なるほど。便利な物があるな……!」
「ええ、あの遠征は二時間ほどで終わる物でしたが、途中で加州から緊急の連絡があって。急いで救援を要請しましたが……」
審神者が溜息を吐いた。
「二時間だし、と思って四振りで行かせたのは失敗でした。遠征とはいえ油断できないんですね。寸前の所でなんとか敵を倒せたと、他の審神者様から聞きましたが。改めてどんな状況だったのか、鶴丸様、三日月様。お二方と加州の話を合わせて聞いてみたいと思います。加州からはまだ何も聞いていないので……どういう状況だったんだ?」
審神者は加州を見た。
加州は先程起きたばかりで、まだ誰も彼の話を知らない。
鶴丸も早々気絶してしまったので、何があったのかはよく分からない。
「鶴丸さん達と別れた後――」
加州は頷いて、語り始めた。
――加州、秋田、前田、小夜は三日月達と別れた後、順調に道を進んでいた。
『三日月さん、鶴丸さんも初めて見ました!』
『僕もです』
秋田と前田は興奮していた。すると小夜が『僕は鶴丸さんは初めて見たけど、三日月さんは見た事がある』と言った。小夜は主とお遣いに出かけた時に三日月宗近を見かけたという。加州は演習で見かけた事があったので、聞き手に回っていた。
『三日月さんは、大丈夫でしょうか? お怪我があるようでしたが』
前田が心配そうに言った。
『怪我? してた?』
『いえ、手甲が破れていたので』
前田は左手の甲をさすった。
『遠征中の怪我かもね……良く見てるね、偉い』
加州は前田を褒めた。会話に夢中であまり頓着していなかったが、今度から気を付けようと思った。加州はあの二振に違和感を感じていたが、それが何か分からなかった。
強いて思い出せば、鶴丸が大人しかったという事だろうか? 練度が低いのは見て分かった。おそらく顕現したばかりで遠征に出されたのだろう。勝手が掴めない様子で、三日月の様子を伺っていた。三日月の方はと言うと、弱くは無さそう、という程度しか分からなかった。練度が読めないのは強い証拠だと演習相手に教わったから、自分より大分強いのだろうと考えた。
――天下五剣の三日月が風邪を引くとは。が、そういう事もあるかもしれない。
――疲れてるみたいだったけど、風邪だから仕方無い。
「三日月さんが風邪って、ちょっと変かな、くらいには思ったけど気にしなかった」
三日月達から小さな村があると聞いたので、一応調査をする事にした。
「その会話から、少し行った辺りかな。なんだか、凄く嫌な感じがしてきて……息が苦しくて、胸がむかむかする感じ? けど小夜も前田も秋田も、別に何とも無いっていうからそのまま進んだら、村が化け物……遡行軍とは少し違う、死体の群れみたいな物に襲われてて、ちょうど何人かの村人が、担がれて連れて行かれるところで――連れて行かれた所って言った方がいいのかな、遠くに見えたんだ。とにかく連れ去られた人を助けなきゃって思って。皆で後を追ったんだ。戸口はどこも壊れていたけど、まだ残った人がいるかもしれないって思って、その時、一軒だけ壊されてない家があって。そこを小夜に頼んだ」
加州が溜息を吐いた。
「もう少し慎重になるべきだった……! そこで救援を呼べば良かったんだ。その後、寺に着いて、様子を窺ったんだけど、そこには亡者が列にならんでいて、人間も一杯居て、遡行軍がいた。人間は遡行軍と協力している様子で、死体を運んだりしていた……」
加州が続ける。
境内には亡者と親しげに話す人間達がいた。しかも大勢。ちらほらと僧侶の姿も見える。何かの集会が始まる様子で――する事は祈祷だろう。人間が遡行軍とも亡者とも親しげに会話していた。これは手に負えないと思った加州は主に緊急連絡をした。
審神者に指示を仰ぐと待避命令――「分かった、すぐに離れて、応援を待て!」という声が帰って来た。
『わかっ――』
加州はそこから飛び退いた。いつのまにか遡行軍に囲まれていた。
応戦したが敵わず、負傷し、捕まった。
加州が身震いをした。
「その後、気づいたら寺の中で磔にされてた。胸に嫌に白い刀が突き立ってて、必死に外そうとしたけど、凄く痛くて、それ以上に苦しかった。あれが何か……主、分かる? 前田と秋田には短刀、俺にはたぶん打刀が刺さってた」
「いや――」
審神者が首を振って、現状で分かって居る事を伝えた。
加州は顔を伏せた。
「そっか……刀が段々黒く染まって行って、意識ももうろうとしてきて、多分霊力を吸われてたんだと思うけど……もう駄目だって思った時に鶴丸さんが来て、刀を抜いてくれた。あと少し遅かったら多分、駄目だった。本当に有り難う。でもそこまでしか覚えてない」
「なるほど。三日月は?」
鶴丸は頷いて三日月を見た。
「俺と小夜が駆け付けた時には、既に救援がいた」
三日月が言った。
「なるほどだいたい分かった」
審神者が頷いた。
「三日月様、鶴丸様。改めてお礼を申し上げます」
審神者は頭を下げた。それに続いて加州も頭を下げる。
「本当に、三日月さ、いや、三日月様と鶴丸様が居なかったら俺達は駄目だった。本当に、ありがとうございます!」
「感謝いたします!」
こんのすけまでが小さな頭を下げている。
「ははは、そんなにかしこまらずとも、三日月で良いぞ、加州」
三日月が苦笑した。この調子で既に何度も礼を言われて居るのだろう。
鶴丸も苦笑して、軽く膝を打った。
「さて事情が分かった所で。三日月、今日はこれからどうする? きみは怪我人だろうし、手入れで疲れていないか? 少し休むか?」
鶴丸は言った。
鶴丸はこれから加州に本丸を案内してもらい、刀剣男士の基本とやらを聞いたりしようと思っていたが、三日月は退屈だろう。それに今の話だと三日月はろくに休んでいない。風邪は治ったと言っていたが……四ヶ月も彷徨っていたのだ。
「俺に付き合わせるのも悪いし、しばらく休んだらどうだ」
鶴丸の言葉に三日月は頷いた。
「……では、そうさせて貰おう。実は先程から眠くてなぁ」
三日月が袖で口元を隠して目を細めた。
鶴丸は破顔した。
「はは、そうだと思った。じゃあまた後で」
「あいわかった。審神者殿、それでよいか?」
「ええ、俺はこの書類を片付けようかな」
審神者が文机に積まれた紙束を見た。大きな封筒が五つ、紙が二十枚ほどだ。
「主、それは?」
加州が尋ねた。
「今回の始末書とか、救援要請の事後処理とか色々。やっておかないと」
すると加州が眉をひそめた。
「主、主も疲れてるでしょ? 後で手伝うから、少し休んだら? どうせ期日に余裕あるんでしょ」
「いやでも、早めにやっておきたくて……」
「夜まで休んでも大丈夫だって。こんのすけ、主休ませておいて」
「わかりました」
こんのすけが頷いた。「えええ」と声を上げる審神者を余所に、加州は鶴丸と三日月を促した。三振は部屋を出た。
◇◆◇
夕食後、鶴丸は初めて風呂に入る事になった。
着物を脱いで腰に手ぬぐいを巻き――これは加州に強く勧められた――扉を開けて歓声を上げた。隣では加州が同じく腰に手ぬぐいを巻いて立っている。
「……これが風呂か……!」
「滑るから、足元気を付けてっ!?」
鶴丸はその時には滑っていた。加州が素早く受け止めた。
「……、おお、すまん」
心臓が早鐘を打っている。鶴丸は加州に謝って姿勢を正した。
「もう、気を付けて。先に体を洗ってから湯船に浸かるんだけど、桶はこっち、椅子はこれ」
言われるままに真似をして、座った。その後は加州の言う通りに『石鹸』だという半液体を泡立てて、顔を言われたとおりに洗って、良く濯いで、髪も体も爪も耳の中まで言われたとおりに洗う。全て終わる頃には少し疲れていた。途中で歌仙が入ってきて「隣、失礼するよ」と言って、鶴丸達より遙かに少ない手順で顔と髪を洗って流して、湯船に浸かった。
「彼よりずいぶん丁寧なんだな?」
「そう? でもこれくらいしないと、綺麗になれないよ」
「そういう物か」
「丁寧なやり方知ってれば、楽なやり方も見つけやすいでしょ。って主が色々教えてくれたんだ」
加州がはにかんだ。加州は丁寧に髪を梳いている。
「なるほど。そろそろ終わりか?」
「うん、椅子片付けて入ろ。軽く流して重ねておけば良いから」
すると湯船から忍び笑いが聞こえた。
歌仙が口元を抑えている。
「あ、失礼。加州君がいつもと大分違うから、おかしくてね」
加州と鶴丸は湯船に近づいた。
「ここでかけ湯する~」
加州が気にせず手本を見せた。鶴丸は何となく真似をした。
「これでやっと入れる。手ぬぐいを取って、足からゆっくり浸かる、いい、静かにゆっくり、途中で体にお湯を掛けたりして、熱いのに慣らしていくの。鎖骨か、肩の辺りまで浸かるといいかな」
鶴丸は加州の手本通りに肩まで湯に浸かった。
正しい手順を踏んだからか、少し冷えた体に湯が心地よい。湯気の湿気も悪く無い。
「大丈夫? 熱くない?平気?」
「ああ。大丈夫」
「あっち行こう」
加州が言った。
湯船はかなり広く、七、八振は並んで入れるだろう。加州は正面奥、歌仙のいる場所を指さした。鶴丸と加州は移動した。すると歌仙が場所を譲って、鶴丸は加州と歌仙の間に収まった。
鶴丸の左が加州、右に歌仙がいる。場所が決まって、鶴丸は落ち着いた。
「ふう……これは、いいな……」
「鶴丸さんは、お湯、平気なんだ?」
加州は不思議そうに見ている。
「ああ、顕現したときに比べればこんなもの――そう言えば、さっきの、加州がいつもと違うって? どう違うんだ?」
鶴丸は忘れないうちに、と歌仙に思って尋ねた。
すると歌仙が微笑んだ。
「そうだね、普段はもっと、粗野というか。男らしい物言いをする」
「そうなのか」
「そうでーす」
加州が開き直った様子で言った。
「命の恩人だから。ちょっと緊張する。悪い意味じゃ無いんだけど」
加州が続けて、苦笑した。鶴丸が返答に困り黙って居ると歌仙が同意した。
「そうだね。僕も少し緊張するかな。勿論悪い意味では無く、畏敬の念というか、三日月様も鶴丸様もとても雅な方だから」
「雅? 三日月がか?」
鶴丸は首を傾げた。昼間カレー二杯、プリン五つ食べて、その後よく寝て先程、煮魚三尾と揚げ出汁豆腐三丁、白飯三杯を平らげた三日月が――?
鶴丸は三日月の顔立ちを思い出した。長い睫毛に……とそこで記憶がぼやける。
そう言えば、三日月の顔を良く見たことがない。美形なのは間違い無いが、どうも薄汚れていたり、水濡れだったり、髪もぼさぼさで、顔色が悪かったり……。
唯一まともに見たのは顕現した次の朝だ。
その時はとても綺麗だと思った――気がする。色々ありすぎてそれどころでは無かった。
「確かに見た目だけなら雅だな。顔立ちは悪く無いどころか、大分いいと思うが、雅……?」
「鶴丸さんは顕現してまだ十日くらいだっけ?」
加州が言った。
「ああ。それくらいになるな」
手入れで寝込んでいた日付も合わせれば十日になる。
「三日月さんとは、顕現前に会ったことある? 付喪神だった頃の記憶がある刀もいるんだけど。その時と比べてどう?」
加州に言われ、鶴丸は記憶を辿った。
鶴丸はなんとか思い出そうと頭を押さえて唸ったが、脳裏に浮かんだのは、ぼんやりとした光だった。
「……いや、思い出せないな。三条の三日月ってのは確かに覚えがある。俺は三日月を手本に打たれた。それは覚えて居るんだが、あの姿を見るのは初めてだな。いや、でも気配は覚えてる。外見も少し……もっとぼんやりした、神々しい姿? だったと思う。あんな風だったかは記憶に無い」
一応人型で装束は……今と違った気がする。顔は忘れた」
『あっははは、よきかな』
そこで鶴丸は思い出した。
「そうだ、声、声は覚えてる! 思い出した。あれは確かに三日月だ」
鷹揚な笑い声――。それは今の三日月と同じだ。
「そうなんだ? 昔の記憶は刀によって色々らしいから、あまり気にしなくていいんだけど――」
「――加州君、そろそろ上がろう。のぼせるよ」
歌仙が言った。
「ああ、そうだね。続きは後で」
◇◆◇
髪を乾かし、加州、歌仙と雑談をした後、鶴丸は離れに戻って来た。
渡り廊下は風通しが良く、真冬なら寒いがこの本丸は春だ。
渡り廊下が終わると観音開きの扉があって、扉を開けるとその先に短い廊下がある。
廊下の左側にふすまがあって、ふすまの向こうは鶴丸が寝ていた六畳一間だ。
廊下の突き当たりにはふすま一枚分だけの木の引き戸がある。引き戸の向こうに何があるのかはまだ見ていない。
部屋には三日月と――前田がいるようだ。鶴丸は気にせずふすまを開けて、固まった。
三日月が着物を盛大にはだけて、前田に背中を拭かせているところだった。
鶴丸は反射でふすまを閉めた。
「――すまない」
思わず謝ってしまった。
「入っても良いぞ」
三日月の声が聞こえたが、鶴丸は遠慮した。先程、裸は人に見せる物では無いと、まあそれくらいは分かっているが、加州に教わった。
「気にするな。もう少し回ってくる。いや、縁側にいる」
鶴丸はそういえばと思って、景色を眺める事にした。
硝子戸の向こうに、見事な桜がある。石灯籠の淡い光が仄かに照らしている。飛び石と井戸らしき物があるが、ここの庭はこれだけだ。桜は光の色加減で少し赤く見える。
右手向こう側、すこし遠くに目をやれば、――本殿の方に池があって、そちらの桜も見事だった。左手側は桜と生け垣で、生け垣の向こうには蔵や建物の屋根がある。
鶴丸は少し手間取って硝子戸を開けた。
桜の匂いだろうか。土の湿っぽい匂い、空気の柔らかさ、風の肌寒さ――虫の声を感じた。
鶴丸は自分の手を見た。
(不思議なもんだなぁ)
こうして人の形を取る日が来るとは……。
「鶴丸」
すると声が聞こえて、ふすまが開いた。
鶴丸は振り返って三日月を見た。ふすまは開いたままで、前田が桶と手ぬぐいを片付けている。
「ああ。きみ、風呂は入らないのか? 髪を洗ったらどうだ」
「昨日入ったばかりだから、今日はやめておこう」
「怪我のせいか」
鶴丸は溜息を吐いた。
「じきに治る。中へ入ろう。それとも散歩するか」
「いや、草履も無いしもう寝る。きみは眠れそうか」
言いながら部屋に入った。
「――鶴丸様、三日月様。僕はこれで失礼いたします。おやすみなさいませ」
「ああ、助かった、ありがとう」
三日月が微笑んだ。
鶴丸も軽く礼を言って「おやすみ」と言って手を振った。
立ち去る前田の足取りは軽い。
部屋には布団が二組敷いてあった。
三日月が左側に陣取ったので鶴丸は右側に寝転がった。
「ッ、この布団って言うのは気持ちが良いな。極楽って言った人間の気持ちが分かるぜ」
「そうだなぁ」
三日月は正座したままだ。
「きみもこうしてみろ。気持ち良いぞ」
あまりの心地良さにそのまま眠りそうになる。
鶴丸はふと顔を上げた。体を起こして、三日月の正面に移動した。
「なるほど。君はこんな顔だったのか」
三日月の膝の前に手をついて、顔を近づけて、まじまじと見つめて納得する。
三日月の顎に手を当て、目の横に触れて更に見る。
夜の空と違わない髪、長い睫毛と、青く澄んだ瞳。瞳には三日月が浮いている。
鶴丸は瞬きをした。
「きみ、目の中に月があるのか? こいつは凄い。月の周りは浅い水色になってるんだな……! 他は深い青? 藍色か? 菫色って言うのは紫の事か、じゃあ違うな。睫毛は長い」
鶴丸は中指で三日月の睫毛を目頭から目尻までなぞった。三日月が目を閉じ、くすぐったそうに身を引いた。
鶴丸は親指で三日月の眉をなぞった。三日月は顔を逸らした。やんわりと手を取られる。
「……触れすぎだ」
「ああ、悪いな。きみの顔をもう少し見せてくれ。しかし見れば見るほど美形だ……」
鶴丸は感嘆した。
左頰に垂れた髪を退けて、両頰を両手で包んでみる。三日月の頰より鶴丸の手の方が温かい。鶴丸は「さっき風呂に入ったんだ」と報告をして、そのまま続けた。
「付喪神だった頃は、きみの姿がぼんやりと光って、よく見えなかったんだが、今とは少し違った気がする。記憶も曖昧で、覚えて居ることも少ないが、声だけははっきり分かる。なあ、もっと声を聞かせてくれ。何か思い出すかもしれない」
三日月は少し思案した後、そうだ、と言った。
「前田がな、片付けをしてくれた」
「うん」
「……あとは」
それきり三日月は口を閉じてしまった。しばらく待ったが、居心地悪そうに目をそらされた。鶴丸は睫毛の動きを追っていた。
「鶴丸」
「なんだ?」
「手を。そろそろ、痒い」
「ああ」
鶴丸は手を離した。三日月は少し俯いた。
鶴丸はしばらく顎に手をやって考えて、ある事を思い出した。
「そう言えば――」
鶴丸は右手の人さし指で、自分の唇に触れた。
起きる前、唇に感触があった……気がする。三日月が触れたのだろうか。
「きみ、俺のここに触っただろう? 気のせいか」
すると三日月が表情を変えた。
「いや。気のせいだろう」
三日月は分かりやすく動揺している。
「そうか。ならいい。そろそろ休もう」
鶴丸は特に気にせず、今日は休む事にした。少し考えながら、人の暮らしを思い出して、布団を跳ねてみる。頭上にある床の間を見て、自分の本体がある事を確認する。
もう少し近い方がいいかとそちらに移動し、刀掛けを持ち上げて、枕元に動かした。あまりに簡単で人の体は便利だなと思った。
「これはいいな……! こいつは凄い。物が自在に動かせる! 俺が二つあるってのは変な感じだが、おかしな感じはしないな。だが考えてみれば不思議だ」
鶴丸が何度も頷いていると、鶴丸、と呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると三日月が、神妙な顔で見ていた。鶴丸は振り返った格好のまま三日月を眺めた。
三日月は溜息を落として「いや……」と呟いた。
「……どうかしたか? ああ、きみが触っていても、別に構わない。人の顔ってのは気になる物だからな」
鶴丸は言った。人の顔や形はとても不可思議で珍妙な物だ。
喋っていた口が閉じ、閉じていた口が開き。唇が枯れ、眼は干上がり、落ち窪んで、まだらに解けていく。
体を得た以上は、三日月の美しい顔もいつか骨だけになる。それとも、敵のように消えるのだろうか? 骨になるなら崩れて、どこが何か分からなくなる。髑髏は残るので、鶴丸はそれをひたすら眺めるのだ。
「――きみのしゃれこうべはさぞ美しいんだろうな」
きみが死んだら見てみたい、と言って鶴丸は微笑んだ。
「鶴」
三日月が少し肩を落として鶴丸の名を呼んだ。
「近う」
「何だ?」
鶴丸は三日月に近づいた。
「俺はこの数日、必要があって、おぬしの顔に触れていた。勝手な事をして悪かった」
三日月は溜息を吐いた。
「ああ、そうか」
鶴丸はなるほどと思った。
「手入れの際に、口を合わせて霊力を渡すのだ。無くても手入れはできるが、接吻をすると、格段に治りが早くなる」
鶴丸は『ん?』と思った。
……接吻と言えば、人間が口と口を合わせるあれだ。
鶴丸は太刀ゆえに寝所に侍ることは少なかったが、霊力は余っていたので好奇心で見た覚えがある。初めは面白いと思っていたのだが、途中で飽きる事も多かった。人には心地良いらしいがその感覚は付喪神には分からない。増して恋や愛など、分からないこと甚だしい。
「いずれ俺はおぬしと肌を合わせるだろう。そのつもりでおぬしを呼んだ」
三日月の言葉は鶴丸の意識を越えていて、思考が止まった。
かろうじて声が出て――素っ頓狂な声だ――三日月を見る事ができた。
「そうだ、明日、万屋に行って道具を買ってこよう。一緒に行くか?」
三日月は微笑んでいたが、鶴丸の表情は引きつっていた。
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