『怪物』のラストについて考えていた。鑑賞時、自分は湊と依里は暴風雨を生き延びたと解釈して、”怪物”たる社会に打ち勝った、その力強さに感動したのだけど、しかし、よく考えると2人は死んでいるのでは?と気づいてしまい、考え込んだ。
読解力のある観客には自明かもしれないが、一応そう考える根拠を挙げておく。
まずは時差。湊の母親と保利が廃列車にたどり着いたのは土砂降りの中だが、湊と依里が列車から這い出した時は晴天。生存説を成立させるには、嵐が過ぎ去るまで2人が列車内で身を隠していたことになるが、これはあまりにも不自然。
二つめは「生まれ変わったのかな?」という台詞。
三つめはパンフレットでも廃列車とイメージを重ねたと言及されている宮沢賢治『銀河鉄道の夜』。カムパネルラは友人ザネリを助けるために川に入り、溺れ死んでいる。
となれば、「2人は土砂崩れに巻き込まれて死んだ。暴風雨のなか廃列車に向かったのは、いわば無理心中のためだった」と解すのが自然だ。『インセプション』のラストのような、結末をボカして両義的な解釈の余地もなく、死亡エンドしか示唆されていないような気がする。
ただ、それはつまらない。俺は生き延びた2人の強さにこそ希望を見たのだ。私が見た美しさは勘違いだったのだろうか?
実際、是枝監督ともあろう者が死を救済として描くだろうか。カンヌも脚本賞を与えるだろうか。
そこで、最後のシーンは「ファンタジー」と解釈することにした。『フロリダ・プロジェクト』のラストのディズニーランド。あれと同じである。現実から遊離し抽象化された、ファンタジーとしての描写。これで「生存+ファンタジー描写」と「死亡+天国描写」の両義的な解釈が可能になる。
一種の精神世界の描写なので、時差問題もクリアできる。
依里も死後の救済=生まれ変わりを否定していた。銀河鉄道の夜でも、死んだのはカムパネルラだけでザネリは死んでいない。
廃列車の下から水路に滑り落ちる湊と依里のシーンは、明らかに出産=産まれ直しのイメージが重ねられている。それは救済としての死とは真逆イメージのはずだ。