金カム考察殴り書き。256話時点における私の個人的鶴見中尉解釈。デミゴッドの憂鬱。
今回の考察はいつもの理詰めというより、作品における構成から感じた直感に近い。なので読む人によっては違和感もあるかと思う。私の文体の癖なのでいつもどおり若干断定的な書き方になりがちだが、正直本当にこういう読解でいいのか、私にも十分検証できていない。それでも今回の本誌を見て、これは今書かねばならぬと思い切らせて頂いた。そういった文章であると踏まえた上で読んで頂ければ幸いと思う。
先日ツイでも書いた事だが、GKでは鶴見中尉とウイルクはよく似た父同志として相似の関係として描かれている。ウイルクは少年の日に故郷の消滅を目の当たりにし、このまま状況を放置すればいずれ同じ喪失を味わう娘アシㇼパへの愛から、アシㇼパに闘いにおいて生き残るための教育を施すと共に、24人の囚人達を生贄にして彼女への金塊(闘争資金)譲渡を目論んだ。一方鶴見篤四郎の目的は具体的な描写は今だ回避されている部分があるものの、断片的な描写からウラジオストクで妻子を喪失し墓参によってその死を悼む道すら絶たれ、その妻子への愛から、兵士達を金塊闘争と戦争に使って日本国のウラジオストク実効支配を目指しているのではと推測され得るものが見えてきている。
227話において鶴見は兵士の攻撃性を引き出す原動力として『愛』を語り、それがGK単行本23巻にまとめられることで、それが宇佐美時重少年が自分に対して行った、”愛を理由に、自分を共犯者として巻き込む”という行動を冷静に観察した上でメソッドを得たものである事が見えたのだが、これによって鶴見中尉とウイルクの行動の相似と合わせた結果、鶴見中尉が月島・鯉登・宇佐美を始めとした自分の率いる小隊の兵士達に施してきた『愛』(誑し)というものが、ウイルクにとっての刺青囚人と同様、妻子への愛の為に兵士達を闘争の生贄にするための技巧的なものである事が浮かび上がり、私は月島や鯉登の物語を思ってひどく絶望的な気持ちになったものである。
こう書くと、私が鶴見という人物をごく非情な存在として受け止めているのではと思われるかも知れない。しかし『妻子への愛の為の生贄としての兵士達』とそれに関わる鶴見中尉の振る舞いを思い出し考え続けた結果、私の中で次第に輪郭を露わにしたのは、鶴見中尉のごく人間的な姿である。
鶴見中尉の人物像を掴もうとすると、その行動に矛盾やアンバランスに見える部分が多くて判断が難しい。人材を獲得しようとする事にかけての足まめさと行動力に比しての関係性の維持についての対応の雑さ。敵対するものへの嗜虐的な罰の与え方と味方に転じられると判断した時の飴の与え方。多くの兵士を殺す事になる戦争拡大と破壊への意欲の一方での戦死者への弔意の深さ。
私は鶴見中尉について破壊や暴力性への傾倒は認めるものの、日露戦争で作戦の不備から戦死者が増大した事への彼の怒りと抵抗も、戦死者や死した江渡貝に寄せる愛情深さも、偽りではないという判断をしている。
これについて、鶴見中尉にとっての兵士達の位置を『妻子への愛の為の生贄』に置き、彼らへの愛を”メソッドが要求するスキル”と置いた時、見えて来たのは、『鶴見中尉は誑した兵士達を目的のための生贄にしている事について自覚的である』という点である。鶴見中尉が兵士達を妻子の為に犠牲にしようとしている事と、鶴見中尉がその兵士達を”愛する”事について、私はそこに矛盾はないと思う。いずれ来るイオマンテに向けてヘペレセッの子熊に自分たちの食べているものより良い食べ物を与えて育てるのも、愛には違いない。
だが鶴見が「兵士に人殺しをしてもらうため」に選んだメソッドは、極めて莫大な量の”愛”を要求する。作中で鶴見中尉がまるで兵士たちにとっての”神”であるがの如くの描写が何度もされてきたが、鶴見が神の如く扱われるのは彼がもともと半神(デミゴッド)であったからではなく、彼の選んだメソッドが要求するから、神の如く愛情をあちこちに振り撒かざるを得なくなったのだと思う。
小隊の兵士達に神の如く愛を注ぎ続けた鶴見中尉。しかし彼の”愛による支配”は、次第に破綻をきたし始めている。
何故なら彼は、人間であるから。
何人もの相手に「私にとってお前が一番大切」と口説くのは、実際には成し得ない話で不誠実であるが、口説いた相手がそう信じ込める関係性を維持出来るなら有りだと思う。古代ローマ史にで最も知られるユリウス・カエサルには別に夫を持つ女性を含め多くの愛人が居たが、カエサルと愛人との間においても愛人同士の間においても特に争いは起きなかったとの事。それについて塩野七生は『ローマ人の物語』において、カエサルが愛人たち全てに対し、贈り物や面会をこまめに行い、決して公衆の前で無視することがなかったからと書いている。愛とはないがしろにしない関係性であり、こまめなケアを必要とする。アシㇼパが顔を覚えていない母の事を、父ウイルクに愛された存在と思う事が出来るのも、ウイルクがアシㇼパに求められる度に母について『お前によく似た美しい女』『明るくて晴れの日みたいな人』と、彼女を褒め称える言葉で語ってきた積み重ねがあるからだと思う。
しかし鶴見は兵士達に、それをする事が出来なかった。鶴見の兵士達はカエサルの愛人と違い、その愛によって人を殺す罪悪感と戦い、いずれ鶴見の仕掛けた戦いの中で命を落とす存在であるからである。
鶴見中尉は自分の愛が兵士達を支配し、いずれ愛した兵士を殺すものである事に自覚的であった。彼は兵士達の人生を引き取る形で彼らを愛しケアする事が出来ない。おそらくそういう形で愛してしまえば、彼らの喪失に耐える事が出来なくなるからだと思う。そのために兵士達の人生を慮って向き合う事が出来ず、獲得後はケアがどんどん雑になっていく。アシㇼパが弟のように世話をした子熊がイオマンテで送られた喪失の記憶故に、杉元の拾った子熊に触れようとしないのと恐らく同じだ。そして鶴見の中には、おそらく兵士達の価値に大して順位の差などない。彼の兵士達は悉く、人を殺すための仕事に就かせ、亡くした妻子の為に捧げねばならぬヘペレセッの子熊達だからだ。
兵士達の中には、与えられる上等なエサに満足してヘペレセッの中に居続けられるものもいるだろう。しかし兵士達は子熊ではなく人間であるので、代償として求められる罪悪感との闘いやいずれくるイオマンテの目的、餌が少なくとも山での自分の人生の生きたさ、そもそも利用される事などに我慢が出来ず、ヘペレセッを壊して出ていこうとする者も出る。そしてそれは時間を経るほど傾向もその力も強くなる。
目指す事業は拡大し、捧げる兵士達はどんどん増やさねばならぬのに、世話に必要な時間と上等なエサが足りない。エサの配分は不均衡になり、兵士同士のいがみ合いや順位付けが発生し、絶対量も足りない為ヘペレセッの補強(=脅迫)の併用が増え、それでも追い付かなくなっている。
鶴見中尉の「愛によって戦場で人を殺せる兵士育成計画」が先詰まりになってきているのは、彼が憎まれるべき悪人だからという問題ではない。彼の選んだメソッドが要求する、神のような莫大な”愛”とそれによる喪失の重さに”人間としての鶴見”が耐え切れないが故に、彼の計画は破綻に向かっている。
鶴見はいっそのこと利用した人間の愛をすべて己の利益に換算して、彼らが死んだ後に見返りもしないサイコパスであればよかったのだ。そうであればむしろ技巧としてすべての兵士に愛の演技を徹底する事が出来ただろう。しかし彼はそもそも、ロシア潜入の為の仮初めの愛のはずだったフィーナとオリガの喪失に傷ついた人間である。彼が真に”愛を利用できる”サイコパス、あるいは情の無いマキャベリストであったなら、妻子の喪失から今の行動を起こす事もなかった。
この推論に到達して、正直溜息が出た。なんでこんな、一国を動かすには神の愛を求められるメソッドを選んでしまったんだよ鶴見、と。
土方のように、利害関係ですっぱり割り切って進める選択が出来ていたなら、ここまで彼の”息子達”の間で関係がこじれる事もなかったろうに。
255話にて宇佐美が撃たれたのを見た時、鶴見がそろそろ到着するとして(先週の時点では、まだ宇佐美は重傷止まりで生き延びるのではないかと思っていたので)、深手を負って動けぬ宇佐美を鶴見が見たら、私は鶴見が宇佐美の喪失の予感に耐えきれず、大泊で胸を刺された鯉登をほとんど無視したように敢えて通り過ぎるのではないかと思っていたのだけど、256話にて蓋を開けてみれば宇佐美が尾形の追狙撃によって止めを刺された事もあってか、真正面から受け止めましたね。宇佐美がまだ生き延び得る可能性がある様子なら、鶴見の反応はまた違ったものになったのかもしれないけれども。裏切りへの用心と喪失の痛みから兵士達の人生は引き受けられなくても、捧げてしまった者達の事は忘れないのが、鶴見なりの鎮魂(イオマンテ)なのかもしれない。宇佐美は鶴見を”愛による共犯関係”の道に導いた存在であり、ミケランジェロのピエタのような二人の姿は死せる創造主イエスとそれを抱える被創造物マリアの表現であると共に、ミケランジェロのピエタが神に息子を返す母親という信仰ではなく、息子を亡くした母親の素の悲しみを表現するものであり、故に天を仰がず顔を伏せているというのが人文主義時代の再評価、という相互さんのツイートに、256話のピエタ像に鶴見の人間としての内面を見る思いがした。顔に延ばされてきた宇佐美の小指を口にし噛み切って飲み込んだのは、鶴見との同一化を望み、自らの道を決定づけた宇佐美へ自分との”一体化”を示す事で示した最大限の愛情だろう。
鶴見は己の愛による支配が宇佐美の死を招いた事を知っている。だからその顔は天を仰がず、殺した者への責めへも向かわず、己の向かう闇に向かって目を伏せる。
日暮れて道遠し。デミゴッドの仮面を被り、人間として負うにはあまりに膨大な業を背負いながら、なおも妻子の眠る目的地に向かう事を止められぬ鶴見の情念の深さ。死んでいく息子達、そして自分の支配から逃れ周りから離れていく息子達に彼は何を思うのか。