創作(2800字くらい)
僕の話を少しだけしようと思う。
僕は舗装された道を外れて、手入れのされてない林の中を歩いていた。足元は泥だらけで、小雨が全身を惨めに濡らしていた。
梅雨はいつ明けるのだろうか。天気予報はデタラメだから信じないことにしている。事実、晴れると言っていたのに昨日も今日も雨だ。きっと明日も降り続けるのだろう。僕は顔が隠れるくらいフードを深く被った。
泥で裾が冷たくなった頃、林の中に小さな小屋を見つけた。新しいようだが立派とは言えず、中に人がいるかも不明だ。でも背中を乾かす間だけでも入れて欲しくて、僕は汚い脚で小屋に近付いた。
皆さんご存じの通り、この国ではあらゆる場所で住所付きのカードを見せる必要がある。世界には悪い人がたくさんいるので、僕たちはその一味であることを最初から疑われてるわけだ。あるいは一味になるなと釘を刺されてるのか。どっちでもいい。どっちでも一緒だ。
胸ポケットを探ってるときに、店先にある手書きの貼り紙が目に入った。『カードの提示は不要です。あなたの身分は必要がありません』だって。奇妙な人がいるものだ。僕は手ぶらでドアを開けた。
屋内には、片手で足りるくらいの人数の人と管理人らしき人物がいた。テーブルにはノートが一冊置かれており、『ご自由に』と表紙に書かれていた。
僕が入っても彼らは何のリアクションも示さない。とりあえず、僕はノートを開いてみた。そこにはポツポツと複数の人物によって短い文章が書かれていた。
内容は理解できたりできなかったりした。知らない言葉がたくさんある。専門用語だろうか。パラパラと捲っているうちにある文章が目に入った。
『こんな水の不味い国、出てってやる』
ぞっとした。
水が不味い。
こんなことを書いたらどうなるのか、想像に難くない。
『水が飲めない国もあるんだよ』『水を飲めるようにするまでにどんな苦労があるのか考えたことがあるのか』『ちゃんと味わえばおいしく感じる』『そんなに不味いと思うなら一生水を飲むな』
水に問題を感じる人はたくさんいるけれども、水に問題を感じることを許さない人はもっとたくさんいる。駄目なのだ。この国で水を馬鹿にするのは。
ざわざわとした諦念とどうしようもなく億劫な気持ちになりながら、僕はもう一枚ページを捲った。
「あれ?」
予想された言葉はひとつもなかった。別の人の字で、淡々と無関係な文章が書かれている。何事もなかったかのように、ノートは続いていた。
僕はノートに『雨は嫌だ』と書いてその場を去った。数日後、再び行ってノートを開いてみた。僕の文章の右下に、小さな星が描かれている。これは何が言いたいんだろう。誰が描いたのだろう。辺りを見回すが、誰とも目が合わない。僕は意味もなく、もらった星に丸をした。
僕がフードで顔を隠していても、管理人は全く気にしないらしかった。そもそも、ここは何のための場所なんだろうか。看板を見るが落書きが何度もされていて原形がない。来客数をカウントするためのボードはゼロのままだ。で、管理人はというと何かを発明してはノートにそのことを書き殴っていた。
『同じ銘柄の煙草を吸う人を見つけるとアラームが鳴る機械を作った。同胞を探すのが楽になる』『あの機械を宣伝して回ったが、うるさいと怒られた』『世界中の東屋の場所を記した地図を作った』
面白そうではあるけど、役に立つのか立たないのか。他のページには相変わらず他の人たちが好き勝手書いている。
僕もそのノートに色々な言葉を書き足してみた。雨が冷たいこと。泥だらけなこと。もう外を歩きたくないこと。全身が冷たいこと。水が嫌いなこと。でも、水がないと生きていけないこと。
僕が馬鹿みたいな不安を書き連ねても、誰も僕を馬鹿にしなかった。無視されてるのかと思いきや、読んではいるようだった。僕の文章にたまに添えられる記号や、僕の文章から連想したような他の人の文を見ればそれが分かった。
僕には辛いことが沢山あったけど、それをただ聞いてくれる人はどこにもいなかった。だって、話せばリアクションが返ってくるのは当然だから。間違っているぞと説教されるのも、分かるよ私はこうでねと愚痴を聞かされるのも、話せば楽になるんでしょと言わんばかりに根掘り葉掘りされるのも全部嫌で、僕はいつしか黙るようになった。
僕が苦しいのを知っているのは、僕の宝物である白い縄だけだ。蛇の交尾のように二本の紐が交わって出来ている白い縄。僕はそれを使って、窓辺に素敵なものを飾るつもりだった。でもカーテンレールには意外と強度がないらしく、計画だけで終わった。縄だけが手元に残ってしまったわけだけど、強度のある場所さえ見つければいつだって計画を始められる。だから、この縄は宝物なんだ。
縄以外にただ僕の苦しみを知っている、知っているだけでいてくれる人がいることは僕を安心させた。何故なら、苦しさは誰かに知ってもらわないと存在しないことになってしまうから。僕は嫌な臭いのするお粥を、美味しいねと笑って毎日食べる。僕はお粥を不味いと思ってるのに、お粥を美味しいと感じる僕だけが世界に存在している。でもお粥を不味いなんて言ってはいけない。それは正しくて正しくて、とても哀しかった。
僕は管理人の作った発明品を弄らせてもらいながら、ノートに何かを書いたり、読んだりを続けていた。ここは別に秘密の場所ではないので、たまに知らない誰かが覗きに来てノートを写真に撮ったりもした。その中には僕の友達もいた。フードを深く被ってるので、彼女は僕に気付かなかったようだ。
翌日、彼女はノートの写真をクラスの皆に見せてこう言っていた。
「この人たち、頭おかしい。気持ち悪いね」
そっか。
そうだよね。
僕はいつもよりフードを深く被って、あの場所に歩いて行った。
そして今日あったことを、小さな字で書いた。だって、他にこの気持ちをどうしたらいいのか分からなかったから。この世界に居て良いのは彼女と仲良しの僕であって、泣いたり怒ったりする僕じゃない。
疲れ切ってペンを置いたら、居合わせた別の客がやってきて僕の文章の真下に何か書き足し始めた。彼はここの常連で、いつも不可解な文章を連ねている。他人の文章にはあまり興味がないようだった。彼が書いたのは、以下の短文だった。
『おかしいのはあいつらだ』
そうなんだろうか。僕たちの方がずっとおかしいと思うけど。でも、いつも僕を見てるのか見てないのか分からない人がそんなことを書いたのが面白くて、友達のことはまぁいいかとそれで終わりにすることにした。
あれから色んな言葉を書いて、読んで、ノートは四冊目になった。カードを持ち歩くのはやめた。フードは被ったままだ。彼女とは毎日楽しいお喋りをしている。雨はまだ降っている。水は苦くて辛い。脚が汚れている。着替えて学校に行かなきゃ。
僕の話を聞いてくれて、ありがとう。