『アリスとテレスのまぼろし工場』は下部構造を見くびっており、それはこの物語の大きな瑕疵である。しかしなお魅力的だ。
『アリスとテレスのまぼろし工場』、この映画は下部構造を見くびっている。それは物語の根幹を揺るがす瑕疵である。
人によっては、「なぁんだ、そんなの大したことないじゃん」と思われてしまうかもしれないのだが、どっこい非常に重要だと私は思っている。
この映画の世界、主人公たちの生活のためのインフラ供給について、全く描写も言及も無いのだ。即ち、主人公たちは外部と隔絶された街、全ての連絡手段と物流が遮断された街に住んでいる。一方、劇中には食事をするシーン、入浴したことに言及するシーンがある。これは一体どういうこと?
ねえ、その料理の食材は一体どこからやってきてどうやって手に入れたの?
ねえ、お風呂に入れるということは、上水と燃料はどこからやってきたの? 水道とガスというライフラインは生きているの? 誰がどうやって維持しているの?
ねえ、重要人物の1人はしっかり排泄していることが分かるけれど、町の他の人物も排泄しているんだよね? 下水道は生きているの?
ねえ、電気は? 車を動かすガソリンは? …等々。
これらの疑問に対して、「いや、この作品のリアリティはその水準には無い」という反論があると予想する。しかし、その反論は無効だ。有効でないどころか有害だ。
この作品は、未来のないまぼろしの町で、どん詰まりの中で、生の意味が問われる限界状況の下で、それでも「私たちは生きているし、いつ滅びるともしれないがここで生きていく」という確かな手応えを手に入れる物語だ。14歳の主人公たちは、その生の実感を如何様にして手に入れるのか。恋だ。私があなたを愛しいと思う気持ちとその気持ちから導かれる衝動は、紛れもなく本物であり実在していると自覚することで、14歳の主人公たちは自らの実存を確立する。
それはどのような恋なのか。プラトニックな、あくまで形而上に留まる恋なのか。否、千度繰り返して否である。もし形而上的恋ならば、あのキス、私たちの想像上に存在しがちな14歳の男女には全く似つかわしくない、軽い口づけなどという甘いものでは全くない、相手の唇を貪る、それも何度も繰り返して貪るあのキスの描写はあり得ない。
その恋は、描かれていたのは、まぎれもなく肉欲とともにある、もしかすると獣欲とすら言ってよいかもしれない欲望とともにある恋だ。相手の心身を丸ごと確かめることで、自分自身の心身をも確かなものにする恋だ。
そうである以上、そのようなものとして恋を描く以上、その身体を支える下部構造を疎かに描くことは、全く以て不適当極まりない。自身の身体は、相手の身体は、どのような基盤のうえに成立しているのか。生命活動は奇跡だ。この当たり前のような顔をして顕現する奇跡は、如何にして可能となっているのか。ここが描かれて初めて、「私とあなたのみ」で構成されているセカイから、無数の支え合いで保たれる社会へと飛翔することができるのに、この物語はその描写を欠いている。
以上により、冒頭で「この映画は下部構造を見くびっている」と述べた意味をご理解いただけたものと思う。どのような意図で下部構造を見くびったのか、又は全く意図せずに下部構造を見くびったのか、機会があれば岡田磨里監督に伺ってみたい(もちろんそんな機会は永遠に訪れないのだが)。